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水滸綺伝第六回(三)

【第六回 九紋龍、赤松林にて追剥し 魯智深、火にて瓦罐寺を焼く】

(三)

 廃寺からほうほうの体で逃げ出したはずの大男が、再びゆらりと現れたのを見て、石橋の欄干に腰かけ辺りを見回していた二人の賊は、へらりと薄い笑いを浮かべた。
 「おい、見ろよ。俺たちに負けたやつが、またのこのこと戻って来たぜ」
 「兄貴、おいらが相手をしてやろうか」
 「いや、なに、少し体を動かすにはちょうどいい相手。この生鉄仏があのでぶを御陀仏にしてやろうじゃないか」
 欄干から滑り降り、朴刀を手に、黄色い歯をむき出してこちらに歩んでくる崔道成に向かって、智深もまた大音声で怒鳴りつける。
 「ふん、さっきは腹が減って力が出なかったが、此度は違うぞ。貴様ら如き、とことん叩きのめしてやる!」
 「ぐうッ!」
 もはや飢えも満たされ、おまけに背後には義兄弟が潜んでいる。水を得た魚とばかりに禅杖をぐるりと振り回して躍りかかれば、生鉄仏のほうも、これはどうやら先程と様子が違うと目を見開き、気合一成、腰を落として智深の一撃を受け止める。
 「しつこい野郎だ、これでも喰らえ!」
 八、九合も渡り合わぬうち、甲高い音とともに、しっかと握ったはずの刀を吹き飛ばされ仰天した崔道成は、余裕の態度などかなぐり捨てて、背中をこちらに見せぬようにと必死の形相で後ずさる。
 「兄貴!」
 仲間の窮地を見た丘小乙が、慌てて助太刀に入ろうとするが、そのとき、近くの大樹の影で息をひそめていた史進が軽やかな足取りで飛び出した。
 「動くな! お前の相手は、この俺だ」
 「ひっ……!」
  鴈翎刀を振り上げる袖口から露になった龍の刺青に恐れをなした丘小乙は、それでもどうにか史進に歯向かったが、九紋龍の重たい太刀筋を防ぐのがやっと、息を荒げて駆けずり回る様はなんとも無様で、横目に見ていた智深も思わず笑い声をあげた。
 「ハハッ、大口叩いていた勢いはどこへ行った? 貴様らのように年寄りを虐げる賊に、慈悲などないぞ!」
 巨体を揺らして飛び上がった智深の禅杖が、一直線に生鉄仏の脳天に吸い込まれる。
 「逃がすか!」
 もはやこれまでと見て走り去ろうとした丘小乙の背中を史進の鴈翎刀が鮮やかに奔り、立て続けに幾度も容赦なく貫く。
 先はあれほど智深を苦しめた二人の賊は、最期の悲鳴も上げられぬまま、高々と血しぶきを迸らせ、冷たい石橋の下に消えていった。
 弱い者を虐げる者を、今度は自分の意志で葬った。ふと橋の下を覗き込めば、もはや動かぬ肉となった二人の小悪党から流れ出した赤い血が、川面を一瞬黒々とした赤に染め、そして消えていく。
 「やったな、兄貴……兄貴?」
 黙ってその様子を見つめる己を不審に思ったのか、史進に背中を叩かれる。
 「どうした兄貴? まさか、このくらいで疲れたわけじゃないだろ?」
 「ハハッ、何を言う。腹が減っていなければ、こんな小悪党など俺の相手ではなかったんだ」
 「そりゃあそうだ。さ、それより、寺の中の様子を見に行こう。瓦罐寺、と書いてるぞ」
 「瓦罐寺、か。食い物も、水さえ満足に残っていないのに罐かまも何もあったものか 」
 切り捨てた肉塊を振り返りもせず、颯爽とした足取りで寺の中へと進んでいく史進に続いて智深もまた廃寺の内へと引き返す。
 「……なんだ、随分しんとしているな。これじゃあ俺が気付かないわけだよ」
 「いや、史進。なんだかちいとばかり、静かすぎるぞ」
