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星盗人(終)

 細い息をふうふうと吐く時遷の小さな体を左腕に抱き、その濡れた顔を胸元にそっと引き寄せ、史進は縛り上げられた男をじっと見た。
 今の顔は、時遷には見せられない。
 『好きなとこ? 顔だよ、顔』
 自分の顔についてさしたる思い入れもないが、時遷が好きだと言ってくれる普段の己の面影などきっと、今は欠片もないだろう。
 「……あ、頼む、許してくれ……ただ俺は、仕返しがしたかっただけなんだ……」
 「仕返し?」
 子どものような言い訳を、そのまま返した己の声のその冷たさに、我ながら驚く。
 「時遷にすべてを奪われた、その報復か? この人は、お前が奪って、穢して、傷つけたいくつもの大切なものを、助けるためにお前から奪ったのに? なあ、お前、許してくれなんて、よく言えたな……今の俺じゃなかったら、お前の首はもうとっくに体から離れてる」
 三尖刀を握る手に、力を籠める。けれど、それを振り上げることはない。
 合図に器を割るから、と、時遷の言葉通りに待っていた茶店の中でも、そわそわと辺りを窺うようにして店に入っていった男の姿を見た時も、石秀が念のためにと後を追って梁山泊から駆け付けている戴宗と楊雄に助太刀を求めに走った時も、器の割れる音を聞いて店に駆け込み、細く開いた隠し扉からその光景を見たときも、
 「……お前を殺すのは、俺じゃない」
 耐えたのだ。時遷が、耐えていたから。彼を、彼の愛する人を、彼の愛する場所を、なんの遠慮もなく貶め、穢れた手で封じたはずの傷を抉る男を前にしても、抗っていたから。抗った先に、きっと自分の名を呼んでくれると、信じていたから。
 「あ……九紋竜の若旦那……なあ、頼むよ、俺は……ぐぅ!」
 まだ何か言いたげな男の口を、思い切り踏みつける。ぐしゃり、と嫌な音がしたから、二度とまともな言葉を話すことはできないだろう――まあ、もうすぐ殺すのだから、どちらでもいい。
 「お前は、俺の一番大切な人を傷つけた……本当なら俺の手で、生きたまま皮を剥いで、切り刻んで、肥溜めにぶち込んでやるとこだ。でも、お前はもっと汚しちゃいけないものに、手をつけた」
 時遷を抱く腕に、力を込める。
 守りたいのは、この人のいのち、この人の誇り、そしてこの人の愛するものすべてだった。
 「よくも梁山泊を、石秀を、楊雄哥哥を虚仮にしたな。楊雄哥哥はお前の命までは取らないで、やり直す道を残してくれたんじゃないか。それをお前はよりにもよって、楊雄哥哥が大切にする弟分に手を出して、その上この人の前で口汚く罵りやがって」
 楊雄を慕う時遷の想いを知っていた。命の恩人なのだと、兄のような父のような人なのだと言う時遷のことを、楊雄もまた、石秀と同じく弟のように息子のように想っているのを知っている。
 「だから、お前を殺すのは俺じゃない」
 ふ、と、まだ明るい昼下がりのはずなのに、冷ややかな風が吹き込むようだった。
 「……あのときお前に、情けをかけるんじゃなかった」
 「……っ!」
 絶望に見開かれた男の目が最期に見たのは、幽鬼のごとく目を血走らせた病関索の顔だった。

 「あぁ、いってえ、いてえ、おい、もっと丁重に扱ってくれよ哥哥!」
 「いてて、俺を殴ったってどうにもならないだろ! 俺は安先生じゃないんだから」
 自分たちを助けたのが梁山泊の真の好漢であると知った人妻たちが、はずんだ声をあげながら集まってくるのから、史進がようやく街の門の外に逃げ出すと、何故か妙にえらそうにふんぞりかえって岩場に座る時遷の怪我を、石秀があれこれ処置してやっているところだった。
 ぬかりない戴宗と楊雄は、昼日中に突然巻き起こった騒動におびえるまわりの店の人々や、まさか本物の梁山泊の人間が来るとは思っていなかった呑気な提轄たちに金子銀子を配り歩き、自分たちが打ち殺した男の正体や、梁山泊は決して非力な女を拐すことなどしない、替天行道の好漢の集いであることを聞かせてたところだった。
 これであの男が貶めた梁山泊の名も挽回され、万事は解決するだろう。
 「……史進」
 「哥哥……これで、良かったかな」
 静かに隣に立った楊雄に問う。
 道はいくつもあった。行くなと止めれば、傷つけることはなかったかもしれない。器の割れる音を聞いた時すぐに助けに入っていれば、もっと怪我が少なかったかもしれない。この手で殺した方が、誰の心に傷を負わせることもなかったかもしれない。そうやって、考えれば考えるほど、もっとうまいやり方があったのではないかと、自分らしくない深みにはまりそうになる。
