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水滸綺伝第二回(五)

【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(五)


 それから幾日か、王進は母の看病をしながら史家の世話になった。夜は史の大旦那と酒を酌み交わし、今年は何の作物が豊作だとか、昨今の政はどうだとか、あれこれと気ままに語りあった。大旦那は薄々、王進がただの落ちぶれた商売人ではないことに勘付いていたと見えるが、深く詮索することもなく気楽に接してくれるのだった。
 そうしてようやく母の病も落ち着きを見せ、さてさすがにこれ以上世話になるわけにはゆくまいと、王進が荷物をまとめたその日の朝は、遥か東、都のほうの空だけがやけに赤く燃えていた。その奇妙な空模様に心の片隅をざわめかせながらも、馬の様子はどうかと厩をのぞきこんだ王進は、東京から連れてきた己の愛馬がじっと何かを見つめていることに気がついた。
 「なんだ、すっかりここが気に入ったか?」
 艶を取り戻した黒い毛なみに指を這わせながら彼女の視線を追った王進は、一瞬呆れた笑い声をあげ、そしてすぐに得心がいって大きく頷いた。
 「馬にも人の男の美醜がわかるか。いや……面構えだけに惚れたわけでもあるまい?」
 彼は、ひとつの嵐だった。
 畑仕事で出来上がったとは到底思えぬ均整のとれた肉体を、己の手にすら持てあましながら踊る暴風だった。
 両手にしかと握った棒で目に見えぬ敵をなぎ倒すたび、半端に伸ばした蓬髪がその軌跡を宙に描く。滴る汗すら輝きを添える日焼けした象牙色の裸身には、今にも彼の起こす嵐の狭間から咆哮をあげんばかりの青龍が刻まれている。すっきりとした一文字の眉の下では若き暴れ龍の不遜を宿した瞳が煌めき、銀の皿の如く品のよい顔立ちに一片の粗野を添えていた。
 (なるほど……若いな)
 年のころは十八、九といったところか。龍を宿した青年の棒術が繰り出す嵐はまだその進路を定めかね、ひとつ間違えれば己をも飲み込んでしまう未熟さがあった。
 「なかなか筋の良い使い手のようだが、惜しいことに隙がある。このままでは、真の使い手には敵うまい」
 「……なんだと?」
 吹き荒れていた風は、ぴたりと止んだ。声に出すつもりはなかったが、言ってやりたい気もあった。ついひと月前までは、彼のようにただ突き上げる衝動に任せて棒を振り回す若者たちに槍棒の道を示していた、その余韻がそうさせたのかもしれない。頬を流れ落ちる汗を拭いもせず、己をたった一言で幻の戦場から現へと引き戻した男を睨みつける美丈夫を、王進は笑みすら浮かべて見つめ返した。
 「おい、あんた、いったい何様だ? 俺の棒術を笑っているのか!? よくも馬鹿にしてくれたな! 俺は何人もの有名な師について棒術を習ったんだ。お前が誰かは知らんが、まさか俺と勝負して、勝てるとでも思ってるのか? はっ、笑っちまうのはこっちのほうだ!」
 怒りに任せて一息に王進を挑発した青年の顔は生意気な自信に満ちているが、その裏には世間を知らぬが故の純粋が見て取れる。誰に師事したのかは知らないが、こんな片田舎の上手な棒使いで終わらせるには、あまりに惜しい。
 「こら、大郎! お客人に対してなんという口のきき方をするか!」
 青年の大声を聞きつけたか、はたまたこれはいい余興と集まり始めた野次馬に気がついたか、肩をいからせて現れた史の大旦那のどなり声にも、青年は臆することなく王進のほうを顎でしゃくった。
 「お客人だかなんだか知らんが、この男は俺の棒術を笑ったんだ! 黙ってなんかいられないよ」
 「ほう……」
 大旦那が、ゆっくりと瞬く。
 「張殿は、棒術の心得がおありなのですかな?」
 「ええ、少しばかりたしなんでおりまして。ところで、こちらの若い御方は?」
 「恥ずかしながら、私の倅です」
 なるほど、まじまじ見れば、大旦那の老いてなお精悍な顔立ちは、血気盛んな目の前の青年とよく似ている。
 「こちらの若旦那となれば、ここ数日世話になった恩を返さねばなりますまい。もしお望みとあらば、非才の身ではございますが、私が真の棒術をご指南いたしたい」
 「おお、なんとありがたい御言葉! ほら、史進、師匠に拝礼をするのだ」
 史進、と呼ばれた青年はしかし、喜ぶ父の顔を信じられないと言うように凝視する。
 「父さん、なんでこんな見ず知らずのやつが、真の棒術を教えられると思うんだ? ただのはったりに決まってる。いっそこいつと勝負をして、こいつが勝てば師匠と認めてやるよ、どうだ? 来いよ、男だろう!」
 白い歯を見せ、得意げに笑いながら棒を振り回して見せる史進の姿に、禁軍で育て上げてきた弟子たちのひたむきな姿が重なる。
 「張殿、不肖の息子ではありますが、どうか気を悪くせず、一度手合わせをお願いできませぬか」
 「だが、若旦那に恥をかかせてはご恩返しどころではなくなってしまいましょう」
 「はっはっは、これはこれは……なに、かまわんのです。一度痛い目にあわねばあれもわからぬのでしょう。手足をへし折るくらいのつもりでお願いします」
 「……そこまで仰るのなら、ひとつ、若旦那の棒術、ためさせていただきますぞ」
 少年のように目を輝かせる大旦那の手から棒を受け取り、王進は史進の目の前に立った。真正面で相対すれば、肌を震わせるほどの熱気が若い体から立ち上っているのがわかり、知らず棒を握る手に力がこもる。こんなに胸の内に熱いものが湧き上がるのは、久しぶりだ。
 「後悔……するなよ!」
 暴風のように迫りくる史進の棒はしかし、その性質故かあまりにも真直ぐに過ぎた。
 棒の先で地を擦りながら後退する王進を逃がすまいと追いすがる史進の棒が喉元を突くかと思われたその一瞬で、左手にくるりと身をひるがえす。
 虚をつかれた史進の体が前に泳いだ隙をつき、無防備な脇腹めがけて棒を打ちおろし、史進の棒がそれを間一髪で受け止め――
 「なっ?!」
 打ちおろすと見せかけた棒を目にもとまらぬ速さで手元に引き戻し、息つく間もあたえずに龍を飼う若者の懐に突きを入れ、腰をひねり腕をしならせ渾身の力で跳ね上げた棒が史進の棒を彼方へ弾き飛ばし、そして風にあおられた柳の如く軽々と、史進の体は仰向けに地に投げ出された。


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