 やかましいほどに威張り散らしていた輩がいなくなっただけにしては、気味の悪いほどの静けさに、智深は太い眉を潜める。何やら風までどんよりと動いていないようで、じとりとした湿り気がわずかに頬に絡みつく。
 「おい、坊主、じいさんたち、お前らを困らせた阿呆どもは、この俺がやっつけて」
 訝しみながらも、老僧たちが息を潜めているはずの小屋に踏み入った智深は、この静けさの訳を目の前にして、つう、と押し黙った。
 「兄貴? どうした……」
 石像のようにかたまった兄貴分の後ろから中の様子を覗き込んだ史進もまた、口をつぐみ、ふ、と息を吐いたようであった。
 「……年寄りというのは、短気でいかん。俺の真の力量を信じられなかったか」
 揺れもせず、ゆらりと梁からぶらさがる骸に背を向け、智深は半ば諦念をもって、槐の樹のあったところへと行ってはみたが、近くの井戸の傍に並んで置かれた小さな靴を見ては、これ以上探し回る気は起きなかった。
 「兄貴、終わってしまったことは仕方がない。それより、ここに長くいては、いらん疑いをかけられるかもしれないぞ。はやく荷物を探して、出発しよう」
 「ああ、お前の言うとおりだ。せっかく人助けのつもりで痛快に暴れてやったのに、また妙なことを言われて役人に追いかけまわされるんじゃ、たまらんからな」
 だが、先ほどの小屋に置いてきたはずの荷物は、影も形もみあたらなかった。わずかばかりの着物や草鞋などどうでもよいが、あの中には智真長老より預かった大事な手紙が入っている。
 「弱った、いったいどこにいったんだか」
 「このあたりを探して見よう。僧侶たちがかっぱらって、どこかに隠したかもしれないぞ」
 「それなら、この槐の樹の近くが怪しいな」
 二人であたりを見渡せば、ちょうど木々の葉陰に、崩れかけた長屋のような小屋がある。押し入ってみれば、七つも八つも部屋があるうちのひとつに、あれこれとした荷が山のように積まれており、その一番手前には、智深の運んできた荷が無造作に放り出されていた。
 「ハハ、俺の荷があまりに軽いんで、大したものは入っとらんと捨て置いたな?」
 包みを解いて中を改めれば、衣服も草鞋も、そして手紙も何一つ欠けることなく揃っている。
 「よかった、この手紙がなきゃ、住処にもあぶれるところだった」
 「それが、さっき話していた智真長老様の手紙か。東京といやあ、ここからすぐ……いや、近いのかな。ここがどのあたりなのか、見当がつかないけど、あまり遠くないといいね。東京には行ったことがないが、王進師匠の話を聞く限りじゃ、とても華やかな都なんだろうな」
 話ながらも手を止めず、山と積まれた荷を改めていた史進は、その中から傷みの少ない着物と銀子を探り当て、智深に投げてよこした。
 「俺が幼い頃に立ち寄った時も、賑わっていた。あんなに人がうじゃうじゃいるのを見たのは、後にも先にもあれだけだ」
 受け取った着物はどう考えても智深の太鼓腹を収めるには小さすぎたが、売れば多少の路銀にはなるだろう。
 「そういえば、やつらが残していた酒と肉があったな。あれも失敬しよう」
 「え、兄貴、まだ食うのか」
 「馬鹿を言え、干し肉とおやきくらいでいっぱいになるような腹じゃないわ」
 「ハハ、確かにな」
 賊どもが二度と続きを味わうことのできなくなった宴席に舌鼓をうつと、衣服や銀子を詰め込んだ荷物を抱えなおし、禅杖を手に握り、すっかり身も心も満たされた智深は、史進と連れ立って早々にこの寺を去ろうとした。
 だが、満たされたはずなのに、どうにも心のうちに気にかかるものがある。
 「……供養を」
