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水滸綺伝第三回(三)

【第三回 史進、夜半に華陰県を去り 魯提轄、拳三発で鎮関西を成敗す】

 (三)


 「小二! 茶だ!」
 銅鑼のように、あるいは陣太鼓のように腹に響くその声は、決して怒りを含んでいるわけではなかった。だが、大男の一声に、給仕は飛び上がらんばかりに体を震わせ、先ほどまでゆったりと寛いでいた客たちの話声は一瞬すうっと音を潜める。
 「はい、はい、ただいま」
 ぺこぺこと頭を下げる給仕の、先程まで自慢げに茶の話をしていたとは思えぬ腰の低さに満足したのか、大男は史進の斜向かいの卓に腰を下ろして大あくびをする。それに安堵したように、客たちの話声はまた、先ほどの活気を取り戻した。
 (武官だろうか、随分と迫力のある男だな)
 どうにも魁偉なその容貌に好奇心をそそられ、史進はぶしつけなほどに大男を眺め続けた。
 胡麻色の頭巾にひっつめ金環で結った真黒な髪はごわごわと固そうで、分厚く鍛えられた体は濃い鸚鵡緑の戦袍の上からでもその逞しさがわかる。柳の大木ほどもありそうな恰幅の腰回りには無造作に紺色の革帯を巻き、黄色の長靴に押し込んだ足は、一蹴りで牛をも飛ばせるほどの大きさである。
 太い鼻筋も大きな口もぎょろりとした目もぴんとした耳もどこか獣じみているのだが、丸い顔の中でそれらがどたばたと動き回ってはおおげさに表情をつくり、豪気な髭を震わせている様からは、どうにも憎めない愛嬌を感じるのだ。史進はふと、少華山に別れてきた短気な好漢のことを思い出した。
 「そうだ、旦那。先程の王教頭のことなら、あの方にお尋ねすればいいんですよ」
 大男に茶を出し終えた給仕が、小走りに史進のもとへ戻ってきたかと思うと、そっと耳打ちする。
 「あの方は経略府の提轄殿。きっと旦那の尋ね人もご存じのはずです」
 「何?! それをはやく言わないか!」
 がつ、と茶碗を卓に叩きつけ、史進は勢いよく立ち上がった。さっそく大柄な提轄の方へ歩み寄ろうとするが、草鞋を脱いでいたことを忘れ、不覚にもつんのめりそうになる。
 「なんだ?」
 一人あたふたと騒がしい音をたてる史進の様子に、逆立った真黒な眉毛をぐいとあげ、提轄もまた茶碗を卓に置いた。怒っているというよりは、単に不思議がっているだけのようだ。
 「いや、あの、これは……お騒がせしてすまない……」
 慌てて草鞋を履きなおし、史進ははやる気持ちを抑えて拱手する。
 「提轄殿、よければこちらの席で茶を召し上がりませんか?」
 提轄は、丸い目をさらに丸くして、史進のなりを頭からつま先までじい、と見つめた。そうして何かに得心がいったのか、大きな口の端をにかりと吊り上げ、立ち上がって拱手を返す。
 「どうやらあんたは好漢のようだ、喜んで」
 茶碗を手に史進の向かいへと席を移した提轄は、ぐびりと茶を飲み干し、髭についた水滴を袖口でぐいと拭った。
 「あんたと会うのは初めてだと思うんだが、何か俺に話したい事が?」
 「その……失礼ですが、提轄のお名前を伺っても?」
 「俺の姓は魯、名は達。この渭州の経略府で提轄を務めているもんだ。兄さん、あんたは?」
 「魯提轄、俺の姓は史、名は進。華州の華陰県から来た者です。実は、魯提轄が経略府にお勤めと聞いて、どうしても伺いたいことがありまして……その、人を、探しているんです。俺の武術の師匠で、姓は王、名は進、かつては東京開封で八十万禁軍の教頭を務めていた方。この方が、ここの経略府におられるのではないかと」
