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水滸綺伝第七回(七)

【第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る】

(七)

 陸謙が、富安とそろって高衙内を訪ねたのは、あの一件があってからかなり日がたってのことであった。
 部屋に入れば、げっそりと顔色の悪い高衙内が、それでも尊大な態度は崩さず寝台にどかりと横たわっている。
 「衙内さま、どうされました。顔色が悪うございますよ」
 情のこもっていない声は、自分でも驚くほど冷たかった。だが、長年培った口先三寸の才は、ご機嫌とりの色だけを冷たい声に上乗せし、まるで自然な声色に塗り替えていた。
 「……どうしたもこうしたもない!」
 いらいらと、けれど覇気のない声で答えた高衙内は、絢爛な金糸銀糸の刺繍がほつれるのもかまわず、ごろりごろりと寝台の上を転がり回る。
 「林張氏……あの女、おとなしく僕のものになっていればいいものを、まるで罪人扱いでわめき立て、二度までも僕に恥をかかせた! おまけにあのでかぶつの林冲めに心の臓がとまるほどびっくりさせられ、僕の病は重くなる一方……もう、三月も持たないかもしれない……。ああ、死ぬ前に、あの女と夫婦になりたいのだ。いままで星の数ほど女に出会ってきたが、あの女にだけはどうにも、心奪われてしまうのだ……」
 顔色こそ悪いがどう見積もってもあと三十年は生きながらえそうなほど偉そうな口ぶりに、わき上がりそうになる冷笑を押し隠し、陸謙は横たわる高衙内の枕元に膝をついた。
 「衙内さま、そう落ち込まないでください。そこまであの女が欲しいというなら、私と富安が力を合わせ、必ずや林張氏を衙内さまの奥方にお迎えいたします」
 そうなる前にあの女ならば自死を選ぶだろうがな、と言うつぶやきは、胸の内に留めた。
 もはや、林冲にも、張真娘にも、逃げ道などない。張真娘が死ねば、高衙内は気落ちするだろうが、そのうちすぐに忘れてまた別の女の尻を追いかけ回すだろう。その頃には、己と富安の首も胴と離ればなれになっているから、また面倒な策略を持ちかけられることもない。
 だから、あんな女と結婚など、やめておけと言ったのだーー事実、林冲にそんな言葉をかけたことは一度もないのだが。
 「もし、坊ちゃんがご病気と聞いて、お見舞いに参りました」
 そうして、なおぐずぐずと恨み辛みを並べ立てる高衙内を富安と二人で慰めているところへ、高家でも最も信頼の厚い老執事が顔を出した。
 「なんと坊ちゃん、こんなにやつれられて……」
 「もはや飯も満足に食えないのだ。体は熱くなったり寒くなったり、あちこち痛んだり痒かったり、それが原因で眠ることもできず、起き上がるのさえおっくうな有様。なあ、じいや、もう僕の命は長くない……ああ、いったいどうしたら……」
 「おい、陸虞候」
 大げさな身振り手振りで己の窮状を訴える高衙内を眺めていた陸謙の脇腹を、富安が小突く。
 「坊ちゃんは死ぬわけはないだろうが、でもいつまでもこんな調子じゃ、今度は俺たちが高太尉におとがめを食らうぞ。いや、高太尉のおとがめだけならよいが、坊ちゃんが癇癪を起こしてあることないこと高太尉にお告げになったら……この命さえなくなるかもしれん」
 ぶるり、と身を震わせた富安は、陸謙の耳元に口を寄せた。
 「俺はまだ、死にたくない。もはや……高太尉にご相談し、邪魔な林冲を、葬り去るしかあるまい」
 「……そうだな、俺も、まだ死にたくない」
 まるで夕飯のために豚を屠ると聞かされたかのように特に感慨もなく、陸謙は答えた。
 「執事殿」
 富安が、見舞いを済ませて戻ろうとする老執事の腕をとり、物陰に連れ込む。
 「少し、ご相談が……」
 「どうされました」
 「実は、坊ちゃんのご病気をなおしてさしあげようと、陸虞候とともに色々と腐心したのですがうまくいかず……こうなったからには、やはり林張氏の夫、林冲を葬るしかないと言う考えに行き着いたのです。そうしなければ、もはや坊ちゃんの命は……」
