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水滸綺伝第七回(三)

【第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る】

(三)

 たった一言で、まるで金剛力をふるったかのごとく智深の禅杖の舞を止めた男の声は、決して大きくなく、ましてや偉そうに威張ってもいなかった。
 だが、紛うことなく己の演武に向けられたその声は、凜と張り詰めた月の宵に似た色の中に、隠しきれぬ興奮と熱情を宿していた。
 まるで、長年探し求めてやまなかった失せ物を、ようやく見つけたときのように。
 (いったい、どこのどいつだ?)
 己を通り越して注がれる子分たちの視線の先を、智深は振り返った。
 菜園と表通りを隔てる崩れかかった塀の向こうで、一人の男が笑んでいる。
 自らも余人より遥かに上背のある方だが、その男も、己に負けずにすらりと背が高い。
 結い上げた黒髪を包む頭巾は曇りない空を切り取ったかのような青色で、決して華美に過ぎず落ち着いた輝きを宿した連珠の白玉の髪飾りで後ろを留めている。
 均整のとれた長身の体躯に纏うのは、三月の陽気の中にあって涼やかな緑色の薄絹に精緻な団花模様が配された戦袍で、引き締まった腰には銀の帯を巻き、亀背の二つ金具で繋いでいる。
 先の四角い朝様の靴といい、手に握った西川の畳紙の扇子といい、己は言うまでもなく、渭州で洒落者をきどっていた男たちですら思いも至らぬような瀟洒な品であるのにまったく嫌味を感じさせないことは、衣服や小物にまったく関心のない智深をさえも感心させた。
 だが、その都流行の出で立ちよりもさらに智深の目を引いたのは、男の容姿である。
 狭く知性を感じさせる額と、強い意志を秘めて深く輝く瞳は、その長身と精悍な風貌もあいまって、雄々しくしなやかな豹を思わせる。
 結いきれなかった前髪が零れかかる燕の顎はきっぱりとした線を描いており、野性の優美を湛えた虎の髭をはやし、誇りと慎み、威厳と寛容を併せ持った堂々たる姿には、ようやく齢三十に達しているかどうかという若さであるのに、ただ者ならぬ風格があり、そしてーー
 (こんな好漢を、俺は、知っていたんじゃなかったか)
 豹のごとき瞳を細め、ひどく嬉しそうに「あの者、ただの和尚ではないな、本当に見事な腕前だ」と一人頷くその男の姿に、後ろに控えていた子分たちが次々ざわめき出す。
 「なんと、やはりお師匠さまはただ者じゃあない」
 「そりゃそうだ、あの御方があそこまで褒めなさるんだからなァ」
 こんなろくでなしの博徒どもにさえその存在を知られ、一目置かれているとは、この男、よほどひとかどの人物らしい。
 「おい、あの武人はいったいどこのどなただ」
 すると子分たちは、そんなことも知らないのかと言わんばかりに目を丸くして答えた。
 「お師匠さま、あの方こそ誰あろう、八十万禁軍の槍棒術教頭をされている林教頭。豹子頭と名高い林冲殿ですよ!」
 「林冲……林……」
 豹子頭の二つ名も、若くして禁軍教頭となったその武勇も、遠く渭州の地まで轟いていた。好漢を自負し、好漢との交わりを望む己とてその名を知らぬはずはなく、顔形さえ知っていれば、わざわざ誰何を尋ねることもなかったのだ。
 ――恩師とあおぐ人の面影を色濃くまとったその顔形さえ知っていれば、どうして八十万といる林姓の一人だなどと思っただろう。
 「おい、どうしてそれをはやく言わんのだ! さっさとあの方をこちらへお連れしろ! 」
 「ど、どうしてって……」
 理不尽な智深の怒鳴り声に呆れた顔を浮かべた子分どもが、林冲を案内しようと振り返ったとき、
 「気遣いは無用、こちらから参りましょう」
 とろりとした緑の薄絹が、虚空に翻った。