 「待て!」
 さすがの史進も、その大声にはびくりと肩を揺らした。まわりの客たちも何事かとおっかなびっくりこちらに視線をよこしているのがわかる。
 「華陰県……史進……?」
 大声を出した当の本人は、もじゃもじゃと顎髭をひねくり丸い黒目を泳がしていたかと思うと、分厚く大きな両手をばちりと打ち鳴らした。
 「兄さん、あんたもしかして……史家村の庄屋をやっていた、あの史進か? 九紋龍って二つ名の?!」
 「あ、ああ、いかにも」
 「あいや、これはなんてことだ! あんたの名を知らん好漢はいないぞ! まさかこんなところであんたに会えるとは!」
 「ろ、魯提轄、どうかお座りください」
 再び立ち上がり、目を輝かせながら拱手を繰り返す魯達を慌てて座らせ、史進は彼の椀と自分の椀にたっぷりと茶を注いだ。急いで茶を煽ったのは、どうにもほころんでしまう口元を隠すためでもあった――まさか、こんなところに、己の名前を聞いて目を輝かせる者がいるとは。
 江湖にこの名を知らしめるという野心のままに武芸に励み、少華山の頭領たちも己の名前に震え上がってはいたのだが、こうして見知らぬ土地に住む者の耳にまで己の名が届いているのを目の当たりにすると、胸が震えるのを抑えきれない。しかも魯達のような、いかにも豪傑然とした武官の男に知られているとなれば、なおさらだ。
 「なんと、史大郎ともあろう男がこんなところで茶をすすっていてはいかん。よし、酒を飲みに行くぞ! あんたに一献捧げたい」
 「ま、待ってください、提轄。あんたと盃を交わせるのは嬉しいが、その前にできれば、さっきの答えを教えてほしい」
 「さっきの答え?」
 「王進という方をご存じないかって……」
 「……ああ! すまんすまん、その話だったな」
 きょとん、としたかと思えば心底申し訳なさそうに眉尻を下げる、その爛漫さに史進はくすりと笑った。
 「その王進教頭ってのは、もしや、東京で高俅の糞野郎に疎まれ追われた、あの王進殿のことか?」
 「まさにその人だ! ご存じで?」
 「俺もあの方の名は知ってるが、残念ながらここにはおらんぞ」
 あからさまに肩を落とした史進を見て、肉付きのいい指に髭を絡め、魯達が唸る。
 「確か今は、延安府経略使の种老公のもとで仕官していると聞いた。延安府に行きゃ会えるはずだぞ、そうがっかりするな」
 「実は、延安府にいるっていうのは俺も聞いていたんだ。ここは、延安府から遠いのか?」
 髭を弄う魯達の手が、ぴたりと止まった。
 「……史進、ここで経略使をやってる小种公殿は、种老公殿のせがれだが、この渭州は延安府から随分遠いぞ。延安府は華陰県の北、ここは華陰県の西だ」
 「なんだ、そうなのか! ひたすら華陰からまっすぐに来たんだ。なんとなく地図に一本道の覚えはあったんだが、反対に進んでいたんだな」
 「ハハ、豪快なやつだ!」
 どうしようもない己の失態に、膝を打ってひとしきり笑いあったあと、史進は立ち上がり荷物を背負いなおした。
 「そうとなれば、また日を改めて延安府を目指せばいいだけだ。魯提轄、今日はぜひ、盃を酌み交わさせてください」
 「もちろんだ。その前に……その『魯提轄』ってのはやめてくれんか。どうにも居心地が悪い。もっと気楽に話してくれ」
 「わかったよ、魯兄貴」
 「それでいい。おい、小二! この人の茶代もまとめて俺が後から払うからな!」
 給仕の返事も聞かぬうちに、史進は魯達に腕をひかれ、再び渭州の街中に舞い戻った。まるで初めて会った気がしないほど気さくな大男と肩を組み、この街の名物の話などしながらしばらく歩いていると、何やら通りに溢れんばかりの人だかりができている。
