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茨沼・月輪の章 第一回(一)

 百八つ目の鐘の音が筑波おろしに凍える頬を震わせる頃、桃花鳥沢太郎の頭の中ではただ、「腹が減った」と言う太い太い文字だけが不満げに明滅していた。
 だいたい、大御堂までの徒で既に、詰め込んできた僅かな年越し蕎麦は胃の府から消え去ったのだ。それなのに、これから初日の出を迎えるため筑波山を登ると言うのだから、気力が湧き出て来ようはずもない。
 「なんだ、もう腹が減ったか」
 主の不満を代弁したかのような腹の虫の大声は、新年を寿ぐ賑わいの中ですら誤魔化しきれなかったらしい。鐘の音の遺響に身を浸すかの如く、右隣で暫し瞑目していた背の高い人影が、呆れた声をあげた。
 「蕎麦を食ったばかりだろう」
 「あのねぇ、俺は赫弥さまより四つも若いから、あれっぽっちの蕎麦なんてすぐにこなれちまうんですよ。もう、初日の出なんていいから、さっさとお参りして帰りましょうよ」
 「……まったく、減らず口だけは一流だな」
 一段高い所にある主の顏の中で、一際見る者を惹き付ける夜色の瞳が咎めるように撓む。
 「今日でお前も二十四、本厄の歳だから、隣の神社で厄払いも頼んである。子どものようなことを言わずに、少しは新年の筑波を楽しんだらどうだ」
 責めるような言とは裏腹に、声色には些かの棘も無い。仄かに紅葉を刷いたような薄い唇の、その端に灯った笑みは、十年の月日を経てなお変わらぬ温もりに満ちてさえいた。
 関東に住むものならば、いや、日本に住むものならば誰もが名を知るであろう誇り高き武人・山本赫弥――名月の夜が人の姿を取ればこのようであったかと思わせるような、凛とした静謐をまとう美丈夫の、その人となりを慕うものが星の数ほど居ようとも、彼が手のかかる弟のように情を交わす人間は五人と居ない。そのうちの一人が誰あろう己自身であることに気付かされる度、太郎は深い愉悦を覚えるのだった。
 「もしかして今年は、俺のために正月休みを取ってくれたんですかぁ」
 「否、偶然今年は巡りが非番と言うだけだったが……そうだな、お前がこれ以上女難に合わぬよう厄払いをするために、非番でなくとも休みを取ったかもしれない」
 「……それって、喜んでいいのか怒ったらいいのかわからないんですけど」
 「素直に喜んでおけばいい」
 濡れたような黒髪のひと房が、すっきりとした富士額の上を緩慢に流れてゆく。「さあ、行くぞ」と、まるで聞き分けのない童に向ける母の手のように差し出された左手を握り返せば、初めて彼の手をとった日の事が、今宵は気配すら感じられぬ雪の香をともなって思い起こされるのだった。

 未だ天永年間と呼ばれる先帝の御代であった十年前の正月は、珍しいことに、関東の地に薄らと白雪が積もっていた。鼻の穴すらびりりと痛むような寒空の下、その日も太郎は、むっつりと口尻を下げて押し黙っていた。空は両手に包み込みたくなるほど澄み渡っているというのに、筑波山のもたらす乾いた風が小雪を四方に散らし、おさまりの悪い太郎の猫毛も踊るようにあちらこちらを向いていた。
 「これは桃花鳥沢殿、この雪の中、よくぞ参られた」
 「や、お気遣い、痛み入り申す。山本殿、新年が恙無く明けましたこと、心よりお祝い申し上げます」
 父が挨拶を交わす男が誰なのか、早朝から叩き起こされ、座り心地の悪い駕籠に乗せられ強引に連れてこられたこの屋敷が何なのか、その頃の太郎にとっては至極、どうでも良いことだった。半ば寝ぼけた頭の中は、地元足利のとある甘味屋で見かけた娘のことで一杯で、他に気をやる余裕などない。
 「……して、こちらが件のご子息か」
 「ええ、これがもう、どうしようもない愚息ではあるのですが……ほら、太郎、山本殿にご挨拶を」
