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牡丹芳(魯林)

 ※過去ねつ造、事後描写アリ



 どれほど疲弊し消耗していても深い眠りに就けぬのは、かなしき武人の性だった。
 「……時遷か」
 希代の大泥棒と自称する小柄な青年は常から気配を消すことを得意としているが、梁山泊という「我が家」ではその必要もないようで、部屋の外を軽やかな足音がやや乱れ気味に遠ざかって行く。おそらく石秀たちのところで酒盛りでもしていたのだろう。
 「……っ」
 起こしかけた上体を再び柔らかな寝台に戻そうとしたとき、ふいに、下腹部の奥を鈍痛が襲う。鍛え上げ、完全に己の意志の支配下に置いてきたはずの体の中で、唯一、たった一人に支配されることを許したその場所の痛みは不思議といつも、林冲に仄かな安らぎを与えた。
 (まったく、暢気な顔だ)
 決して広くはない寝台の半分以上を我がもの顔で占拠する巨体の主は、まるで悩みなど何もないような、ほほ笑んでいるようにすら見える顔をして、高いびきをかいている。荒削りで野性的な髭面も、この時ばかりは無垢な幼子のようにあどけなく見えるのだから不思議なものだ。
 「あのときも、そんな顔をしていたな」
 音になりきらぬ己の声に入り混じった甘やかな響きを自覚して、吐息のような苦笑が漏れる。まだ交わりの余韻の消えない、あたたかくしっとりとした肌に咲き誇る花の刺青に指先を這わせ、そっと瞼を閉じれば、まだ刺青など縁もなかった頃の智深――いや、魯達の姿が脳裏に鮮やかによみがえった。

 (お前は、覚えていないだろうな)
 幼き魯達は、ほんのわずかな間だけ、林冲の父に武術を習っていたことがあった。おそらく父親の仕事の都合で、東京に滞在していたのだろう。ひとつきもたたぬうちに魯親子は違うまちへと移り住んだようで、家族ぐるみの付き合いなどする暇もなかったが、幼き魯達と交わした一言――そのたった一言と、彼の表情を、林冲は何十年も覚えていた。
 あの日、ところどころほつれた着物から擦り傷だらけの手足をもてあまし気味にのぞかせた、いかにもやんちゃそうな幼き魯達は、林宅の庭の隅で、母の植えた牡丹をじっと見つめていた。父は多くの弟子をとっていたから、その少年もまた、弟子の一人なのだと林冲は何知らぬ顔で通り過ぎたのだが、外で用事をすませて戻ってきても、魯達少年はまだ、牡丹の前から一歩も動いていなかった。
 「……そんなに気に入ったのなら、一輪、もっていく?」
 おそらく自分と同じような年頃なのに、林冲よりずっと体が大きく気性も荒そうなその少年が、牡丹の花をもらって喜ぶとは思わなかったのだが、このままでは彼は牡丹の前に永遠に立ち続けるのではないかと思い、そっと声をかけた。
 「……」
 突然声をかけられたことに驚いた様子で目を丸く(おかしいほどにまん丸に)した少年は、しばらくじいっと林冲を見つめていたが、やがて、どこか恥ずかしそうにそっぽを向いて、ぼそりとつぶいた。
 「そんなことをしたら、せっかくきれいなのに、枯れちまう……」
 見た目に似合わぬ、優しい言葉だった。
 ちらりと牡丹に向けた彼の瞳は、とても穏やかだった。
 だから、彼にはきっと花が似合うと、幼き林冲はなぜかそう思った。
 「……じゃあ、これ、あげる」
 祖母にもらった大切な牡丹の髪飾りだった。
 だけど、彼にどうしてもこれを贈りたいと、なぜかその時強く感じた。
 「大切にして」
 また目をまんまるにした魯達少年は、髪飾りを握り締め、そしてあどけない笑顔を満面に浮かべた。嬉しくてたまらない、というように。
 彼と交わした言葉はたったそれだけだったけれど、林冲は、その日の彼の声を、言葉を、表情を、忘れることなどなかった。
 「変わらないな、お前は」
 あの日――流刑が決まり絶望に閉ざされていた視界を強烈な光で切り裂くように、かつての少年は再び、林冲の目の前に現れた。躍動する肉体に、昔贈った牡丹のごとき花の刺青を刻んだ荒法師……自慢げに輝く丸い瞳とあどけなさのよぎる笑顔に昔日の面影を見つけ、いてもたってもいられなくなった。
 「……んー……」
 ふてぶてしい唸り声を洩らしながら寝がえりをうつ男は、いつしか義兄弟という言葉では足りぬ存在となった。決して忘れ得ぬ女性に捧げた愛情を消し去ることなく、決して許せない男に向けた憎しみすら受け入れる彼の魂の、他の者には決して理解されぬその深さに、林冲の魂は震え、身を、心を、何もかもを、この愛すべき荒法師と繋いだ。かつて恥ずかしそうに幼い笑みを浮かべていた少年はいまや、ただ一人、林冲のすべてだった。
 (これが、天命、というものだろうか)
 己らしくもない、いかにも詩的な考えにもう一度苦笑を浮かべ、林冲は再び浅い眠りの海に身をゆだねる。無造作に放り出した手を、力強い男の手がそっと握るのを意識の向こうに感じながら。


<了>
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