 「貴方のような手練れの御僧にお会いできるとは、光栄です」
 智深の目の前で慎ましやかに拱手し、控えめな微笑を浮かべて折り目正しく頭を下げる禁軍教頭は、ただの一跳びで塀を飛び越えたのだ。
 長身であるのに軽やかな身のこなしも、けっして出しゃばったり威張ったりしないその礼節も、かつて八方ふさがりの中で生きることに難儀し、半ば自棄になっていた己と育ての父を助けてくれた恩師の姿そのものである。
 「林教頭……林冲殿、俺のほうこそ、あんたに会うことができて、心が震える思いだ。さ、どうぞ、ここへ座ってくれ」
 子分に命じて槐の木陰に床几を運ばせた智深は、林冲の手を取ってそこへ座らせた。
 林冲の掌は、肉の厚い己の手に比べれば薄く筋張っていたが、ほんの一瞬触れただけで長年の鍛錬を感じさせるほどに固い。
 所作のひとつひとつにはいっさいの無駄がなく、軍人にありがちの粗暴や粗野さえ、一種の品に昇華されていた。
 「突然声をかけ御僧の演武をお止めして申し訳ない。だが、こんなところで、これほど豪気で見事な武術の才をお持ちの方をお見かけするとは思いもよらず、つい声をあげてしまったのです。失礼ですが、御僧の法名はなんと申されますか。どちらのお寺の和尚さまです?」
 本物の坊主のごとく、ただの退屈な畑番で一生涯を終えるやもしれぬという薄暗い想いは、もはや智深の内から消えていた。
 遠く流れ着いた想い出の地で、またとない好漢と出会ったのだ。いったい、目の前のこの男が好漢でないと言うのなら、だれが自ら好漢を名乗ることができるだろう。
 「あいや、拙僧、元の俗名を魯達と言う者。関西は渭州で提轄をしていたんだが、人を殺してしまい坊主になって、法名を魯智深と名乗っております」
 智深は改めて林冲の顔をまっすぐ見た。
 「実は、二十年くらい前、一度開封に来たことがあるんだが、そのとき林瀞と言う名の提轄殿に大変な世話になり、武の道を一から教えてもらいましてな。お見受けするに、林瀞殿は、教頭、あんたの御父上では?」
 「なんと……我が父を知っておいでか!」
 智深の口からその名が出たとたん相好を崩した林冲は、西川の扇子を指先に遊ばせながら興奮気味に答える。
 「父は提轄の務めの傍らで、身よりのない子や貧しい子供を家に迎えて槍棒を教えておりました。武の道だけでなく、人倫の道も教えるので、提轄という身分ではありましたが、周りからも一目置かれていたようで……俺も、父を心から尊敬していました。あなたも父に槍棒を習ったとか、ですが恥ずかしながら、あなたをお見かけした記憶がないのです。二十年ほど前と言えば、俺も父の友人の禁軍教頭のところでの修行だとか、私塾だとかに通い詰めていた頃故、きっとあなたとは擦れ違いだったのでしょう」
 「ハハ、俺も林提轄の家族のことなど知らなくて、御令息がいるとはこちらに来てから聞いたのだ。だが、あんたの顔は、林瀞殿によく似ているから、一目で御家族とわかりました。商売に失敗して自棄になっていた俺と育ての父親に、あの方は金を貸してくれたばかりでなくいろいろと世話をしてくれてな……開封にいたのはわずか一月ほどだったが、その間に俺は、槍棒を通して人の道を教わったのです。あの一月がなければ、俺も武の道を極めようなど思わなかったかもしれん。そういえば、御父上は随分前にお亡くなりになったとか。ここへやって来たついでにご挨拶でもと思ったが、残念なことだ……まあでも、こうしてあんたのような立派な兄さんに会えたのだから、十分だ」
 そうして話している間にも、林冲の瞳は、着物の上衣を絡げた己の身体に咲く刺青や、汗の滴る腕、そして傍らに立てかけた禅杖へと次々移ろい、なにかうずうずとした心を必死で押さえるかのように膝を揺すっている。
 武に生きる者ならば、その瞳に、仕草に、宿る熱が何によるものか、わからないわけがなかった。
