スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

水滸綺伝第七回(八)

【第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る】

(八)

 翌日、夕刻からの調練の前に体を休めながらも、うずうずと刀を磨いていた林冲のもとを、殿帥府の使いの者が訪ねてきた。
 「林教頭、高太尉よりの言伝を預かって参りました」
 「太尉殿から? 突然だな、いかがいたした」
 「昨日、林教頭が世にまたとなき名刀をお買い求めになったと聞き及ばれた高太尉が、ぜひご自分の名刀と比べてみたいとの仰せでございます。太尉殿のお屋敷でお待ちになっておられますれば、刀をすぐにご持参なさるよう」
 突然のお達しに、林冲は面食らった。昨日買ったばかりの刀のことを、なぜ高俅が知っているのだろう。
 (昨日はそばに兄貴しかいなかったが……まあ、高俅の太鼓持ちはこの東京に大勢いる。おおかたそのうちの誰かが見ていたのだろう)
 それに、刀比べに来いとは、林冲自身も願ってもいない言葉であった。成り上がとはいえ様々な手練手管を使って太尉にまでのし上がった高俅のこと、所持している宝刀というのも相当な価値のあるものだろう。
 さっそく、使いの男たちにせき立てられるままに上等の着物に着替え、妻に声をかけようとしたが、ちょうど隣の王婆のところへ出かけていたようだったので、錦児に高太尉の元へ行く旨を伝言し、さっそく林冲は刀を抱えて家を後にした。
 「それにしても、君たちは見かけない顔だ。新入りか?」
 小雨に濡れぬよう、腕をいっぱいに伸ばして林冲に傘をさしかける男たちの顔は、まだ若い。
 「はい、私たちはつい最近、取り立てられた者でして」
 「そうか……慣れぬうちはつらいこともあろうが、くじけることなく、務めに励むように」
 どこか初々しい受け答えに目を細めれば、若者たちは、そわそわと互いに目を合わせながら頷いていた。
 しとどに降り続く雨は決して強くなかったが、じとりと湿り気をはらんだ空気は重苦しく、昨日まであんな快晴だったのが嘘のようである。
 (そういえば、兄貴のところの子分たちが、雨が降るかもしれないと言っていたとか。当たったな)
 今頃智深は、しとしと降る雨を見ながら酒でも飲んでいるだろうか。雨が上がれば雑草が生えてくるだろう。この刀を使って手合わせをしてくれるなら、草むしりを手伝ってもいい。
 「林教頭、太尉殿は奥の間にてお待ちです。こちらへ」
 気が付けば、すでに目の前には高俅の屋敷がそびえている。なんとも目に痛くけばけばしい屋根の装飾を見上げながら、ふと林冲は、陸謙がここにいるのではないかと思った。
 僅かに視線を転じれば、己が打ち壊して以来、主の帰らぬ陸家の屋敷がひっそりと建っている。
 (……いや、もう、過ぎたことだ)
 二度と会わぬと心に誓った。見かけても、いないものと思うよう決めた。もう、それで十分だ。
 巨大な柱に支えられた表門をくぐり、さまざまな木々が雑多に茂る前庭を抜け、異国風の明かりがぶらさがる廊下を抜けて、豪奢な衝立の裏に回り込む。
 その部屋は、数名の使用人が掃除をしているだけで、高俅の姿はない。
 「さらに奥の間でございます。ご案内いたしますので」
 きしむ音のひとつもしない立派な長い廊下をさらに進み、二つ、三つと目にも絢な調度品に囲まれた部屋を抜ければ、大きな池にかかる橋の上に出た。赤や金に彩られていたこれまでの部屋と違い、そこから見える欄干も屋根も、どこかどんよりとした濃緑で塗りつぶされている。
 務めで何度も太尉府には足を運んだことはあるが、さすがに高俅の私室にも近い、こんな奥まった場所までは来たことがなかったので、林冲はさりげなく辺りを見回した。
 蓮の花が浮かぶ池の水面に、僅かに強さを増した雨がとめどない波紋を描いている、その音がやたらと大きく聞こえるほどに、このあたりは静まりかえっていた。
