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瑶台の梅(魯林)

 遠くの方で、水軍の男たちが飛沫を上げる音が聞こえる。それが水練なのか、はたまたじゃれあっているのかは、ここからでは分からない。
 淡い思い出の様に花を咲かせる紅梅の名は「楡叶梅」と言うのだと、智深に教えてくれた男には、その様子が見えているのか――小高い丘の上、薄紅の霧の向こうに佇む人は、黒目がちの瞳を細めて向こう岸を眺めていた。好漢たちの生気漲る梁山泊にも、訓練も戦も工作もない穏やかな日は時折訪れる。そんな時の林冲は、出会った頃のように豊かな黒髪を背に流し、喧騒を離れて一人静かに物思いに耽ることを好んでいた。
 「兄貴、ここにいたのか」
 足音でとうに気付いていただろうに、豹子頭林冲ともあろう男は、まるで声をかけられてはじめて智深が近づいていたことを知ったとでも言うように眉をあげた。意外にも稚いその表情は、彼が常に隠そうとしている張り裂けそうな懊悩を透かして見せる。
 「どうした? こんな時間から酒の誘いか?」
 酒を飲むのに昼も夜もない癖に、わざとからかうように言ってみせた林冲は、大きな犬でも招き入れるかの如く智深の背を叩いた。縦横無尽に蛇矛を撓らせる禁軍教頭の手も、智深の隆々とした背には柳枝のように感じられる。
 「ハハ、兄貴が飲みたいって言うなら甕ごと持ってくるぞ! だがその前に、兄貴に頼みがある」
 「頼み?」
 「実は、俺宛に手紙が届いてな」
 着物の懐から引っ張り出した手紙は、今朝、張青に渡されたものだった。誰が持ってきたのかと聞けば、どうやら麓の酒店で子分が受け取ったらしいのだが、その子分に手紙を渡した男は決して名乗らなかったという。
 「俺には、どうも難しくて読めん。だから、兄貴に読んで聞かせてもらおうと思ったんだが……」
 いつのまにかついてしまった皺を伸ばすように数度擦り、ほっそりとした字が綴られた手紙を渡せば、林冲は聞き分けのない子供に手を焼く親のような顔で溜息をついた。
 「さては習字の稽古をさぼっているな? 毎日必ず習字の時間を取れと言っただろう」
 「ただ字を書くだけの時間はつまらん! 俺には体を動かしているほうが性にあってる。それに、字が読めなくても困らんからな」
 「……今こうして困っているじゃないか」
 「別に困ってはいないぞ? 俺が読めなくても兄貴が読んでくれるし、俺が書けなければ兄貴が書いてくれるからな」
 何かを言いかけたように開いたままだった林冲の薄い唇が、なぜか、ぎゅうと引き結ばれる。けれど、怒っているわけではないことは智深にもわかった。その証に、「まったく」と呆れたように呟きながらも、黒曜石のように深く煌めく豹の瞳は、真摯に手紙の文面を追っている。
 以前と違い、智深とてまったく文字が読めないわけではなかったし、人目を憚ってか手紙の最後に遠慮がちに記された「翠」の字が誰のことを指しているかもわかっていた。だが、林冲ほどではないにしても達筆なその筆致を解読するのは時間がかかるし、なにより己の愛する人が己の好きな声で己のために手紙を読み上げてくれるなら、そのほうが絶対良いに決まっている。
 「これは女子の字だな……『花和尚殿 厳冬益々遠ざかり、紅梅に春の訪れを知る……』」
 梅の樹の根元に腰を下ろした林冲の隣に、智深もまたそそくさと座りこむ。音にされた文字を辿ろうと義兄弟の手元を覗き込めば、鼻先をかすめた林冲の髪から馥郁たる梅の香が淡く匂った。
 「『……今日この頃豪傑の義挙並々ならず 民草の口吻に恩人様の名を聞かぬ日は無し ただ思い出されるのは返しきれぬ大恩 案じられるのは御身の平安と健康 どうか生きて再びまみえ 戦にすり減らす御心に 我が拙き小唄にて幾許かの休息を与えんと願う  代州雁門 翠某』」
