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水滸綺伝第二回(九)

 【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(九)

 もう日が暮れてからかなりの時が経つというのに、未だ湿り気を帯びる風が、ぬるりと肌を凪ぐ。屋敷の中庭に座し、珍しく押し黙ったまま刀を磨く史進の額にも、とめどない汗が玉を成していた。
 ふと、史家村の若き主は、伏していた目を宙にさ迷わせる。
 どこか遠くから、微かなざわめきが――村人たちの営みとはかけ離れて不気味な音が、聞こえた気がしたのだ。
 「……気のせいか?」
 頬に張り付いた癖毛を指で払いのけ、一文字の眉をぐいとしかめ、そして、
 「わ、若旦那ぁ――!」
 まさに脱兎の如くと形容すべき速さで、使用人の一人が中庭に駆けこんでくる。目を見開き、上ずった声で史進を呼ぶ男の様子に只ならざる事態を察した史進は、ゆったりと腰かけていた床几から勢いよく立ちあがった。
 「どうした!」
 「わ、若旦那、ついに……ついにっ……きました、やつらが……少華山の賊どもが!」
 「……来たか」
 すう、と息を吸う。みちりと重量を伴って漂っていた風が、急に勢いを増す。正体の分からぬ微かなざわめきは、潮騒の如く徐々に形をなして近づいてくる。
 「拍子木を」
 史進の常ならざる静かな声にぎこちなく頷いた使用人が、軒先にぶらさがっていた拍子木を手に取り、思い切り打ち鳴らし始める。その音は山賊たちの鬨の声を背に、凛々と村中に響き渡る。家々から姿を現す男たちの手にしっかと握られた槍や刀が、松明の火を映してぎらりと光る。
 (王進師匠……)
 この日のためにと誂えた武具甲冑を運んでくる王四の目が、いつになく憂いを帯びている。
 「なんだよ王四、そう心配するな」
 「ですが……坊ちゃんに何かあれば、あの世で大旦那様に合わせる顔がございません」
 「坊ちゃん、だなんて、懐かしいな」
 気ままになびく史進の髪を一字巾の中に押し込む王四の骨ばった手を軽く叩き、たいしたことはないのだと言い聞かせるように白い歯を見せる。傷ひとつない緋の鎧に目の覚めるような青錦の上着を羽織り、萌義の長靴を履いた両足で大地を踏み締め、引き締まった腰には皮の帯を、厚い胸には鋼鉄の胸当をまとった威風堂々たる姿になったとて、王四の目に映っているのは、野山をかけまわり遊び暮らしていた手のかかる坊ちゃんなのだろう。
 「見ていろ、王四。王進師匠に授けられたこの力、山賊風情に遅れは取らんぞ」
 一張の弓と矢壷を背負い、大股で屋敷の門前に姿を現した史進の前に、目を爛々と輝かせた村の男たちが平伏する。
 「若旦那、俺たちは、いつでも出陣できます!」
 「やっちまいましょう、若旦那」
 「少華山なんて偉そうな名前をぶらさげたやつら、一網打尽にしてやりまさぁ」
 使用人に引かれて現れた赤毛の愛馬すら、けぶる息を吐き出し落ち着きなく首をめぐらせ、またとない夜に気を昂ぶらせているようだった。
 「皆……」
 ひらりと馬上に腰をすえ、九匹の龍を飼う若武者は、もう言葉はいらぬとばかり、己の得物を高々と掲げた。
 「行くぞ!」
 三尖両刃四竅八環刀――禍々しくも怜悧な威容をたたえる史進の得物は、背後に従えた血気逸る男たちを真直ぐに敵陣へと導いて行く。村の北には今や昼間と見まごうほどの灯が渦を巻き、付け焼き刃の田舎農民なぞ飲み込んでやらんとばかりに唸りをあげている。
 「あいつが首領か?」
 その渦のど真ん中、随分と大振りな白馬の上で胸をそらす男を、史進は真正面からにらみつけた。馬の巨躯にも見劣りしない堂々たる体躯の割に、こちらを見つめ返すどんぐり眼は山賊らしからぬ愛嬌を感じさせる。ひっつめ髪を柿色の頭巾に押し込んで、金を燻した生鉄の鎧の上に紅の上着を羽織り、腰には七尺の精緻な組糸帯、足には爪先細りのとがった靴をまとった様は、田舎の山賊にしては洒落がきいている。肉厚の右手が握り締める点鋼槍は、かおかたちの派手な持ち主とは反対に、射抜くような史進の眼差しにも怯まぬ硬質な沈黙をたたえていた。
 「来たな、山賊ども!」
