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鳳仙花 二 (時遷と石秀)


 「げ」
 それは、男伊達の多い梁山泊の好漢の中でも十分色男の部類に入る青年の顔を見て、開口一番発するには少々、品のない声だったかもしれない。
 「げ、ってなんだよ。ここは俺の部屋だぞ……って、ひどい格好だな」
 もっともな御言葉をのたまったこの部屋の主・石秀は、濡れ鼠ならぬ「濡れ蚤」姿の時遷を見ると、それこそ「げ」とでも言いそうなしかめ面で小首をかしげた。
 「ああ、もう、そんな格好で歩き回るなよ、床がぐちゃぐちゃになる」
 「へっ、小娘の部屋でもあるまいし、何をいまさら」 
 寝台からのそりとおきあがった石秀の、すらりと長い手が伸びてくるのをかわす間もなく、ぐしょりとぬれた着物はあっというまにはぎとられ、かわりに大判の手拭いと挑発的な大きさの着物がぶしつけな勢いで投げつけられる。
 「兄貴の背丈のでかさといったら、顔がまったく見えないくらいだね」
 「それはお前の目が細いからさ。そっちこそ、ちいさすぎて顔がよく見えないけど?」
 「けっ、これでも見えないってかァ?」
 「いだっ、いでで、やったな、こら」
 「ひひひ」
 頭突きを食らった額を右手でさすりながら、石秀が左手で時遷の頬をつまむ。
 「まさか、酔っ払って河におちたんじゃないだろうな」
 「そんなわけがあるか」
 「顔が赤い」
 そう言って鼻先で笑うくせに、犬っころのようなつるつるした目を優秀な密偵さながら光らせて、じいとこちらを見つめてくるのだ。
 「そうか? 化粧にかぶれたかもな」
 口がへの字になったのは、たっぷりとすそがあまる着物の丈のせいでもあった。猫の毛の手入れでもするかのように無遠慮な手つきで時遷のじとりと濡れた髪を拭き始めた兄貴分の、そのしなやかな腕とくらべ貧相で生白い自分の腕が、ゆるりとした袖から突き出している。それだけで、胸糞の悪いことを思い出してしまいそうだ。
 「昼飯は? もう食べたのか?」
 「まだ」
 敏い石秀のことだから、時遷の姿に、態度に、何かを読み取っていることだろう。だが、深入りしてくるような野暮な男ではない。いまさら遥か昔の感傷に浸って嘆くほど感受性豊かではないが、わざわざ掘り起こさなくていいものを掘り起こす必要がないこの場所は、居心地がよかった。
 「何か食べにいくか?」
 「昨晩は夜じゅうぶっとおしで仕事したんだ、とりあえず寝かせてほしいね」
 「おい、ここで寝るなよ。俺だって休憩中だぞ」
 「ふん、正規軍の頭領さまはどいつもこいつも、こんなにお日様の高いうちからおねんねできるとはいいご身分だぜ」
 「……あ、こら、どけろって」
 阻止する手をかいくぐり、先ほどまで彼が占拠していた寝台に背中から倒れこむ。泥棒稼業の人生で、そして梁山泊での役割柄も、時遷が寝台のうえでのびのび眠れることは少ない。石秀の部屋は、植木のおかげでほどよく加減された日差しが寝台にさしこむのが心地よいし、何よりここは、誰にもまどろみを邪魔されない。
 「あとで、林冲兄貴に、いいつけて……やる……」
 あー、だか、えーだか、石秀の不満げな声を聞いたと思った瞬間には、すでに時遷の意識は夢の世界へ旅立っていた。