 「林教頭、こちらでお待ちください。ただいま、太尉殿にお取り次ぎいたしますので」
 まだ昼過ぎだというのに次第に暗くなり始めた空を眺めながら、林冲は軒先で雨をしのぎつつ、高太尉に呼び出されるのを待った。風もなく、ただひたすらじっとりとした感触が全身にまといつく、嫌な天気だ。
 (このような日こそ、雨の中での戦に備え、厳しく稽古をせねば)
 林冲が教えている殿前司馬捧日軍の槍棒班は、兄貴分の教える天武軍の金鎗班と並び、代々禁軍の精鋭の名声を恣にしてきた。配下の者たちはみな強者揃いで、気概も十分、厳しいしごきにも耐えてついてくる連中ばかりで教え甲斐がある。
 決して華々しい職ではなかったが、林冲は、才気あふれる男たちを教え導く禁軍教頭という職に、価値を見いだしていた。
 もちろん、いつか大将軍となり大軍を率いて戦場を駆けたいという願いは、男である以上捨てられるものではない。
 だが、現在の、腑抜けて腐りきった朝廷の官人どものもとで地位をあげても、いったいそこに、血の踊るような武人の幸福はあるのだろうか。
 昨年の暮れ、何人もの有能な殿司制使が、巨大な庭をつくるための石を集めに走らされ、その帰路で巨石を載せた船が嵐に遭って転覆したという事件があった。不幸中の幸いか、おおかたの殿司制使たちの命は助かったが、一名は行方不明だという。武挙をくぐり抜けた逸材に、なんと下らぬ役目を与えたものかと、仲間たちとの話の中で、苦い顔をしたものだった。
 「……それにしても遅いな」
 ここで待てと言い残した若い使いたちが中にひっこんでしばらくたつが、いっこうに己を呼びに戻ってくる気配がない。
 雨足が強くなったのを避けるように、軒下のさらに奥にひっこんだ林冲は、ふと、簾の向こうに大きな部屋があることに気が付いた。
 刀を抱え直し、簾をくぐって中をのぞき込んだ刹那、昼間の明るさを取り戻したような雷光が輝く。
 その雷光に照らし出され、入口に掲げられた額に刻まれた文字が、くっきりと浮かび上がった。
 (『白虎節堂』……なんと、軍議の間であったか。俺が立ち入るべき場所ではないな)
 雷光に一拍遅れて、遠く雷鳴が轟く。
 なんとも天気が荒れてきた、とため息をつき、きびすを返し、元いた場所に戻ろうと一歩を踏み出し、
 「林冲!」
 雷鳴の中でさえ高らかに響く靴音とともに林冲の目の前に現れたのは、己を呼び出した張本人である高俅であった。
 「これは高太尉殿、この林冲、太尉殿がお呼びと聞いて参上いたしました」
 「なにを寝ぼけたことを!」
 膝をつき、刀を片手に拱手した林冲の頬を、まったく予期せぬ痛みが襲った。
 「なっ……」
 高俅に頬を蹴り飛ばされたのだ、と理解したとたん、崩れた膝の上に、高俅が足を乗せる。
 見上げれば、三白眼をかっ開いた高俅が、仇でも見るかのようにこちらを睨み付けていた。
 「林冲、貴様、俺の許可もなしに、何故この白虎堂に立ち入った。禁軍教頭でありながら、法度もわきまえぬとは……!」
 膝におかれた足に力がこもり、関節がぎりりと音を立てる。
 だが、その痛みなど、投げかけられた勘違いも甚だしい罵声に比べれば、ほんの些細なことであった。
 いったい何故、言われもない非難を受けなければならないというのだ。
 「おまけにその手に持った刀は何だ? いや、この俺を殺そうという魂胆なのはわかっているぞ。貴様、一月ほど前にも、太尉府の近くで短剣を手にうろついていたそうだが、それも謀反の意があってのことか!」
 「こ、高太尉殿、それは誤解です」
 再び轟いた雷鳴に負けじと声を張り上げ、血の滲んだ唇を手の甲で拭い、林冲は平伏した。
 「今朝方、太尉府の使いの若者が二人、俺の家を訪ね、俺が名刀を買ったと太尉殿が聞き及んだので、ぜひ刀比べをしたいと俺をお呼びであると……そう告げられ、使いの者にこちらで待つよう連れられてきたのです。確かに節堂の中を覗いてしまったことは非礼でありましたが、この節堂の奥に使いの者が入っていったので、様子を見ようと思っただけのこと。謀反など、いったい誰が考えましょう」
