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水滸綺伝第七回(六)

【第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る】

(六)

 「……随分と、日が長くなった。夏が近いな」
 まだ明るい外の様子を見ながら、もう何杯目かもわからぬ盃を傾ければ、「風流だな」、と陸謙が笑う。
 窓から吹き込む心地よい風に髪を遊ばせていれば、ここ数日張り詰めていた気が緩んでいく心地があった。
 「少し、用を足してくる」
 「おう」
 階段を降り、酔客の中の見知った顔から投げかけられる挨拶に会釈を返して樊楼を出る。
 東側の路地の裏手で用を足し、ふと空を見上げれば、西のほうの空は、なにやら薄暗い、不思議な紫色をしている。
 「妙な空だな」
 ぼそりとつぶやき、樊楼に戻ろうと一歩を踏み出し、路地の入り口まで戻ったとき、あやうくもの凄い勢いで走る小柄な女とぶつかりそうになり、あわてて「危ない」と身を引き、
 「だ、旦那様! どうしてこんなところにいらっしゃるのです?! 先ほどからずっと探していたのですよ! どうして!」
 「錦児?!」
 殴りかからんばかりの剣幕ですがりついてくる小間使いの、その青ざめた顔に既視感を覚え、心地よく暖まったはずの身体から一気に熱が引いていく。
 「何があった」
 「旦那様と陸虞候様が出かけられてから少しして、陸虞候のお宅の使用人だと言う男が奥様を訪ねてやってきて、陸虞候様とお酒を飲んでいらっしゃるうちに旦那様が突然倒れられた、医者を呼んでいるが間に合うかどうか、だからはやく来てくれ、とおっしゃって……奥様はそれを聞いて血相を変えて、お留守はお隣の王婆さんに頼んで、私を連れて、高太尉の御殿のお隣にある陸虞候様のお屋敷に向かったのです。でも、二階に案内されてもそこにはお料理は用意されていたのに旦那様も陸虞候様もいなくて、それで奥様は上を、私は下の階を探そうとしたところに、この間のあの高衙内がやってきたのです! そして奥様に、旦那様はちゃんとおいでになっていますから、とかなんとかうまいことを言って、閉じ込めようと……! 私が慌てて旦那様を探しに駆けだしたとき、奥様が『人殺し!』と叫ぶ声がして、もう、私、どうしたらいいかわからなくて、夢中で走り回って……そうしたら、たまたま薬屋の張おじさんに会って、そしたら旦那様はお友達と樊楼に入っていったと教えてくれて……!」
 息を切らす錦児の言葉が、どこか遠くに聞こえる。
 頭の中が、百万の銅鑼を打ち鳴らされたように痛む。
 「糞……ッ!」
 血の気を失った身体の中で唯一煮えくりかえるはわらたの熱に突き動かされ、林冲は駆けた。高頭街の人並みを押しのけ、御街を飛び、朱雀門を抜け、まっすぐに高俅の屋敷を目指す。
 両親を亡くしたのち、陸謙は林家の隣の家を引き払い、仕事に都合がいいからと高家の屋敷の近くに越したのだ。
 「真娘!」