 きっと、一生、誰にも見せるつもりなんてなかったのだろう。それはもちろん、石秀にも。
 大の字になって寝台に飛び込んだくせに、すぐにちいさく丸まってしまった時遷の、見るものの睡魔まで誘う気持ちよさそうな寝顔には、いつもの不遜で軽薄な影は微塵もない。
 すっかり休み時間を邪魔されてしまった石秀は、体躯に合わぬ着物から気ままにつきだす白い足を掛布で覆ってやると、湯飲みを片手に静かに外へ出た。
 はじめてその姿を見たのは、本当に偶然だった。
 祝家荘の戦いが終わって梁山泊に帰還したとき、晁蓋は未だ、時遷を仲間にすることに心から納得していなかった。初めて梁山泊にのぼり、聚義庁の宴会にあらわれた時遷にむかって「このこそ泥め」と片眉をあげた晁蓋に、時遷は大胆にも、「俺はただのこそ泥じゃあありませんから、兄貴も用心してくださいよ」と笑って見せた。
 その夜、たまたま聚義庁の近くを通った石秀は、見たことのない小柄な少年とすれ違った。梁山泊にはそのころからすでに大勢の人間が住んでいたから、見慣れぬ顔があったとてなんら不思議はない。だが、衛兵ならともかく、武器のひとつももたない少年が、なぜ泊内でも最も重要な場所にこんな時間にあらわれたのか――首脳陣になにかあっては一大事と、石秀は少年のあとをつけたのだが、すれ違ったのはつい先刻なのに、まったく姿が見当たらない。
 そうして疑心にかられた石秀が聚義庁のまわりを五周くらいめぐったころ、ふと、空の上に気配を感じた。ぐるりとこうべをめぐらせれば、静かに晴れわたる夜空に墨で線をひくかのようにうごめく影がある。その影があらわれた場所が晁蓋の部屋の屋根だとわかった瞬間、石秀は音もなく駆け出していた。
 体重のない者のように軽やかに屋根から飛び降りたその影を、さらに暗い場所からめいっぱい伸ばした手でぐいとつかめば、幼い子供のようなかすかな悲鳴が耳を打った。それでもかまわず小さな体を木の幹に押し付けたところで、石秀はようやく、不可思議な既視感をおぼえて手をとめた。
 「……兄貴にこうやってつかまるのは、二度目だね」
 片方の口尻をくいとあげる不遜な笑い方。人をくったような言葉を紡ぐ高めの声。義理の姉の姦通を知ったあの日と同じように石秀に捕まえられた小柄な体。たとえ今日まで目にしてきた姿よりずっと若く見えようと、間違いなく目の前の男は、鼓上蚤時遷だった。
 「子供かと思った……」
 「おいおい、そりゃないぜ」
 あっけにとられて力の抜けた石秀の手中から、また時遷はするりと抜けだしてゆく。
 「せっかく命拾いして梁山泊に来られたってのに、親分に気に入られずに追い出されたらたまらないんでね。晁蓋兄貴をちょっとおどかして、話をつけてきただけだ」
 「おどかすって、お前、何を」
 「誤解するなよ? まずは、この鼓上蚤さまがどれだけ凄腕かってのを兄貴の身を持って知ってもらった。兄貴の部屋も、聚義庁のまわりも、厳重に警護されてるのにこんな見慣れない奴がのこのこ入ってくるのを見過ごすなんて、ありえないだろ? そこが俺の腕の見せ所だ」
 無邪気に笑うその顔は、まるで家族に己の手がらを自慢する子供そのもので、石秀もつい口元がゆるむ。
 「でも、俺には見つかったじゃないか」
 「馬鹿を言え、追いかけることも、捕まえることもできなかったくせに。それから、俺の得意技をいくつか披露した……まあ、これも、そのひとつさ。晁蓋兄貴にだけ見せるつもりだったのに、あんたに見られちまうとは、そこだけはぬかったな」
 これ、と言う言葉とともに、時遷が自分の顔を指差す。
 「……つまり、お前は今、変装してるってことか?」
 「いいや」
 軽く首を振る動きにあわせて、猫毛がふわりと揺れる。その仕草は、あどけなさすら感じるほどだった。 
 「ついさっきまであんたが俺だと思ってた姿も、変装の一つってことだ」
 「は……?」
 聞き間違いでなければ、そこで時遷は「どうでもいいこったけどな」と呟いたようだった。とても小さく、乾ききった、か細い声で。
 その日以来、晁蓋が時遷に含みのある態度をとることは二度となく、むしろ本人の言うところの「鼓上蚤さまの凄腕」を買われ、戴宗とともに偵察方の筆頭として重用されるようになった。 そして、晁蓋以外でただひとり、時遷の秘密を共有することとなった石秀にとって、このお調子者の元泥棒は、以前にもまして憎めない弟分のように思えるのだった。
 「……時遷?」
 ちらりと部屋の中をのぞけば、いびきすらかきはじめた「弟分」に起き上がる気配はまったくなく、知らず肩をすくめて笑ってしまう。三人兄弟の末っ子として育った身には、弟という存在は些か面倒で、くすぐったい。
 「寝かせておくか」
 一つ、大きく伸びをして、石秀は、昼下がりの麗らかな梁山泊を、のんびりと歩きだし、
 「……どいつもこいつも?」
 「おい!! 石秀兄貴!! 楊雄兄貴が呼んでるぞ!!! いったい何をしてんだ?!! 酒を飲んでるなら俺も混ぜてくれよな!!」
 「わかった、わかった鉄牛、聞こえてる、今行くから」
 小さくひっかかったはずの言葉は、ぎゃあぎゃあとさわぐ「梁山泊の弟分」の声に、かき消されていった。


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