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水滸綺伝第三回(二)

 【第三回 史進、夜半に華陰県を去り 魯提轄、拳三発で鎮関西を成敗す】

 (二)

 「なあ、史進、どうしても行っちまうのかよ」
 いい歳をしたふてぶてしい大男が唇を尖らせて拗ねている姿は決して様にならないのだが、跳澗虎陳達ともなれば、そんな表情すら愛嬌の一つとなるのだからつくづく不思議というものだ。
 「あのなあ、達兄。さんざん話し合って決めただろ。これ以上引き留めるのは野暮ってもんだよ」
 諭す口ぶりの楊春の顔にも、隠し切れぬ不満や名残惜しさが滲んでいるのは、決して史進の自惚れではなかったろう。
 「まったく、この俺たちがお前を兄貴と呼ぼうと言うのにそれを断るとは……まさか、路銀までは断らんだろうな」
 「ああ、ありがたく頂くよ」
 朱武の手から銀子の入った袋を受け取り、史進はつば広の白い范陽帽の下からそろりと彼の顔を伺った。
 「怒ってるのか?」
 「まさか。お前が行くと決めたんだ、これ以上俺たちに止められはせん」
 たった数日前のことが、遥か夢の彼方の如く感じられる。だが、事実、史進は生まれ育った家を焼き、父に託された村を去ったのだ。
 三頭領や使用人たちとともに少華山へと逃げ込み、気を落ち着けて考えてみれば、随分と大胆なことをした。それでも後悔はない。初めて自分で、外へ出ることを選んだ。家も財もない身は軽く、どこまででも歩んでいけるような気がする。だが一つ気がかりは、父に託された村のことだった。
 「……村のことを頼むよ。あんたらが背後にいれば、衙門のやつらもそう手出しはできないはずだ。それに俺の使用人たちも、少しは武術の心得がある。どうか稽古をつけてやってくれ」
 これから史進は、延安府に向かう。忠義と策謀、愛情と憎悪、正義と理不尽――矛盾だらけの世の中を、もっと知りたいと思った。
 旅立ちを決めた史進を、朱武たちは当然のように引き留めた。彼らは、この山寨の一の頭領の座を譲ってもいい、それが嫌ならほとぼりが冷めたころに家を建てて良民に戻れるようにしてやる、と熱心に説得した。
 だが、義侠心のかけらもない腐りきった衙門にへつらいながら田舎の村に閉じこもっているよりも、潔白の身を汚して山賊となるよりも、無二の師を頼り、見知らぬ地でこの力を試したかった。きっと父も、許してくれるに違いない。
 「ちぇ、少華山の頭領の座を蹴っていくんだ、せいぜい立派になりやがれ」
 ぬっと陳達が差し出した包みには、うまそうなおやきが詰まっている。受け取れば、まだ仄かに温かい。
 「はは、こんなふうに言ってるけど、達兄は史進にいつでも戻ってきてほしいと思ってるのさ」
 「てめえ、楊春!」
 「なんだよ、朱武の兄貴だって俺だって、同じ気持ちだぜ」
 楊春からの餞別は、見事な一振りの鴈翎刀だった。
 「あんたの三尖刀は目立ちすぎる。あれには及ばないかもしれないけど、これもなかなかいい刀なんだ、持ってけよ。まあ、奪ったもんなんだけどさ」
 「……ありがとう。大事にする」
 背に負った包みに銀子とおやきを詰め込み、鴈翎刀を腰に提げ、白い詰襟の戦袍によく映える黄色の首巻を結びなおす。
 「九紋龍史進……達者で」
 「あんたらと過ごしたことは、忘れない。いつかまた、必ず帰ってくるよ。華陰は俺の故郷だ。それまで……元気でいてくれよ」
 陳達の、楊春の、そして朱武の瞳にさえも、こみあげる惜別が光っているのに引きずられ、史進の眼頭もまた熱くなる。その熱が零れ落ちないうちに、史進は少華山の山門にくるりと背を向けた。
 「史進……!」
 草鞋の底で一歩一歩、新たな道を踏みしめる。その足取りは、次第に鼓動よりも早くなる。史家村の若旦那という肩書を捨てた身体に、秋の風が心地よく吹き付ける。
 「……安……に向……道は反……だぞ……!」
 その風に半ば吹き消された朱武たちの声が、背を押しているかのようだった。