 門も扉も立て続けに蹴破って家の中に転がり込み、階段を二段飛ばしで駆け上がる。だが、二階への入り口には鍵がかかっているようで、叩いてもびくともしない。
 「いい加減にして! まだ明るいうちに、人妻をこんなところに閉じ込めるなんて、どうかしているわ!」
 「ねえ、奥さん、僕ぁ奥さんに惚れてしまったんだ。ねえ、僕を助けると思って、少しくらい、許してくださいよォ。大の男がここまで頼んでいるんだよ?」
 扉の向こうから聞こえる声にカッと血を上らせ、林冲は鬼の形相で扉を叩き、叫んだ。
 「真娘! 俺だ! ここの鍵を開けられるか?!」
 「あなた……!」
 すぐそばに妻の足音が近づき、必死に鍵をこじ開ける音が響く。
 「り、り、林冲?! またお前なのか?!」
 一方、高衙内の間抜けな声は遠ざかり、大慌てで瓦を踏み付ける足音がそれに続いたーー屋根を伝って逃げたのだ。
 「どいていろ!」
 ようやく鍵の外れた扉を両手で殴りつけ、林冲が部屋に踏み込んだときには、すでに高衙内の姿は部屋になく、ただ青ざめた顔の妻が、悔しげに唇を噛んでいた。
 「夢雪……ッ」
 思わず、妻の諱を呼んだ。
 ほかに誰もいない場所で、先日のように恥ずかしがってつっぱねることもなく、妻は静かに林冲の腕に抱かれた。
 「夢雪、俺は、間に合ったか」
 「ええ……大丈夫、何も、されていないわ」
 己の着物の背を握り込む妻の手は、震えていた。それが恐怖によるものではないのが、余計に林冲の心を抉った。
 妻も、悔しいのだ。己が高俅の権威を恐れて手を出せないのと同じように、妻もまた、夫の身を思って高衙内を糾弾できぬのが、悔しいのだ。
 「すまない……」
 抱き込んだ妻の頬が、己の胸元を擦る。いいえ、と首を振る妻が愛おしいほど、己の愚かさが憎らしくなり、吐き気がこみ上げる。
 高衙内に刃向かえないだけでなく、無二の友と信じた男にさえこうも簡単に裏切られるなど、愚かとしか言い様がない。
 「俺は、信じていたのだ……あいつだけは、何があっても、俺の友だと……それを、あいつは……!」
 つい先ほどまで、陸謙は己の幼なじみだったのだ。
 盃を交わしながら二人にしかわからぬ無言のうちの会話を楽しみ、鬱々とする己の心を救うような言葉をかけ、何の含みもなく笑い合っていたのだ。
 この世に生を受け三十年。生まれたときから常に隣にいた男が、なぜ一夜にして裏切り者になることがあるだろうーー一夜の気の迷いではなかったのを、己はこれまで、気が付いてやれなかったのだ。
 「いつからだ、謙児……いつから、お前は……!」
 言葉にならぬ咆哮をあげ、林冲は卓を、椅子を、棚を、調度を、およそ陸謙の家に存在するすべてのものを完膚なきまでに投げつけ、ひっくり返し、蹴り飛ばし、叩き壊した。
 二階をすべて破壊してもなお収まらぬ衝動のまま階段を降り、一階の家具もすべて、壊して回る。
 陸謙の部屋に踏み入れば、常から几帳面に掃除をしていた姿からは考えられぬほど、書簡や文具が散乱していた。
 それらを蹴散らして執務机を投げ飛ばし、背後の棚の引き出しをひとつひとつ引っこ抜き、
 (……いつから、お前は……!)
