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孤高の詩(魯林)

 
 常の夜更けならば、二の関門の近くに設けられた自室で兄弟たちと賑やかに酒を酌み交わしているはずの大男が、何故だかふらりと南山酒店まで降りてきたのは、満月に近い夜のことだった。
 「これは珍しいお客様だ……魯大師、どうされました?」
 「よう、朱貴兄弟……」
 いつだって闊達で歯に衣着せぬ痛快な物言いをする男が、なぜだか妙にもじもじと視線をさまよわせている姿に、朱貴はほっそりとした首をかしげて淡く笑んだ。
 「誰かと待ち合わせ、ですか?」

 まあ、わざわざ尋ねなくとも朱貴には――いや、おそらく多くの梁山泊の兄弟たちも――彼が誰のことを考えているのかはわかるのではあるが。
 「いや、違う、そうじゃない……アー……もう、店じまいの時間だよな? 邪魔をしては悪いから俺は戻る」
 「大師が良酒をお求めになるなら俺もとことんお付き合いしますが、でも、そうではないでしょう。まったく兄貴らしくもない、何かあるならはっきりおっしゃってください」
 決して強い物言いではなかったが、叱られた子供のようにバツ悪げに視線をさまよわせた智深は、ふと、密談でもするかのように、朱貴に耳打ちする。
 「実は、林冲兄貴が大書したっていう、詩が見たくてな」
 「……ああ、なんだ、それをお探しだったんですね……なるほど」
 先日、史進たち元少華山の面子がこの酒店で夜を明かしていた時、彼らがしきりに壁を指さしてあれこれと話したてていたのを思い出す。
 おそらく史進は、非業の憂き目にあい、ようやくの思いで梁山泊に流れ着いたあのときの林冲が壁に大書した詩を読んだことを、智深に自慢したのだろう。そして彼は、愛する兄貴が想いのたけをつづった詩を自分も是非この目で見なければといさんでやってきた――そして、己が文盲であることをふと思い出したのだろう。
 (あれで可愛らしいところがあるんだ、と、おっしゃっていたが)
 きょろきょろとする智深の姿にはなるほど、あの豹子頭林冲がふと相好をくずしてそう呟くに値する愛嬌があった。
 「大師、俺が読みあげましょう。こちらです」
 梁山泊をのぞむ出入り口のすぐ横、あの日からずっと色あせず壁に刻まれた豹子頭の詩。
 「……俺は字の良し悪しなんざわからんが、なあ、兄貴はきっと、字がものすごくうまいんだろうな」
 「ええ。蕭譲殿には及ばずとはいえ、林教頭は我々兄弟の中でも一、二をあらそう達筆だと思いますよ」
 「ハハ、さすが兄貴だ! ほら、朱貴、さっさと読みあげろ、なんて書いている?」
 「はいはい……」
 流麗な林冲の字を目でおわずとも、朱貴はすでにその詩を暗唱していた。
 「『義によるは林冲なり 人となり 最も朴忠 
 江湖に聞望を馳せ 京国に英雄を顕す
 身世浮梗を悲しみ 功名の転蓬に類す
 他年もし志を得ば 威もて泰山の東を鎮めん』
 ……これは林教頭が初めてここへやってきたときに書かれたものです。己を裏切ったご友人を己の手で殺めたその後に……」
 黒々と、まるで書いた者の心のうちを表すかのようににぶく輝くそのひとつひとつの文字を、智深の太い指がそっと、まるで消えるのを恐れるようになぞってゆく。
 (あ……)
 一瞬、その指先が、同じようにそっと、彼の愛する人の肌に触れる様子が目の前をよぎる。きっとそれは想像ではなく、真実なのだろう。
 「俺に字の良し悪しはわからんが、それでも、この字は好きだ」
 『林冲』の文字を何度も何度もいつくしむようになぞるごつごつとした手には、永遠に消えぬ火傷の痕がある。彼らの契りの深さを、彼らの義の篤さを、彼らの愛の確かさを見せつけるかのような、火傷痕。
 「……まったく、兄貴らしくもない」
 「いやぁ、月の夜は、どうも気が弱くなるな。俺はただ……」
 智深の指が、ゆっくりと机の上をすべる。
 形にならなかった「林冲」の文字が、永遠にそこにとどまるような気がした。
 「俺はただ、兄貴のためなら、なんだってしたいって、そう思うだけだ」
 いつの間にか机の上にコトリとおかれた盃にうつる智深の顔に一瞬、泣き出しそうな色が宿り、そして消える。
 「今日はつきあいますよ」
 「……すまんな」
 「いいえ」
 なみとつがれた酒で喉をうるおしながら、あまりに多くを喪った孤高の人の心に寄り添う男のその孤独に、朱貴はただ、どうか幸よあれと願うのだった。

<了>
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