 「使い? 使いの者など、どこにいる」
 「ですから、この奥に……ぐゥッ」
 鞠を蹴って地位を築き上げた男の足先が、林冲の顎を下から押し上げ、先の四角い靴が喉に食い込む。
 高俅は、声だけは荒げながら、しかし、その顔はうっすら笑っていた。
 その酷薄な笑みが、かつて己の師兄に向けられていたものと同じであることに気が付いた瞬間、林冲は、すべてを悟った。
 ――謀られた。
 「ハッ、ここは俺の私室も近い、太尉府でも最も重要な場所だ。そんなところに使いの若造風情がどうして足を踏み入れることができる? 嘘を並べ立てるのもいい加減にしろ!」
 再び顎を蹴り飛ばされ、結い上げた髪をひっ掴まれ、もはや滝の如き勢いをもって雨が突き刺さる軒の外へと身を投げ出される。
 「者ども、この大罪人を引っ捕らえろ!」
 「お待ちください、太尉殿! 高太尉!」
 まるで端から己を捉える機会を伺っていたかのように、柱の陰から、欄干の向こうから、次々と高俅配下の兵が飛び出してくる。
 「やめろ、誤解だ、高太尉、どうか……!」
 八十万禁軍教頭たる豹子頭林冲にとって、つかみかかってくる兵が十人いようと二十人いようと、打ちのめし、蹴り飛ばし、抜け出すことなど容易いことだった。
 だが、そんなことをすれば、自ら謀反を起こそうとしていると認めることになる。
 (畜生め……!)
 唇が破れるほど噛みしめ、これ幸いと常ならば傷一つ付けることのできぬ武人の手足や背や腰を押さえつける男たちの嘲笑を受け、濡れた床に這いつくばり、髪を振り乱しながら、それでも林冲は、礼節を失わぬよう己に言い聞かせた。
 「高太尉、俺は使いの言葉を信じてここへ来ただけなのです。太尉殿ほどの御方を主としながら、なぜ俺が謀反の意など抱きましょう。どうかご明察を……!」
 「ふん、口先ではなんとでも言えよう、なあ、林冲。言え、何故俺を殺そうと思った! 日頃から目をかけてやっていたというのに、何が不満だ!」
 「太尉殿を傷つけたとて、俺には何の得にもなりません。刀比べをしたいとの仰せがあったればこそ、こうして刀を手にやってきたのです」
 「……強情なやつめ」
 己の腕を縛り上げた兵たちが遠巻きに離れ、代わりに高俅が再び、ゆったりと近寄ってくる。
 「まだ若かった貴様を禁軍教頭に推挙したのが誰か、知らないだろう。この俺だ」
 全身が濡れるのもかまわずかがみ込んだ高俅に解れた髪を引かれ、顔をあげる。雨と鼻血が混じり、顎を伝っていく。
 「王昇の息子が俺の就任の日に仮病を使ったとき、かばったのが貴様だったから、あの場で殺すのをやめた。逃亡を見逃したのも、貴様が見逃したと知ったからだ。わかるか、林冲。俺は貴様を買っていた。期待していたのだ」
 狡猾な蛇の如き顔が近づき、耳元で、酒焼けたしゃがれ声が小さく唸る。
 「林冲……お前の妻のことだが、諦めろ。諦めて、手放せ」
 轟音とともに、何かが裂けるような音が響いた。どこかに雷が落ちたようであった。
 「そうすれば、此度の件で、命までは取らん。牢には入れるが、そう長引かせはせん。出てきたら、俺が拾ってやる。俺の護衛に任じて、右腕として存分に働く機会をやろう。どうだ、悪くはあるまい」
 熱いものが体の内を迫り上がり、思わず林冲は嘔吐いた。
 緋の混じった吐瀉物が、高俅の片足を濡らした。
 「……高太尉殿、どうか、ご明察を!」
 稲光の中で叫び、林冲は高俅を正面から見た。
 蛇の如き顔から、笑みが消えた。
 「この無礼者を開封府へ送り、拷問しろ。罪状を明らかにし、最も重い罰を与えよ!」
 「太尉殿!」
 「それから、その刀は没収する。封印して持って行け!」
 「高太尉!」
 汚れた片方の靴をぞんざいに脱ぎ捨て、高俅が去って行く。
 左右に控えていた兵たちに引きずられながら、その背が視界から消えるまで、林冲は咆え続けた。

<第七回 了>


(七)へ || 第八回(一)へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。