 「供養?」
 意外げに目を丸くした史進よりも、驚いていたのは己自身であった。
 育ての親さえ満足に供養せずに暮らしてきた己が、恩人でも知人でも友でもない、僅かな時間言葉を交わしただけの他人相手に、そのような言葉を口に上らせるなど、夢にも思わなかった。
 おまけに僧形とは言え、すっかり仏に帰依するような殊勝な心を持っているわけでもない。
 それでも、なぜか、その想いは無意識の中で口をついた。
 「……思えば、哀れな者たちよ。五台山の坊主と名乗りながら経も満足に読めんが、せめて荼毘に付してやろうじゃないか」
 去り掛けに通りかかったかまどの傍に屈みこみ、僅かに残った火種をかき集めて火を起こすと、手近な藁を縛って作り上げた二本の松明に火をともし、その一本を史進に渡す。
 「丁度風も吹いてきたようだ。お前はあの槐の樹を燃やしてくれないか」
 「……わかったよ」
 刹那、何かを考えるような色を乗せた史進の瞳は、しかしすぐに常の健康的な輝きに戻る。
 「火をつけたのは、二度目だ」
 智深の心の内を察したかのように強さを増した風に吹かれ、廃寺を包んだ炎はその勢いを増す。
 天にまで上る黒い煙を離れたところから眺めていた智深の隣で、史進がぼそりと呟いた。
 「さ、行くぞ。また宿を逃してはかなわんからな」
 弟分の背を軽く叩き、智深は赤松林を迂回して、細い馬車道を歩き出す。
 「兄貴はこの辺りに詳しいのかい?」
 「詳しくはないが、どう考えてもこの大層な林に入り込んじまったら、迷うだろう」
 「俺は近道だと思うんだけどなあ」
 「史進よ」
 五台山を下りてから、うるさく言う者もおらずすっかり伸ばし放題の髭をさすり、智深は唸る。
 「お前は、地図を見ながら旅をしたほうがよさそうだぞ」
 「もちろん見てるよ! でも、持ってるものが古いのかもしれない」
 「……そうだなあ」
 何とない話をしているうちに、夜が暮れ、そして朝が来た。
 腹ごしらえさえしてしまえば、己も史進も、一晩くらい歩き通すのは屁でもない。
 背中から追いかけてきた焦げ臭い風がようやく気にならなくなった頃、道の先に、人の営みらしきものが見えてきた。
 「しめた、村があるぞ。少し休むとしよう」
 穏やかに晴れた朝の青空の下、農作業に精を出す村人たちは、まるでこの長閑な村にそぐわぬ風体の大男が二人、のしのしと歩いてやってきたので、ぎょっとして二人を遠巻きに見守っているようであった。
 (ふん、どいつもこいつも、朝から気分の悪い)
 物心ついた時から、好意的で友好的で暖かな眼差しを向けられることは稀であったが、それでも提轄であったころ、渭州の民の目には恐れのほかに信頼と畏敬があった。
 それが今では、もはや善良な役人でも、まして徳のある真実の僧侶でもない、荒れ放題の髭と伸び放題の眉毛を蓄えた荒法師の姿なのだから、恐れられて当然と言えば当然なのだが。
 「おい小二、酒と肉、それに菜と飯だ! あるだけ持ってこい」
 とりあえず手近な店の扉をくぐれば、早朝から大声をあげて入ってきた客が、そのうえ僧形なのを見て何か言いたげにしていた店主も、あまりにも凄みのある視線にただただ、はい、と頷き、先に酒と菜を卓に並べると、そそくさと厨房のほうへ姿を消した。
 「そういえば、林で何も起こらなかった」
 「林? あの赤松林のことか?」
 菜をつまみながら、ぼつりと智深が零した言葉に、史進が首をかしげる。
 「林に遇いて起ち、山に遇いて富み、水に遇いて興り、江に遇いて止まる。長老から授かった文句だが、桃花村の近くでも、先の赤松林でも、 これといって何か特別なことは起こらなかった」