 老執事は、なんとも物騒な話にも、眉一つ動かさなかった。さすが長年、高俅に仕えてきただけのことはある。
 「そういうことでしたら、私が高太尉にお話を通しておきますので、今晩、太尉のお部屋まで」
 その夜、陸謙と富安は、高太尉の私室の外で肩を並べ、老執事に呼ばれるのを待っていた。
 「太尉殿……坊ちゃんのご病気は、重くなる一方でございます」
 「つい先頃まで健康そのものだったのに、何があったというのだ」
 扉の向こうから聞こえる高俅の声は、常のとおり、機嫌の悪そうな低いしゃがれ声であった。
 「ほかでもない、恋煩いでございますよ。林冲の妻に、心底惚れてしまわれたのです」
 「……林冲の妻だと? というと、禁軍教頭の張元門の娘か」
 「ええ、まさにその女で」
 「いつからだ」
 「先月の二十八日のことでございます。東嶽廟でたまたまお会いになったそうで……もう一月ばかり、想いわずらっておられます」
 窓から漂ってくる趣味の悪い香の匂いに眉をしかめながら、陸謙は、老執事がこれまでのいきさつを語るのを聞いていた。
 「……そこで、もはや林冲を葬るしか策はないと」
 しばし、沈黙が降りた。
 「倅も、面倒な女に惚れたものよ。そんなことだから、いつまでたっても女遊びが下手くそなんだ」
 珍しく、高俅の声に、呆れたような色が滲んでいる。自分とて人妻に手を出したことなど数え切れないほどあるくせに、そのことは棚にあげているようであった。
 「いくら林冲の妻が欲しいからといって、わけもなく林冲を殺すというのはどうだろうな。あれは俺の配下の中でも一番、能がある男だ。頭は固いが、めっぽう腕が立ち、忠心も篤く、人望もある。今、この優れた駒を失うにはちっと惜しいが……」
 なにかすっぱいものが、喉元まであがってくるのを感じ、陸謙は襟元をきつく握りしめた。
 見ろ、林冲。お前がいくら高俅を嫌い、憎み、罵ろうと、高俅はこうして、お前を欲しがっているのだ。
 己がすべての情を殺し、言葉を尽くして何年もそばに仕えようと決して得られぬものを、何故お前ばかり、こうも簡単に持って行く?
 「だが、林冲をどうにかしなければ、今度は倅の命が危ないというわけか。いったいどうしたら良い?」
 「なにやら、陸虞候と富安に、策があるとのこと。今宵、二人を呼びつけておりますので、お話を聞いてみてはいかがでしょう」
 「そうか……では呼べ」
 奥歯を噛み、ご機嫌をとるための笑顔を浮かべ、陸謙は富安とともに高俅の前へ進み出て平伏した。
 「倅を救う策があるそうだな。話せ。それで倅の命が助かれば、お前たちを重用してやる」
 高俅が自分たちのような側近を見るときの目は、犬を見るときの目と似ている。
 役に立てば番犬にするし、役に経たねば煮て食ってしまうぞと、蛇のようなその目が語っていた。
 (煮て食われようが、俺は、どうでもいい)
 富安に、死にたくないと言った。確かに、死にたくなかった。
 「申し上げます」
 林冲を己と同じ虚無の地に、引きずり下ろすまでは。

 三日間に渡る賓客の警護の任を終え、丸一日の休日を拝した林冲は、さっそく智深を誘い、連れだって街へと出かけた。
 このところますます陽気は強さを増し、汗ばむ日も増えてきた。こんな日は、あっさりとした魚料理にかぎる。
 「兄貴、魚のうまい店を知っているんだ。今日はそちらに行ってみよう」
 「それは名案だ」
 毎日のようにーーいや、実際、毎日智深と酒を酌み交わしているが、どれだけ過ごす時を重ねようと、互いに飽きることがない。そう感じているのは己だけではないようで、智深も毎日のように、「お前とはもうずっと昔からの知り合いのようだ」と笑うのであった。
 そしてこの日も、いつものように他愛ない話などしながら二人で閲武坊の路地を歩いていると、路地の出口に唐突に、ゆらりと人影が現れた。頭には薄汚れた頭巾をかぶり、あちこちほつれ、破れた戦袍を纏った大男である。