 その中のひとつに納められていたのは、王昇のもとでともに修行にあけくれていた頃、王進が二人の努力を讃えて与えてくれた揃いの玉牌の一つだった。
 「畜生!」
 二つの玉牌が、あっけなく足下に砕け散った。
 妻は、止めなかった。ただ、一筋涙を流して、己の蛮行を見つめていた。

 その後夫婦は、息も絶え絶えに追いかけてきた錦児と合流し、三人揃って屋敷へと帰った。
 だが林冲は、決して消えぬ怒りの炎に身を任せ、抜き身の短剣を手に樊楼へと舞い戻った。当然のように、そこに陸謙の姿はなかった。
 剣を手に、獣のような目で街をうろつく禁軍教頭の姿を目にした人々がいったいどう思うかなど、考えもしなかった。
 陸謙の家へと再び足を向ければ、周りの家々は、林冲が暴れ回る音を聞いてすっかり怯えた様子で門を閉め切り、人の姿は見当たらない。
 その後空が紫紺に包まれ、星が瞬き、太陽が再び姿を現すまで、林冲は陸謙の家の前に立ち続けた。
 帰ってこないことなど、わかっていた。もう二度と、己の前に、あの気の抜けたような笑顔を浮かべて現れようとしないことなど、千も万も承知していた。
 「あなた……ねえ、私はこうして、何事もなく済んだのよ。謙兄さん、いいえ、陸謙がどんなことを企んでいたとしても、失敗したの。だからもう、思い詰めないで。身体がおかしくなってしまうわ」
 それから三日間、飯もろくに食わず、酒も飲まずにただ幽鬼の如く屋敷の中を行ったり来たりする己の様子に耐えかねた妻は、何かとなだめすかしたが、それでも身の内に渦巻く嵐は収まらなかった。
 「真娘、俺は……俺は、己が許せないのだ。二度までもお前を危険な目に遭わせておきながら、あの若造を殴ることさえできなかった。おまけに、生まれたときから兄弟のように育った男の裏切りを見抜くこともできず……何が友だ、何が兄弟だ。誓ったのだ、あいつは内から、俺は外から、義のために……二人なら……それを、あいつは、高俅が、あの忌まわしい高一族が怖くなって、こうして俺を騙して、お前を売ろうとした。絶対に許さん!」
 その夜、妻は何も言わず、ただ林冲の背をさすり続けた。
 そうして林冲が家にこもりきりとなり四日目を迎えた昼、岩のような拳で軽快に門扉を叩き、獅子のような声で己を呼びながら、花和尚が姿を見せた。
 「おい、弟、俺だ、智深だ」
 「兄貴……」
 からっと晴れた夏の日を思わせるその声に、久方ぶりに、林冲の顔に血の気が戻ってくる。
 「兄貴、お久しぶりです。今日はいかがされた」
 「いかがも何も、以前会ってからもう随分立つではないか。毎日子分どもの相手だけでは物足りず、お前と話がしたくて、こうしてやってきたのだ。お前こそ、どうかしたのか。食いすぎて腹でも痛めたか?」
 あの日、友だった男もこうして訪ねてきたのだ、と胸の内に鈍い痛みを覚えながら、林冲は弱々しく微笑んだ。
 「兄貴じゃあるまいし、そんなことで体を壊しはせぬ。ばたばたとしていて、お目にかかることができず、面目ない。でも、こうしてせっかくまたお会いできたのだから、ぜひ一杯飲みに行きましょう……どこか、店へ」
 今日は、娘夫婦に起こった事件を聞きつけた舅が、朝から家に来てくれている。鬱々とこもりきりの己を妻も心配していたし、久しぶりに外の空気を吸いに行くのも良いだろう。
 「はは、それはいい! さ、行くぞ、兄弟」
 智深と出かけることを告げれば、どこか安心したような顔で頷いた妻を舅に預け、林冲は智深と肩を並べて歩き出した。
 「弟よ、本当にどこか悪いのではあるまいな。大根のような顔色だ。おまけに少し、痩せたようだぞ」
 「兄貴、お気遣いありがとう。だが、体は無事なのだ……このことは、静かなところで話そう」
 樊楼も、高俅の屋敷の近くも避け、東水門の近くの路地裏にひっそりとたたずむ酒店に足を運ぶ。
 数席しかないこじんまりとした店だが、極上の銘酒をそろえており、一人になりたいときによく訪れる。小さな池を囲む庭が見渡せる席は、陸謙にさえ教えなかった特等席であった。
 「さすが都育ちだ、風情のある店を知っている」