 「俺に再会したとか?」
 「それはそうだが、長老が偈とするくらいだぞ、もっとこう、派手なことが起こるのかと思ったんだが」
 胸元から皺だらけになった紙を取り出し、口尻をさげながら睨みつける。偈の文字だけは覚えたが、どうにもその真意まではわからない。
 「これから東京に近づいたら、あんな鬱蒼とした林なぞ殆どない。あそこは本当に開けているんだ」
 「前に行ったときは、旅行だったのか?」
 「いや……身内と一緒に、商売をしにな。俺がまだ十か十一かの大昔のことだが、それでもさすがは皇帝のお膝元、品物も食い物も、人間も、なんでもあそこには揃っていた。俺によくしてくれた人の屋敷の近くに、大きくて洒落た樊楼があった。あの時は縁などなかったが、きっと今でも残っているだろうから、一度立ち寄りたいものだ。その人も達者でいるかどうか、顔を見に行かねばな」
 「へえ、そりゃいいや」
 まだ見ぬ都に思いを馳せる史進の顔はきらきらと輝いていたが、俺も、と言い出すような風はない。
 そして智深も、無理に誘うつもりはなかった。
 「史大郎、お前はこれからどうするんだ」
 湯気をあげる牛肉をほおばりながら、史進は迷わず答える。
 「俺は、少華山へ帰るよ。もうまったくの潔白の身とも言えなくなったことだし、朱武たちのもとに行って……それからのことは、それから、考える」
 「はは、それもいいだろう」
 智深はあっという間に残り少なくなった酒を史進と己の盃に満たすと、懐を探り、得たばかりの銀子を二、三取り出して、史進の手に握らせた。
 「兄貴、これは」
 「路銀にしろ。お前はどうせ、まっすぐ帰れそうにないからな。余分に持っていけ」
 「なんだよ、どういうことだ?」
 くりくりと不思議そうな色をのせた瞳は、それでも智深の好意を拒まなかった。
 「ありがとう、いつか恩返しをするよ」
 「そんなかたいことを言うな、兄弟。困ったときはお互い様だ。お前のおやきがなければ、今ごろ俺は飢え死にしていたところだ」
 最後の一杯を飲み干すと、二人は勘定を済ませ、身支度を整えるて店を出た。
 妙な二人連れがやって来たことは、狭い村中に疾風の如く伝わったのだろう、穏やかな朝だというのにほとんど人影のない村の中を突っ切り、しばらくあれこれと話しながら歩き続けた智深たちは、気が付けば東京へと続く三叉路へと差し掛かっていた。
 「さて……名残惜しくはあるが、ここでお前とはお別れのようだ」
 「なあ、兄貴」
 ふと、史進が 范陽帽の下からこちらをじっと見上げてくる。
 「少華山に行くことを考えたことがあるかい?」
 「ふむ、お前の話を聞いた限りではなかなか愉快そうではあるが、だが、長老との約束を破るわけにもいかん。俺は東京へ、お前は華州へ、いつかまた会える日もあるだろう」
 「……そうだな」
 史進は、それ以上何かを言うことはなかった。
 「俺は東京へ、この道を、お前は華州へ行くんだから、この道をまっすぐ、まっすぐ行けばいいんだぞ、いいか、道なりにまっすぐだ。わからなくなったら、その辺の奴をつかまえて道を聞くといい」
 「ハハ、なんだ、兄貴はいつからそんな心配性になったんだ? もう子供でもないし、大丈夫だよ。じゃあ、元気でな」
 そしてさっそうと、智深が指さしたのとは別の道を歩いていく史進の後姿を見送った智深もまた、それ以上何かを言うのはやめたのであった。


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