 「兄貴、ここはずいぶん混みあっているね。何かあるのか?」
 「なんだ、気になるのか? 少し見ていくとしよう。やいお前ら、道をあけろ!」
 半ば強引に人ごみをかき分ける魯達に付いていくと、そのど真ん中にいたのは、十本ほどの棒を手にした逞しい男だった。彼の足元には膏薬を盛った皿が十枚並んでおり、その一つ一つに値札が挟んである。
 「ほう、この薬売りの棒術は、こんなに人を集めるほどすごいのか」
 疑わしげな魯達の言葉も尤もだったろう。男の、菱のように骨ばった顔に浮かべる笑みはどこかへらりと気弱げで、体つきこそ逞しいが、凄腕の棒術使いというよりはお人良しの薬売りと言う肩書のほうがよく似合う――だが、史進はこの男が、ただの陽気な良民ではないことを知っていた
 「李忠殿、師匠、お久しぶりです。こんなところでまた会えるなんて」
 「……ん? あれ、お前、史進じゃないか!」
 のしのしと姿を現した巨漢に戸惑い顔を青くしていた男は、史進の声にはっと顔をあげ、一転して晴れやかで人の好い笑顔を浮かべ駆け寄ってきた。その笑顔は、かつて故郷で史家の屋敷の門を叩いた時と変わっていないように見える。
 「しばらくぶりだな! 何故ここにいる?」
 「まあ、いろいろあってね……。師匠、知っているかもしれないが、この方は提轄の魯達殿。魯兄貴、この人の名は李忠。以前、故郷で俺に棒術を教えてくれた師匠の一人でね。江湖では"打虎将"の二つ名で通ってるんだ」
 「ハハ、なんだ、ただの薬売りかと思ったら、史大郎のお師匠さんだったとはな! そりゃあ人目も集まってくるわけだ」
 「い、いてて」
 魯達の分厚い掌でばしりと肩を叩かれれば、さしもの李忠もその身をふらつかせるほかない。
 「ここで会ったのも何かの縁だ、あんたも一緒に一献やろうじゃないか」
 「は、はあ……提轄殿の申し出はありがたいが、今は仕事の最中でして。この膏薬を売って銭をもらわなきゃ、ここを離れられませんよ。もう少しだけ待ってくれませんかね」
 「何をごちゃごちゃと。待ってなどいられるものか、行くと決めたらすぐに行くんだ」
 「そうは言っても、これで俺は飯を食っているんです。どうかお先に飲んでいてください。史進、提轄殿を先にお連れしてくれ」
 「まったくわからん奴だ!」
 魯達は李忠の手から棒を一本取り上げると、それをぐいと天にかざし、野次馬たちを一喝した。
 「やい、貴様ら、こんなところで油を売っていないで、とっとと仕事に戻り両親に孝行せんか! さっさと行かねば痛い目をみるぞ」
 「あ、おい、待ってくれ……あぁ…」
 魯提轄の癇癪玉が爆発するとどうなるか、渭州の民はよくよくわかっているらしい。蜘蛛の子を散らすように逃げていく野次馬たちの背に伸ばされた李忠の手は、力なく元の場所へと垂れ下がった。
 「まったく、提轄殿は短気なんだからなあ」
 「つべこべ言ってないで、それ、自分の荷物を担がんか」
 ため息をつきながら商売道具をまとめる李忠に、史進はそっと耳打ちした。
 「師匠、あとで俺も一緒に膏薬を売りさばきますから」
 「ああ、そりゃいい考えだ。お前なら、顔だけで客を集めることができるだろうさ」
 「……どういうことだ?」
 史進は己の顔をぺろりと撫でると、魯達がまた癇癪を起こす前にと李忠の荷造りをせっせと手伝うのだった。


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