 この開封には、武官としての任を果たせぬまま物乞いになったような人間も数多い。目の前に現れた男もまた、腕に売り物の札をつけた刀を抱えていた。
 大男はそのまま四つ辻のど真ん中に立ち、刀を掲げて声をあげたが、その声は往来の人々の喧噪にかき消され、こちらまでは届かない。
 林冲も、特にそのことを気に留めぬまま智深と話しながら歩いていたが、しばらくすると、なにやら背後に気配を感じた。
 ちらりと振り返れば、先ほどの大男が、売れなかったのであろう刀を両腕にかかえてぶつぶつと呟いている。
 「ふん、皇帝陛下のお膝元というのに、目のある者はいないのか。これほどの宝刀をむざむざ道ばたの鉄屑にしてしまうとは……」
 常ならば、強引な客引きをする物乞いの戯言など聞き流すところであったが、なぜかそのとき林冲は、男の腕に抱える刀を見てしまった。刀と聞いてつい目がいってしまうのは、もはや武人の性であった。
 「これほどの業物を目に留める男は、おらんのか……!」
 男が、ずるりと剣を引き抜く。
 鋼の鞘走る清らかな音が、雑踏の中に矢を射られたかのごとく林冲の耳を打つ。
 五月の日差しに、抜き身の刃が涼やかに煌めく。
 (これは……)
 もはや、その刀から目を離すことはできなかった。
 縫い止められたかのように立ち尽くす林冲に気が付いた智深も、林冲のまなざしの先を追って目を丸くする。
 「こりゃあ、たいそうな刀だ」
 「ああ……おい、刀売り、その刀を見せてくれ」
 男が無言で差し出した刀を、林冲は智深とともにじっくり眺め、そして驚嘆した。
 みすぼらしい物売りの男の持ち物とは思えぬほど、それは、極上の刀であった。
 「清光目を奪い、冷気人を侵す……遠く看れば玉沼の春泳の如く、近く見れば瓊台の瑞雪に似たり……いにしえの名刀にも負けぬ、なんと美しき刀だ」
 惚れ惚れと刀を指先で撫でながら、林冲はつい、「いくらだ」と男に尋ねてしまった。
 「本来ならば三千貫だが、あんたのように気に入ってくれるなら、まけて二千貫で売ろう」
 「確かに、二千貫の値打ちはある。だが、鞘は汚れ、刃も少々手入れが必要な様子。それだけ出す客はほかにいなかろう。一千貫と言ってくれるなら、俺が買う」
 林冲とて、本来ならば二千でも三千でも出してもよいから売ってくれと頼みたいところではあったが、ついうっかり言い出してしまった商売話をよくよく考えてみれば、脳裏に妻のむくれた顔がちらついたのだ。
 「こちらも金が入り用でなければ手放したくない先祖伝来の宝刀だ。あんたが本気で買ってくれるというなら、五百まではまけてやるが、どうだ」
 「……いや、千貫だ。千貫ならば、必ず買う」
 しばし、刀売りと林冲はにらみ合ったが、先に折れたのは刀売りのほうであった。
 「わかった、わかったよ兄さん、あんたみたいな男にそんな目でみられちゃ根負けだ。黄金を鉄の値で売るようなものだが、仕方ない、千貫で売ろう。これ以上は絶対にまけないからな」
 「ありがたい。実のところ、お前のその刀が欲しくて仕方なかったのだが、こちらの懐を握っている者が別に家で待っているのでな」
 「なるほどな、そりゃあ、どこの家でも同じというもの」
 こんな名刀に出会える機会は、短い人生、そう多くない。今日という日の幸運に心底舞い上がった林冲は、「家についてきてくれれば千貫払おう」と男を手招いた。
 「弟、随分と嬉しそうだな」
 「槍棒を生業にしてはいるが、刀に興味がないわけではない。恥ずかしながら、今の愛刀はこの刀には遠く及ばぬ代物なので、いつか買い換えたいと考えていたのだ」
 「そりゃあいい巡り合わせだったな」
 豪快に肩を揺らして笑った智深は、しかし、ふと空の端を見て、禿頭を一つ叩いた。
 「あいや、そういえば今日は、雨が降るかもしれんと子分どもが言っていたのをすっかり忘れていたわ。畑の始末をしてこなきゃあならん。林冲、今日は俺は帰るとしよう。魚の店は、明日また。その刀も、明日もう一度見せてくれるだろうな」
 「わかった、明日、必ず」
