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水滸綺伝第二回(六)

【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(六)


 「史進殿!」
 史家の若旦那の力強い棒術に歓声をあげていた使用人たちも、今や呆気にとられて沈黙している。このままでは史進の面目丸つぶれと、王進は慌てて倒れこむ若者に駆けより助け起こした。
 「手合わせとは言え、とんだ失礼をいたしました」
 「あ……」
 呆けたように天を仰いでいた青年は、しかし、背を支える王進の腕を唐突に掴んだかと思うと、くっきりとした瞳にはじけるような輝きをのせ、満面に爽快な笑顔を浮かべた。
 「なんてことだ、師匠!」
 菓子をもらった童のようにはしゃぐ声から、先ほどまでの傲岸不遜な色は消え去った。生まれたての龍のように勢いよく跳ね起きた史進は、側から床机を引き寄せると王進をなかば強引にそこに座らせ、大地と一体にでもなったかのようにがばりと平伏する。
 「俺はこれまで、何人もの師に稽古をつけてもらったが、貴方のような真の使い手は一人もいなかった。師匠……どうか今からは、師匠と呼ばせてください。そして俺に、どんな豪傑にも打ち勝つ真の武芸を教えてください!」
 「こちらのお宅には随分御世話になった故、若旦那の武芸の師となることで恩返しができるのならば、私も嬉しく思いますぞ」
 「師匠、若旦那、なんてやめてくれよ、堅苦しい。ぜひ史進と呼んでください」
 「わかった、わかった。史進だな」
 己よりも優れた者を素直に認める潔さも、童の如く無邪気な喜び様も、まったくもって気持ちがいい。闘志を潜め、八重歯をこぼす笑顔にあどけなさすら覚え、王進は笑いながら若者の肩を叩いた。
 「大郎、お前はなんという幸せ者だ! さあ、はやく服を着なさい。素晴らしい好漢を師に迎えられた祝いに酒を飲むぞ。張殿もこちらへ。御母堂も連れてまいろう」
 息子にもおとらぬほどに喜んだ大旦那は、さっそく使用人たちを働かせ、奥の間で賑々しく宴の席を設けた。羊肉や酒、魚、果物や野菜があっという間に机いっぱいに並び、史進と王進親子がそれぞれ席につくと、大旦那は杯を掲げて立ち上がり、王進に向かって片目を瞑ってみせた。
 「張殿、ここまでくればもう、教えていただいてもよろしいのではないかな? 愚息は泰山も見抜けなかったようだが、私の目はごまかせませぬぞ。貴殿は、どこぞの武芸師範でございましょう?」
 史進の可能性を見込み、師となることを決めた今、恩人に対してこれ以上我が身を偽るわけにはいかなかった。
 「大旦那は千里眼をお持ちと見える。おっしゃるとおり、俺は張と言う名ではありません。東京の八十万禁軍で、教頭として槍棒術を教えていた王進と申します」
 「お、王進教頭……?!」
 口に含んだ酒を霧のように噴き出した史進が、咳き込みながら目を丸くする。
 「王進教頭って、師匠、まさかあの槍棒の名手と名高い好漢の……!」
 「名高いかどうかはわからんが、まあ、その王進だ。俺は政治のこともよくわからんまま、槍や棒の稽古ばかりして暮らしていたのだが、この度新任の太尉として着任した高俅という男に目をつけられてな。それというのも、我が父が昔、ならず者だった高俅を懲らしめ、棒で散々に打ちのめしたのでそれを根に持ってのこと。皇帝陛下のご信頼をいいことにして太尉の地位についたかと思えば、権力を振りかざして無実の罪をでっちあげ、俺への私怨を晴らそうとするのだ」
 「なんだと?! 高俅の噂は俺も聞いていたが、そこまで性根の腐り果てた奴だったとは。師匠のような好漢を陥れるなんて!」
 「俺もそんな男の下で働くのは真っ平だし、母への孝行をせぬまま流罪にでもなったら死んでも死に切れんと思ってな。そこで、人望厚く人材をいかせるお方と世に名高い延安府の种公の下へ身を寄せ士官の口を探そうと、都を捨てて遥々逃げてきたのだが、その途中で宿を見失っていたところ、運よくここに御世話になったというわけだ」
 くるくると表情を変える史進が注いでくれた酒を、一口、喉に流し込む――憂いすら飲み込むように。
 「宿を貸していただいたばかりか、病の母の世話までしてくださり、大旦那には感謝のしようもございません。史進が槍棒の鍛錬に身を捧げたいと覚悟するなら、俺がとことん指導いたしましょう。史進、だれに習ったか知らないが、お前の今の棒術は、確かに見てくれは派手で強そうではあるが、戦場に出れば少しも役にも立たんだろう。一から学び直し、俺の稽古についてくる気概はあるか?」
 「もちろんさ!」
 ひと呼吸も間を置かずに答えた史進は、まるでそれを誓うかのように杯の酒をぐびりと飲み干すと、再び王進の足元に跪いた。
 「師匠、どうか、よろしくお願いします」
 「王進教頭、この史家村は三、四百戸すべて史という姓。やがてこの農村を任される立場にあるというのに、この倅ときたら、百姓仕事をするでもなく、学問にはげむわけでもなく、ひたすら武芸の稽古に明け暮れておりました。死んだ家内も、最期までそのことを気に病んでいましたが、親の甘さか、私は今の今までこれの好きなようにさせてきたのです。槍棒の師匠に使った金は幾らとも知れず、それにほら、これの体の刺青は、名うての彫師を雇って彫らせたものでして。肩から腕、胸にかけて九匹の龍が彫ってありますので、このあたりの者は皆、九紋龍の史進などと呼んでおります。今日貴方様に手合わせをしてもらわなくば、その二つ名が泣くところでした。どうか、一から倅を鍛え直してやってくださいませ」
 大旦那までもが並んで跪き深々と礼をするものだから、王進は嬉しいやら恐れ多いやらで厳つい顔をほころばせる。
 「どうかお立ちください、史進も、ほら。そこまでの頼みとあらば、史進を江湖の誰もが一目置く男にするまでは、この王進、どこへも旅立ちませぬ」
 それから夜が更けるまで、史の親子と王の親子は何度も何度も杯を交わした。高俅の追手への恐怖も、先への不安も、この時ばかりは王進の中からすっかり消え去っていた。


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