 ものめずらしそうにきょろきょろとあたりを見回していた智深も、なんとも言えぬ良い香りの酒と肉が運ばれてきたとたん、牛のように鼻をひくつかせ、雷のように腹を鳴らした。
 「実は今日は起きるのが遅く、まだ何も食っていないのだ」
 「では、兄貴から」
 盃を打ち合わせれば、待ってましたとばかりに肉にかぶりつく智深の豪快な様を見ていると、もはや長城のごとく厚みを増した心中の曇に、ひとつ小さな穴が空くような心地があった。
 「先日、高衙内が俺の妻に手を出そうとしたのを覚えているか」
 「ああ、助平の畜生の馬鹿野郎のことだな」
 「そいつがまた、俺の妻を狙ったのだ。おまけに、俺の幼なじみだった男を抱き込んで、俺を騙してな」
 事の次第を語るうちに、みるみると智深の顔が真っ赤になっていき、ついにはすっかり骨ばかりになった皿を割らんばかりに卓に打ち付けた。
 「色魔の畜生のあんぽんたんめ! 俺の弟と妹に手を出そうとは、いい度胸だ! 今すぐくびり殺してやる!」
 「ま、待ってくれ兄貴、落ち着いて」
 立ち上がり、髭やら眉毛やら全身の毛を逆立てて怒りを露わにする智深の姿はさながら閻魔のようで、このままでは何の関係もないこの店まで壊しかねないと、林冲はあわてて智深の両肩を押さえ、座らせた。
 「結局、妻は何ごともなかった。二度も俺に計略を阻まれては、高衙内も、もう手出しはして来るまい。俺の婚礼の時には、高俅も自ら足を運び祝儀の品を携えてきたくらいだ。これ以上騒ぎを大きくすれば、養父の顔に泥を塗ることになるくらい、さすがの高衙内もわかっていよう。己への不甲斐なさも怒りもあるが……俺があの若造を殴らなかったことで、高俅の顔も立った。この上、兄貴にまで累が及んでは」
 「兄だからこそ、こうして腹を立てるのだ! 弟を侮辱するは、この俺を侮辱するも同じ。妹に害をなそうとするは、この俺に害をなそうとするも同じこと」
 肩に置いた手は、いつのまにか、智深の熱い拳の中に握り込まれた。さすがの膂力に、骨がきしむ。
 「いいか林冲、次こそ、お前たち夫婦に手を出す者がいたら、俺に言うんだ。たとえ役人だろうが、太尉だろうが、皇帝だろうが、俺の知ったことではないわ!」
 「わかった、わかったよ兄貴、兄貴の情義に、俺は心を打たれた。今日はとことんつきあってくれ」
 「そうだ、それでこそ好漢だ。お前の足下にも及ばない糞野郎のことなぞ、酒を飲んで忘れてしまえ。そして明日からは、ちゃんと外へ出ろ。今のお前は、大根どころかもやしのようだ」
 つばを飛ばして檄を叫ぶ義兄弟を見ている内、知らず、こわばっていた顔がほどけてゆく。
 思えば不思議なものだ。三十年も隣にいた男より、出会って十日も経たぬ男のほうが、己の心に深く恩義を刻むとは。
 「さすがは菜園番だ、野菜の話が次々出てくる」
 「ハハ、実はな、畑仕事も悪くないと思い始めて、子分や作人に混じって、俺も土をいじり始めた」
 「それで、以前会ったときよりさらに日に焼けているのだな」
 「お前も一緒にやってみるか?」
 「では、明日から毎日、調練の後に兄貴の畑に行って、酒を飲みながら眺めるとしよう」
 「何だと? 見ているだけで済むと思うなよ」
 笑い声をあげたのは、久しぶりだった。
 この陽気な大男の前では、鬱々としているほうが難しい。
 「なあ、林冲、毎日来い。話したいことは、山のようにあるのだ」
 「わかったよ兄貴。畑も……少しならば、手伝おう」
 その日からは、調練を終えた後、智深の菜園に赴くことが日課となった。
 あるときは菜園の番屋で、ある時は店で、ある時は林冲の家で、毎日酒を酌み交わし、愉快に笑い合ううちに、少しずつ、あの日の狂おしいほどの怒りは薄れていった。
 元気を取り戻した夫を見て、妻は、私の言葉さえ三日かかっても聞き入れなかったのに、と口を尖らせながら、それでも嬉しそうに微笑んでいた。
 失いかけた平穏な日々が、再び戻ってきたのだと、林冲は信じた。
 信じることしか、できなかった。

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