 はっきりと何を言ったかの覚えはないが、おそらくぞんざいで小生意気な挨拶をしたであろうに、男――筑波郡を治める名領主にして、東日本に並ぶもの無しと謳われる剣豪・山本滝一は、確かそのとき、おかしげに目を眇めていた。今にして思えば、あの頃の己はと言えば、未熟さゆえの傲慢と怠惰に人一倍身を浸し、まるで自分勝手に生きていたのだと思う。それゆえ父は、「愚息」の「研鑽」のために、希代の名門武家であり、旧知の仲でもあった山本家に己を仕えさせようとしたのだが、果たして山本の当主は、いったい、太郎の何を認めたがゆえに、奉公を受け入れたのであろうか。
 (御奉公なんて、まっぴらだ)
 桃花鳥沢家の一人息子として生は受けたが、所詮は親戚からも揶揄されるように「分家の能天気な道楽息子」である。お家のしがらみからも程遠い田舎でのんびりと育った少年にとっては、「お武家様」の家来としての生活など、まったくもって窮屈極まりない。すでに決まりきった話であったらしい奉公話は差し置いて、父と当主殿が久方の四方山話に花を咲かせはじめた頃あいを見計らい、太郎は厠へ行くふりをして、なんとか足利に帰らなければと屋敷の外を見回りはじめた。
 「筑波は、寒いなぁ」
 骨まで断ち切るような寒風はやけに気まぐれで、おさまったと思えばまた激しく襲いかかってくる。この日のためであったか、父が新調してくれた虫襖色の綿入り羽織をきつく引き寄せ、珍奇な野良犬でも見たかのような使用人たちの眼差しを避けるようにせかせかと歩く。
 山本家の屋敷は、領主の屋敷と聞いて想像する姿より遥かに質素な佇まいであったが、さすがその敷地は足利の我が家の倍以上はあるようだ。立ち入ってよいものか戸惑うほど整然とした庭園の石畳を踏みしめ、ようやく己の背丈でも超えられそうな生垣を見つけたときには、僅かに乱れた吐息が宙に白い斑点を刻んでいた。
 「俺は、足利に、帰るぞ」
 かじかんだ手をこすり合わせて竹柵をつかみ、念のためもう一度、人の目がなかったかとぐるりを見渡したとき。ふいに、近くの納屋のような場所から、黒い人影が姿を見せた。
 黒無地の着物から伸びる手足は柳の如くたおやかであるのに、その左手にはしっかと木刀が握られている。背に流れる髪は絹織物の繊細さを秘め、風に嬲られる度に黒から濃紺、あるいは紫紺へと色を変える。鼻筋の通った怜悧な乳色の横顔の中で、新年の祝い酒でも煽ったか、頬に淡い曙が差しているのがこちらからでもわかった。
 あ、見られた、と、言葉に出したつもりであったのに、喉から出たのは、ひゅう、という、無意味な喘鳴だけだった。そうして、その微かな音を拾いでもしたのか、黒い着物をまとった人は、薄らと足元につもった雪を崩すこともない典雅な所作でこちらへと振り向いた。
 絶句する、という言葉を身をもってあらわすならば、誰もがその瞬間の太郎の様になっただろう。生垣の前に突っ立つ見知らぬ童を捕らえたその瞳――世間を知らぬ未熟な太郎にすら、そこに相宿る高潔な誇りと包み込むような慈愛が感じられるほどに、果てしなく深い瞳だった。十数歩の距離を挟んですら、星を散らした夜空のような輝きが見える。濃く長い睫は微動だにせず、衛士のごとき凛々しさをたたえた眉の下で、木の実の形をした夜空の瞳を縁取っていた。誰何を問おうとしたか、僅か開いた唇の、刷毛で描いたような精緻な様を見せ付けられてはもう、その時まで太郎の頭をいっぱいにしていた田舎娘の面影など、跡形も無く消え去っていた。
 「あ、あの……ねえ、君、山本家の子?」
 おそらく年上であろう相手に、しかも今はじめて見あったばかりだというのに、あまりに馴れ馴れしくはないかとさすがに己自身でも気が引けた。だが、これほどまでに美しい武家の娘と言葉を交わせることなど、この先そうそうないかと思えば、多少の無礼はあったとしても、強引にでもお近づきになりたいというのが本音である。人に警戒心を抱かせぬと自負する笑顔を浮かべ、太郎は十数歩の距離を数歩のところまで縮めた。