 大音声をあげた途端、史進の体を支配したのは、緊張でも、村を守る責任感でも、ましてや恐怖でもなかった。
 「罪もない良民を殺し、そこらじゅうに火をつけ、人家とみれば盗みに入る罪人どもめ。まさかこの九紋龍史進の名を知らないわけでもないだろうに、飛んで火にいる夏の虫とは、まさにお前のことだな!」
 口元がほころぶのを抑えきれない。どうしようもなく、楽しい。
 「ハッ、九紋龍なんて大層な名前、どれほど厳つい男かと思ったが、こんな優男の坊ちゃまにお出迎えされるとは。この跳澗虎陳達様も舐められたもんだぜ」
 跳澗虎陳達と言えば、李吉の話では二番目の大王だったはず。こちらこそ、二番手を差し向けられるとは随分と舐められらたものだ。どんぐり眼を細め、歯をむき出して嗤い、四角い顎を覆う無精ひげをかきむしる姿は無気力そのものではないか。
 「安心しな、坊ちゃま。俺たちはあんたの村には用はない。ちょいとうちの城の食い扶持が足りなくなってきたんでね、華陰県のお偉いさんに、借りにいこうってところさ。ただ、華陰県に行くには、あんたの村を通らなきゃいけないから、道だけちょっと貸してくれよ。帰り道にはたんまりお礼を用意してやるからさ」
 「馬鹿を言え、俺はこの史家村の庄屋だぞ? ちょうど村の男たちと、お前ら山賊を捕まえてやろうと話していた所だっていうのに、そうとも知らずのこのこやってきたお前らを目の前にして、はいそうですかと通してなんかやるものか。そんなことをすれば、俺たちも山賊の仲間と思われる」
 「おいおい、四海のうちはみな兄弟、だろ? なあ、坊ちゃま、頼むよ、ちょっと通らせてくれるだけでいいんだから」
 「うるさいやつめ。たとえ俺が許しても、絶対にお前を許さないやつがいる。まずはそいつに話をつけたらどうだ?」
 「へえ、そんな命知らずはどこのどいつだい?」
 こらえきれず、史進は声を上げて笑った。高らかに、笑い飛ばした。
 「俺の刀だ! こいつが承知するか、聞いてみろ!」
 「っ……ふっざけるな!!」
 愛馬の燃え盛る横腹に蹴りを入れ、振り上げた腕に三尖刀を構え、気合一声、陳達の虎の如き幅広顔に踊りかかる。眉間を裂いたかと思われた刀が空を切った次の刹那には、点鋼槍が風の速さで史進の胸元に飛び込んでくる。大きく背をそらして槍先をよければ、主の意をすっかり見通している赤毛の愛馬は軽やかな足取りで陳達の背後にまわる。上体を引き起こしざまに腰をひねり、無防備なぼんのくぼ目掛けて刀を突き出すが、かわされることは分かっている。鐙をふんばり馬の背から腰を浮かせ、狙い定めず力任せにふるわれる鋼の槍を二度、三度と刀で打ちはらい、隙をついて陳達の白馬の足元を凪ぎ払う。
 「くそっ!」
 危機を察して大きく後足をあげた白馬に陳達が慌ててしがみつく、その隙をついて再び左手から回り込み、返す刀で陳達の横っ面を突きあげる。馬上に伏せた陳達の髭がひと房はらりと舞い飛んだ。
 (勝てる)
 目の前の山賊は、馬力こそ史進の倍ほどもあるが、いかんせん小技を持たぬらしい。それは、かつて力を持て余し、何の考えもなく棒をふりまわしていた己の姿にも似ていた。王進に出会い、一から武の道を叩きこまれ、日々の鍛錬に汗を流す今の己が、過去の己に負けるはずがない。
 「舐めるなよ若造!」
 大きく距離をとり呼吸を整えて再び点鋼槍を構える陳達に、躊躇いもなく勢いのままに迫る。三尖刀を大きく振りかぶって空いた胸元を、力任せの槍先が貫こうとする。
 「なに!?」
 限界まで堪え槍先が鎧に触れる寸前で、史進は刀を投げ捨て愛馬ごと勢いよく右手になだれ込んだ。腰をひねった史進から槍先は外れ、渾身の力に引きずられた陳達の半身が目の前で無防備につんのめる。その好機を逃すほど、もはや史進は未熟ではなかった。
 「ヤッ!」
 陳達の腰帯を金剛力の強さで掴み、抗う暇も与えずに丸太のような体を螺鈿の鞍から引き剥がし、
  「……柱に縛り付けておけ!」
重さのないもののように宙を飛んだ陳達の体は、轟と砂煙をあげて大地に叩きつけられた。


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