 王進が史家村を旅立つ前、一緒に地図を見た。
 延安府に向かう、と師が言ったので、地図から延安府を探した。
 延安府は、史家村の上の方にあった。そして少華山は、史家村の下にある。つまり少華山を背に、村と同じ方向に、村を避けながら歩いていけば良い。地図など必要はないだろう。延安府は村のほぼ真上にあったのだから、街道を二、三本、左か右にずらして、ただひたすらまっすぐ進めばいいだけなのだ。
 道中、秋深まる山並みも、ぽつりぽつりと現れるこじんまりとした村も、文人ならば詩のひとつやふたつ口ずさむような風情であった。
 けぶる雲に沈む夜の林も、うっすらと紅色に染まる朝の山道も、決して史進の歩みを阻むものではなかった。
 夜明けを告げる鶏の声を、落日に嘆く犬の遠吠えを、何度聞いたか知れぬ一人旅の終着点が見える頃には、興奮気味に吐く息も白さを増していた。
 「渭州、か」
 城門に掲げられた額を読み上げ、史進はふむ、と顎を撫でる。少華山からひたすらまっすぐ歩いてきたのだから、道を間違っているはずはないのだが、いかんせん、地図では延安の場所しか見ていなかった。ここが延安府の一部なのか、はたまた違う街なのか史進にはわからなかったが、どうやらここにも経略府はあるようだ。ならば、王進の居場所もすぐにわかるかもしれぬ。
 「にぎやかな街だ」
 旅路の食糧を詰め込んだ包みを背負いなおすと、史進は、往来途絶えず賑わう城門をくぐった。渭州の街並みは華陰よりも数段立派なもので、思わず笑みが零れ落ちる。道端には野菜や雑貨を売る商人たちが威勢よく立ち居並び、着飾った男女や暇そうな農民、やせ細った乞食といったさまざまな種類の人が、さざ波の如く彼らのもとに寄せては返している様は、さすがに長旅に疲れを覚えていた史進の心を浮き立たせた。
 「お茶だよ、渭州城下で一番うまいお茶と、点心もあるよ、寄って行ってよお客さん」
 初めて訪れた街の物珍しさに、暫くはうろうろと大通を歩き回っていた史進だったが、ふと耳に飛び込んできた給仕の掛け声にようやく足を止めた。声のした方を見やれば、右手の小路の入り口でひっそりと幟をあげる茶店の前で、男がにこやかに客を呼び込んでいる。
 「あ、旦那も、いかがです。旅の疲れをうちの自慢の茶で癒しては?」
 目があってしまえばもうあちらのもの、給仕の言葉にすっかり疲れを思い出してしまった史進は、彼に導かれるまま小さな茶店の門をくぐった。
 「なんだ、思いのほか繁盛してるんだな」
 「ええ、おかげさまで。うちはこう見えて、世宗帝のころから続く老舗なんですから!」
 外から見ればこじんまりと冴えない店に見えたのだが、中に入ってみればなかなかに瀟洒な店構え。けばけばしすぎず、かといって田舎臭すぎもしない内装もさりながら、店内にはうまそうな点心の匂いが立ち込め、洒落た器で茶をすする客たちの表情もみな一様にくつろいでいる。案内された席にどかりと腰をおろし、草鞋を脱いで椅子の上にだらしなく片足をあげた史進のさまを見て、近くの席に座っていた女たちが密やかにさざめき笑う。
 「旦那、お茶は何をお飲みに? 白毛茶はどうです? 昨日なんて、西川の嘉陵からきた商人さんが、真っ白い着物にまで飲ませちまったくらい、喜んで飲んでたんですから」
 「俺には茶の味の違いなんてわからないからな、とりあえず煎茶をくれ」
 「おや、残念」
 己に茶のすすめを説いても無駄と悟ったらしい給仕がさっさと準備を始める、その背に向かい、史進は「おい小二」と小声で問うた。
 「この街の経略府は、どこにあるんだ?」
 「それならすぐ目と鼻の先ですよ。ほら、あそこに赤い旗がたっているでしょ、あれが経略府ですよ」
 給仕が指さしたほうを見れば、いかにも武人らしい男が数人、赤い旗の前で談笑しているようだった。窓越しに見える彼らの精悍な横顔に、ふと師の面影が重なる。
 「なあ、経略府に、開封東京からやってきた王進という名の教頭がおられるはずなんだが、知ってるか?」
 「はて、あそこには教頭と名の付く人はたくさんいますしねえ。王という姓の方はたしか三、四人おられるはずですが、さてどなたが王進さんかは」
 「そうか……」
 やはり経略府に赴きこの目で確かめねば、と史進が再び度赤い旗に目をやった刹那。
 旗の陰から、ぬうっと姿を現した者があった。
 ――随分と人目をひく大男である。
 みっしりと生えた真っ黒い豪気な髭と、ぎょろりと光る大きな瞳は、店の中から遠巻きに見ていても並みならぬ気迫を感じる。行き交う人々よりも優に頭三つ分は上背があろうかと言う堂々たる体躯もまた、無骨で粗野な顔立ちが醸し出す凄みに拍車をかけている。
 「さ、旦那、うちは煎茶だって極上なんですからね」
 給仕が差し出した茶碗から立ち上る湯気の向こうから、その大男が肩で風を切ってこちらへ歩いてくるのを、史進はじっと見ていた。

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