 「俺、今日からここで奉公することになってさぁ。家を離れるのは少し寂しいけど、でも君みたいな子がいるなら、ここで暮らすのも悪くないね」
 つい数瞬前まで生垣を越えて逃げようとしていた者とは思えぬ朗らかさでまくしたてる太郎はしかし、目の前の顔が、筑波おろしよりなお厳しい冷ややかさをよぎらせたことに気がつかなかった。
 「お武家さんちは、お姫様でも剣を習うんだねぇ。 俺もちょっとは腕に覚えがあるし、手合わせでもしてみない? もちろん、ちゃんと手加減して」
 新調したばかりの羽織から零れ落ちた綿が、視界を舞った。
 「 え ……」
 はやも眼前に迫った夜色の瞳が、小雪に紛れて風に吹かれる綿の向こうで閃光を放つ。
 「腕に覚えがある、と言ったか」
 仄かな酒の香を乗せた吐息とともに零れた声を聴き、己に木刀を向ける麗人が「お姫様」ではなく「若君様」であることを知る。 いや、よくよく見れば、柳と見紛うしなやかな長身の立ち姿は凛とした若武者の威風を湛え、まったく付け入る隙もない。柔らかな艶を纏っていたのは酒のせいだったか、乳色の顔には今や戦場で敵将を前にした気迫すら感じられ、当代一の絵師や彫刻師ですら写し取ることの叶わぬような顔の造作にも、決して女のようになよとしたところはなかった。
 「恥ずかしながら、この山本赫弥、俺の有様をご覧じ女子と評されるほどに腕利きの剣豪と伺っても、ご尊顔に覚えがありませぬ」
 いったい太郎のどこを見ても、名うての剣豪に見える場所などありはしないのだから、これはどうやら心の底から彼の怒りを呼び出したらしい。
 「だが、ここで貴方に出会えたのも何かの縁。わが剣術が女子の手遊びなどではないこと……その身でとくと知るが良い!」
 彼の持っていたのが真剣だったならば、太郎の頭は今ごろ西瓜の如く真っ二つに叩き割られていたことだろう。
 「いっ……たあ!」
 唸りをあげて振り下ろされた木刀の一撃を脳天に食らい、頭を抱えて倒れこんでもなお、美しき若君の手は緩まない。赫弥、などと、いにしえの御伽噺を思わせる雅な名からは思いもよらぬ、烈火の如き剣捌きの前では、常から稽古を厭ってばかりの太郎になすすべなどあろうはずもなかった。
 「童よ、先刻の余裕はどうした? 剣術のけの字も知らんわけではないだろう」
 「ひえっ、ぎゃっ、け、剣豪殿、俺が! 俺が悪かったです、ゆるしてぇ」
 「……ふ」
 剣先から逃げるだけならばできるであろうに、律儀にもすべての剣を――主に尻に――受けたのは、決して太郎が鈍くさいからというだけではなかった。真に、見惚れたのだ。今度はいでたちではなく、その剣捌きに。
 「お武家様」と呼ばれるほどの名家ではなくとも、太郎とて侍の子である。稽古は嫌いでも、剣術に興味が無いわけではない。己や、己の師ですら敵わぬほど淀みのない、洗練された太刀筋。細身の体に宿る鬼神の力。月光の舞うかと見紛う身のこなしに、本気になれば、木刀であろうとこの男は己を殺すことができるのだと戦慄した。
 「まったく、情けない童だな。すべて当たったぞ」
 「だ、だって……」
 顔を覆い守る腕の合間から拾った声が和らいだことに安堵して、おそるおそる赫弥を仰ぎ見る。
 「尻はともかく、頭は痛かっただろう。立てるか?」
 木刀を地に投げ捨て、差し出された左手は、決してその眉目に値う白魚のような繊手ではなかった。長い指に、骨ばった掌に、いくつも重なった肉刺や古傷。短すぎるほどに切られた爪は、あちこちひび割れている。男の心にすら恥じらいを生むような顔をよく見れば、右のこめかみのあたりにうっすらと、消えぬ傷跡が残っていた。
 「少し、やりすぎたか」
 理知的な眉の下で厳しく眇められていた瞳が、ふと、蛍火の燐光を纏い柔らかく撓む。目元と唇だけに宿した笑みの、その穏やかな刹那さに触れたとき、太郎の内に、どうしても彼に言わなければならぬ言葉がうまれた。