 その実、林冲も、今日はこの刀のことしか考えられぬと思っていたところであったので、智深と別れるとさっそく刀売りと連れだって帰宅し、千貫を風呂敷に包んで男に渡した。
 「ところで、この刀は先祖伝来と言ったか」
 「ああ、家が落ちぶれて立ち行かなくなったので、しかたなく持ち出して売り歩いていた」
 「こんな素晴らしい刀をお持ちのご先祖とあらば、さぞ名のある御方だろう。名を伺っても?」
 しかし、男は、眉をしかめて目をそらした。
 「名乗れば先祖の恥になる。勘弁してくれ」
 「そうか……ならば聞かぬ」
 男はそれきり何も言わずに、また人混みの中へと消えていった。
 そして林冲はといえば、再び鞘から刀を抜き放ち、手元に遊ばせてはため息をついた。
 「本当に素晴らしい刀だ……」
 持てば重さもあつらえたように丁度良く、さっそく庭に出て振り回してみれば、手に馴染んで吸い付くようなその握り心地にうっとりする。
 「あら、あなた、義兄上とお出かけしたのでは? あなた……あなたってば」
 刀を振る音を聞きつけた妻に声をかけられたことさえ、しばし気が付かないほど、林冲はすっかりこの宝刀の虜になっていた。
 「あ、ああ、すまん……実は兄貴と歩いていたとき、ついこの名刀を売っているのを見て、つい、買ってしまった」
 妻の細い眉の片方が、ぴくりと跳ね上がる。
 「まあ、それで、この素晴らしい刀は、おいくらだったのかしら」
 気が付けば、あっという間に宝刀は妻の手に渡り、刃先がぴたりと己の左胸に当てられている。張教頭仕込みの素早い身のこなしを披露して見せた妻の顔には、得意げな笑顔が浮かんでいた。
 「まあ、見てくれ、真娘。この刃の輝き、手に馴染む感触、お前もお父上の教えを受けたのならば、わかるだろう? これは、またとない名刀だ」
 妻の手を握り、ゆっくりと刀を下げさせながら、指先で刃をなぞってみせる。
 「高太尉のところにも、素晴らしい宝刀があるそうだ。だが滅多に人にはお見せにならず、俺も何度か頼んだことがあるのだが、どうしても見せてはくれなかった。いつかこの宝刀と高太尉の宝刀で、刀比べをしてみたいものだ」
 「……あなたったら、武器のことになると、高太尉だろうが誰であろうが、どうでもよくなるのね。まるで子どものよう」
 林冲の手に宝刀を返しながら、妻は肩をすくめた。
 「確かに、とても美しい刀だわ。ねえ、豹子頭と謳われるあなたの雄々しい姿にぴったりの刀だと思うわよ。だから……教えてくださらない、おいくらでそれを買ったのか?」
 「妻よ、今宵はお前の好きな甘味をいくらでも買いつけてやろう」
 話をはぐらかそうとする夫の髪を細い指で引っ張り、妻の唇が夫の頬に触れた。
 「次は、きちんと相談してくださいな」
 「……善処しよう」
 「錦児、お買い物を頼まれてくれる? 劉さんの甘味屋まで」
 再び己の手に戻ってきた宝刀を振りかざし、林冲は飽きるまで舞った。
 夕食を終え、妻が先に休み、使用人たちもついにあきれて各々の部屋に引っ込むまで、星のような軌跡を描く刀を、ただひたすらに振り続けた。
 刀でも、あるいは槍でも、それを握り、無心に鍛錬にあけくれる時間は、林冲にとってかけがえのないひとときであった。
 心を鎮めて刀を振るたびに、林冲は亡き父に、敬愛する師に、信頼する部下に、そして気の置けぬ義兄に出会っていた。
 彼らと無言の言葉を交わしながら舞ううち、雲の向こうから姿を現すのは、己自身であった。
 『強くなれ、林冲』
 己自身が、己に語って聞かせる言葉は、常に同じであった。
 『強くなれ……』
 ーーふと気が付けば、空の端が白み、あたりは霧をふいたような雨に濡れていた。
 (この刀のように、ありたいものだ)
 清く鋭い輝きを放つ刀を壁に掛け、すっかり冷えた寝台に潜り込んだ林冲は、ゆっくりとまぶたを閉じ、
 (……やはり、素晴らしい刀だ)
 結局、雨にも負けずに夜明けを告げる鶏が鳴きはじめるまでずっと、林冲は寝台から宝刀を見つめていた。


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