 好漢は、好漢を求めるーーつまり、戦いたいのだ。燃える命を、交わしたいのだ。
 智深もまた、じい、と林冲の瞳を見返した。父親によく似た風貌の中で、好戦的かつ情熱的なその瞳には、どこか彼の母の面影があった。林提轄の妻とは数度しか顔を合わせたことがなかったが、柔和な面立ちに反してひどく意志の強い瞳だけは、今でもはっきりと覚えていた。
 「……魯大師、唐突なのですが、俺の望みを聞いていただけますか」
 「あんたの頼みとあらば」
 それに、どうせその望みは、己の喉の奥から競り上がってきた望みと等しいものだ。
 「どうか一つ、手合わせを願いたい」
 拱手し、頭を下げた林冲に対し、智深もまた拱手を返した。
 「それは願ってもいないこと。八十万禁軍教頭との手合わせとなれば、俺の腕も鳴るというものだ!」
 智深はがばりと立ち上がり、傍らの禅杖を握り、しかし、はたと気がついた。
 「だが、突然のことで、あんたの得物がないな。槍棒術の手練れが徒手空拳とは」
 「ならば、これを」
 林冲が歩み寄ったのは、先日智深が引っこ抜き、そのあたりに放り投げた、柳の大樹であった。
 根を引きちぎられすっかり色を失ってはいるが立派な枝振りを残したままの大樹の、中でも太くしっかりとした枝を選び、いともたやすく片手でその枝を手折った林冲は、しかし、首をかしげる。
 「こんな大木が倒れるとは……このところ、天気は良かったはずだが」
 「林教頭、それは風で倒れたんじゃありませんぜ」
 二人の好漢の邂逅を邪魔立てせぬようおとなしく後ろに控えていた子分たちの一人が、我がことのように得意げに、この柳の木が何故ここに横たわっているのかを語った。
 「この柳の木に鴉が巣を作ってうるさいってんで、巣をとろうとはしごをかけていたら、なんとお師匠さまが素手でこの木をむんずと掴み、根っこから引っこ抜いちまったんですよ」
 「なんと……素晴らしい怪力をお持ちだ!」
 いっそう顔を輝かせた林冲は、折り取った長い柳の枝をくるりとまわし、腰を落として智深に向かい合った。
 「魯大師、今のお話を聞いて、いっそうあなたと戦ってみたくなりました。どうか……手加減などなきよう」
 「ハハ、望むところだ!」
 じりじりと、互いの間合いを計りながら、智深もまた禅杖を握って林冲と相対する。
 さすが名高い禁軍教頭は、その構えの中にいっさいの無駄な緊張がない。
 そのくせ、どの方面から禅杖が振り下ろされてもすぐにそれを打ち払えるよう、さりげなく気を張っているのだ。
 「……来ねぇならこっちから行くぞ!」
 つい故郷の訛りを乗せた一喝を発すると、猪の如く林冲に詰め寄りその足下を大きくなぎ払う。
 だが湾曲した刃が描く円よりもさらにはやく舞い上がった林冲の長身は、宙でくるりと一回転し、木の枝を振り回しているとは思えぬ鋭く、重さを伴った一撃が智深の右肩を狙って振り下ろされる。
 「ウォッ、と!」
 すんでのところで引き戻した禅杖の枝で受けた衝撃は想像を超えて重く、智深の巨体がず、と柔らかな地面にめり込む。そのまま禅杖をぶんまわして柳の枝をへし折ろうとするが、身を低くした林冲の足が己の足を払おうとしているのに気をとられて思わず後ずさる。
 「ふん、なかなかやるじゃねぇか」
 細かく何度も胸元を襲ってくる突きを禅杖ではじき返しながら、しかし智深もまた林冲の懐を狙って禅杖の刃を走らせ、それを防ごうと林冲が手元をぐいと引いたところで一気に躍りかかる。
 「くっ……!」
 刃をよけるために顔を傾けたところを太鼓腹に似合わぬ素早さですり抜け、振り返る反動で一気に禅杖を振りかざし、
 「……お見事」
 禅杖の刃をまともに受けて真っ二つになるはずだった柳の枝は、しかし、がちりと禅杖を受け止めたままびくともしない。
 「あんたもな」
 互いにぎりりと力を込めても、どちらも一歩も譲らない。