 「あ……あの、怒らないで、聞いてくれますか」
 問いかけておいて答えも聴かずに思い切り下げた額が、白く濡れた地をこすった。
 「あなたに……あなたに、お仕えさせてください。あなたの剣を、見せてください。教えてください。あなたと共に、命を懸けて戦える男にしてください!」
 額の熱が、白雪を溶かして髪を濡らす。いつかこの身が真っ赤な血に濡れたとしても、最期までこの清廉な侍の隣に立っていられたら、どんなにそれは幸福だろう。痛々しいまでの誇りと誰も届き得ぬ才が、未だいとけなさの抜けきらない顔に齢以上の深い情と孤独を刻ませているのだとは、その時知る由もなかった。ただ、彼の隣にあり、彼の鮮烈な生きざまを見つめ、彼に少しでも多くの時をともに笑顔で過ごしたいと言う、根拠のない茫漠たる想いが怠惰な田舎の少年を突き動かした。
 「……面をあげよ」
 雪にまみれた太郎の顔は、よほど間抜けに見えたに違いない。のちに国中に名を馳せることとなる若き剣豪・山本赫弥は、眉尻をさげ肩を震わせながら、差し出したままの左手で太郎の顔を母親のように拭った。
 「では、もう、逃げ出そうとしないのだな。桃花鳥沢太郎――」
 おっかなびっくり握った赫弥の手は濡れて凍えきっているのに暖かく、何時から知っていたのか己の名を呼ぶ声は、とても静かに空気を揺らした。
 「今日よりお前と俺は、師弟であり、そして友だ。俺とともに戦うと言うのなら、どんな厳しい修練にも耐えると約束してくれ」
 「……はい!」
 そうして小雪が、一心不乱に降り始めた。


 「……郎……太郎!」
 「はい! いでっ!」
 緩やかなまどろみの淵から急激に現へと呼び戻された太郎を最初に襲ったのは、苛立った囁きの感触と尻への衝撃だった。
 「赫弥さまぁ、もう、尻は堪忍して……」
 「人聞きの悪いことを言うな。まったく、祓の最中に居眠りをするとは、呆れたやつめ」
 「へ? あ、すみませ……」
 眉根を寄せて溜息を零す赫弥の様に、赤い顔で卒倒しかける巫女たちの姿が視界の端に映りこんだところで、ようやく太郎は夢と現の間から抜けだした。思えば、大御堂の隣の神社に場所を替え、太郎自身の厄払いの真っ最中ではなかったか。尻の痛みは、船をこいで床机から落ちたものらしい。目の前では、迷惑そうな顔をした禰宜が、青白い髭を震わせている。
 「お前が眠りこけている間に祓は終ったぞ。この様子では、祓ったものも舞い戻ってくるかもしれんな」
 「そんなあ……あ、でも、俺になんか災難があったら、赫弥様が助けてくれますよね。俺ってば幸せ者だなあ……って、あ、ちょっと、待ってくださいよぉ!」
 へろりと笑う太郎をおいてさっさと本堂をあとにしようとする上背に、床板の冷たさが身に凍みてまろびそうになるのを押しとどめながら、あわてて追いすがる。
 「もぉ、俺、今せっかくいいこと言ったんですよ? 聞いてました?」
 「そんなことより、お前がこの調子だと、はやくしなければ御来光を逃してしまう」
 「お祓いしたし、もう御来光なんていいですよぉ、帰りましょう?」
 「そうは行かない。吾妻とも約束してしまったから」
 「……ふぅん」
 への字口で押し黙った太郎の様子にも、赫弥は慣れたものである。十年もの月日をともにすごせば、太郎が何を思っているかなど、彼には手に取るようにわかったろう。
 「”姫”は、やさしいお兄ちゃんですね」
 「……沼田屋の饅頭を好きなだけ買ってやるから、機嫌をなおしなさい。さあ、行くぞ。五条が待ちきれずに暴れでもしたら大変だ」
 「好きなだけって、絶対、約束ですからね!」
 お決まりの戯言にえくぼを浮かべてけろりとする己の様に、主であり師であり友である男が、呆れの中にも愛おしさを滲ませた微笑を零したことを、太郎はついぞ知らなかった。


(二)へ
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