 月の宵を想わせる林冲の静かな声が、歌うように読み上げたその手紙――はるばる代州から運ばれてきた切なる言葉は、智深の耳をそよ風のように心地よく擽って行く。瞳を閉じれば、手紙の主があの日浮かべたとても美しい笑顔が今でも脳裏に浮かんでくるようだ。
 「ふ……この坊主め」
 智深の手に手紙を握らせ、林冲が笑う。
 「罪作りな坊主だ、本当に」
 林冲に出会うまで、智深は人の笑顔を見るのが好きだった。楽しそうな笑顔、嬉しそうな笑顔、感謝の笑顔、愛情に溢れた笑顔――それまで智深が見てきた笑顔は、どれもこちらまで幸福な気分になるような、気持ちの良い笑顔だった。翠蓮が智深に見せたいと言ったあの笑顔も、そうだった。だから智深は、正義を果たすことができたのだ。
 「女心も知らぬ愚か者め……この手紙は、自分で読めるようにしておけ」
 「林冲」
 立ちあがろうとする林冲の腕を、ぎちりと掴んだ。彼の身体は、智深が渾身の力を籠めたとて容易く壊れなどしないのに。
 「俺は、兄貴のそんな顔は見たくない。兄貴がそんな顔をするなら、この手紙は読みたくない」
 「馬鹿なことを……俺が、どんな顔をしていると?」
 「笑ってる」
 林冲に出会って初めて、幸福になれない笑顔があることを知った。林冲の浮かべる笑顔はいくつもあって、複雑で、難解で、そしていくつかの笑顔は時に智深を突き放しているようで、とても寂しい気持ちにさせた。今も、燕のような顎にかかる艶やかな髪の向こうで、林冲は智深からとても遠いところにいるように笑っている。文字すら読めぬのだから、せめて愛しい人の心の内だけは、いつでも知っていたいと思う。
 「俺はがさつな男だから、兄貴みたいに色々なことを考えるのは苦手だし、文字だって満足に読めん。だが、言葉にしてくれれば俺にだってわかる。なのに、なぜ笑う? 愉快な気分でもないのに、どうしてそうやってごまかそうとするんだ」
 「……智深」
 ゆっくりと手の甲を叩かれ、ようやく林冲の腕を握りしめていた手を緩める。再び智深の隣に腰を下ろした林冲の所作はどこまでも典雅で、己との育ちの違いを感じさせられた。
 「男でも女でも、愛おしく想うものと離されれば苦しいものだ。女子にとってはその苦しみもひとしおだろうと、そう思っただけだ」
 「翠蓮のことか?」
 「そうだ。恩人と慕うお前を案じる彼女の心を想像した。どれほど心痛めているであろう、とな」
 かつて心から愛した妻と引き離され、今なお忘れ得ぬ己の痛みを翠蓮の文に重ねたのだろう。そのことにはもう触れぬと言ってもらったあの時から智深の責め苦は和らいだというのに、林冲は一人、雁字搦めの自責と戦い続けている。だから智深は、命尽きるまで彼の傍にいると決めたのだ。林冲のために、林冲とともに戦うことこそ、智深の替天行道だった。
 「兄貴に俺がいるように、翠蓮にだってともに生きる夫が傍にいるんだ、何を苦しむことがある?」
 一瞬、林冲が目を見開く。楡叶梅の花がひとひら、彼の膝の上に身を寄せた。
 「…………わからんやつだな」
 そう言って笑った林冲の表情は先程とは違って穏やかで、思わず智深も安堵のため息をつく。
 「とにかく、翠蓮嬢はお前の妹分なのだろう。返事のひとつでも書いて、安心させてやれ」
 「それもそうだな。じゃあ、そういうことなら兄貴、さっそく手紙の書き方を教えてくれ!」
 「わかった、わかったから手を放せ」
 「ああ、すまん。もう、どこにもいかないな」
 「……なにがだ?」
 「兄貴がだ」
 笑う。
 心の底から、林冲が傍にいることが嬉しいと想い、笑う。
 いつか林冲も、心から笑ってくれる日が来るだろうか。
 「……この、花和尚め」
 長く節くれだった指で梅の花をつまみ、智深の胸元に投げつけた林冲の横顔を、智深は飽くことなく見つめていた。


<了>
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