 汗ばんだ手が禅杖を取り落とさないよう必死に歯を食いしばりながら林冲を見れば、林冲もまた、精悍な顔に玉の汗を滴らせてこめかみに青筋を浮かばせている。
 (俺の力とまともに張り合うとは、豹子頭林冲、さすがだ)
 このままでは埒があかぬとみた智深は、自ら禅杖を握る力を抜き、刃を下げた。
 「ハハ、林冲殿、あんた、すごい好漢だ。久しぶりに、胸が熱くなったぞ」
 林冲もまた、智深が打ち合いをやめる頃合いを察して柳の枝を投げ捨てると、目尻を下げて微笑む。
 「魯大師、俺も、あなたの剛力に敬服いたしました。ひとつでも気を抜けば、その刃でなぎ払われてしまいそうだった」
 「お、おい」
 美しい着物が汚れるのもかまわずに突然林冲がひざまずき、智深はおおいに慌てた。こんな誇り高き偉丈夫が、己のような荒法師に拝礼をするなど、よほどのことだ。
 「何をする、やめてくれ林冲殿、あんたほどの男が」
 「いいえ、魯大師、どうか俺の拝礼をお受けください。柳の大樹を引き抜くほどのあなたの剛力は俺でさえも敵わず、豪放な太刀筋の中にも確かな芯のあるあなたの戦い方に、父の面影を見ました。これほどまでに心震わす好漢と出会えたことは俺の幸福、どうか……俺と、義兄弟に」
 今度こそ智深は心底驚き、丸い目をさらに丸くした。
 「この粗忽な人殺しの荒法師と、義兄弟の契りを交わしたいと言ってくれるのか」
 「あなたの様子をお見受けすれば、きっとその人殺しも義のためのもの。自らを荒法師とおっしゃるなら、いっそ花和尚とでも呼ばせてください。その見事な刺青にかけて」
 かたずを飲んで二人の手合わせを見守っていた子分どもも、ははあ、と感心したように頷いた。
 「……花和尚……なるほど、師匠にぴったりの二つ名だ。刺青の荒法師、花和尚魯智深、なんとも強そうじゃありませんか」
 「花和尚……」
 口の中で何度も繰り返し呟けば、なるほど、己にぴったりの二つ名と思われて、智深は嬉しくなった。
 好漢を自負していた己だが、ようやく真に好漢であると認められた気がしたのだ。
 「あいや、これは思わずいい二つ名をいただいた。林冲殿、そこまで俺を買ってくれるあんたの度量に俺も感激したぞ。ぜひ、義兄弟の盃を交わそう。やい、お前ら、はやく誓いの支度を!」
 智深にせかされ、子分たちがさっそく酒と盃、線香を番屋から運び出してくる。
 「魯大師、あなたの御年齢は」
 「俺は今年で三十二、あんたは?」
 「俺は三十になりました……では、あなたが兄貴ということですね」
 「ふむ……八十万禁軍教頭の兄貴分とは、なんだか気分がいいな」
 林冲に「兄貴」と呼ばれるのがどこかくすぐったく思われて、智深は髭を震わせ、にやりと笑った。
 「同年同月同日に生まれずとも、同年同月同日に死のうではないか、なあ、林冲」
 「必ずや、国家に報い、民を安んずることを誓おう、兄貴」
 二人並んで天地に礼を捧げ、額に掲げた線香を小さな香炉に順に立てる。祭壇などなくとも、この義兄弟の契りになんらの不足はない。
 はからずもこの契りの証人となった子分たちが、「おめでとうございます、お師匠様、林教頭」と何やら得意げなのは、親分が皆の尊敬を集める禁軍教頭の兄貴になったので、自分たちも大きな顔ができると思ってのことだろう。
 子分たちに酒をなみなみ注がせた盃をかちりと合わせ、一気に呷る。林冲もまた、盃をぐいと傾けて、濡れた髭を拳で拭っているのを眺め、
 (「林」に遇いて起ち……)
 ふと、智真長老の偈がよみがえる。
「ハハ、なんとも痛快な日だ! さあ、兄弟、遠慮せずどんどん、飲んでくれ」
 心の内にかかっていた薄霧が、すう、と晴れた。
 肩を揺らし、風を震わせ、腹の底から、智深は笑った。

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