 「お前らしくもない」
 まるで心を読んだかのように、楊雄が、淡く笑う。
 「そもそもの元凶は、俺があの男に情けをかけたことだ。お前はよくやってくれた。あの男は、俺が殺すべき男だった。それに、時遷の顔を見たとき、ようやくお前たちの間にあった小さなしこりが取れたのだと分かった。お前は……あいつを、救ってくれた」
 「や、やめてくれ哥哥! 俺は何もしてない、戦ったのは時遷だ」
 拱手し、深々と頭をさげる楊雄に驚き、あわてて顔をあげさせる。
 「お前は、誰かに頼る戦い方を、あいつに教えてくれた。これでもう、無茶はしないだろう 。なあ史進」
 うろたえる史進の肩に、楊雄が手を置いた。乾いた血がこびりついた、存外に骨太な手。
 「あいつが一番に頼る誰かが……お前でありつづければいいと、そう思っている。俺も、石秀も」
 最後にもう一度淡く笑むと、楊雄はくるりと踵を返し、時遷に二言三言話しかけ、その頭を撫でてやると、戴宗とともに一足先に梁山泊の方へ馬で駆けて行った。呉用に事の顛末を報告するのだろう。
 ひとまず時遷の応急手当を終えたらしい石秀もまた、俺も戴宗哥哥たちと先に戻るよ、と時遷に告げ、史進に歩み寄る。
 「史進、あいつ、けが人のくせに、目を離すと暴れやがるぞ。面倒だから、後はお前に任せた」
 「石秀」
 「……馬は一頭置いていくから、ゆっくり、帰って来いよ。その、あいつの怪我にさわらんようにって意味だけど」
 どこか居心地悪そうに視線をそらし、史進の背を叩いて楊雄たちの後を追った石秀は、去り際に、ありがとうな、とぼそり、呟いたようだった。
 「……おい、いつまでぼさっと突っ立ってんだよ!」
 「あ、ああ、すまん」
 しばらく楊雄と石秀の背を眺めていた史進は、むすっとした時遷の声に我に返り、あわてて彼に駆け寄って隣に腰掛ける。
 「痛そうだな……立てるか?」
 「脚は無事なんでね」
 肩を外された右腕は、すでに衣の役割を果たさなくなった女物の着物で釣られ、痛々しい鞭の傷がついた身体には、街の住人にもらった包帯が巻き付けてある。
 「へへ、久しぶりに、へましちまった」
 その笑顔が、心に負った傷を隠すようなものではなく、どこか照れたようなものであることに、史進はひどく安堵し、そして無性に愛おしさがこみあげて仕方なかった。
 「……時遷」
 「あ」
 剥き出しになっている肌を守り隠すように、自分だけのものにしてしまうように、脱いだ外套で時遷をくるみ、そのまま小さな体を包み込んだ。
 本当は貪るようにきつく抱きしめたいけれど、傷ついた彼の体を痛めないように、少し加減して。
 「好きだ」
 何度も言っている言葉だったけれど、それでも言わずにいられなかった。
 「なあ、好きだよ。お前に馬鹿って言われたって、何でと言われたって、お前のこと、知れば知るほど好きになるんだ。お前と一緒に戦いたい。戦う場所は違っても、隣にいたい。離したくない」
 腕の中で身じろぐ温もりが愛しい。この人を愛しているのだと、この人に愛されているのだと、大きな声で叫びたい。そんなことをしたら怒られるから、我慢するけれど。
 「たった数日お前に触れられなかっただけで、苦しくて、お前に嫌われたかもって思うだけで、生きた気がしなかった。なあ、時遷、お前が愛しいよ。お前、俺の心、これ以上盗んでしまったら、俺、もうお前を離してやれない」
 「……ばか、ばぁか、恥ずかしいやつ」
 ようやく返ってきた蚊の鳴くような声にさえ、心が震える。大人しく外套にくるまれたままの体が震えていて、そっと覗きこめば、酒も血もぬぐい取られたはずの時遷の頬が、再びきらきらと濡れていた。
 いつも綺羅星のように笑う時遷の泣き顔を、この数日で二度も目にするとは。
 だけど、あの時のような、悲痛な泣き顔ではない。ほっとしたような、喜んでいるような、どこか幼気な涙だった。
 「時遷、泣いてる?」
 「ないて、ない、ばか、みるな、ばぁか」
 「わかった、見ない、なあ、見ないから、目を閉じるから……接吻していい?」
 口でこそ問うように語尾を上げたが、答えを待たず、史進は時遷の唇に触れた。
 小さくて、薄くて、柔らかくて、もう接吻以上のことを何度もしているのにやはり緊張に震えている唇は、どんな美酒よりも史進を酩酊させる。
 肉の薄い左手が、すがるように己の襟元をきゅうと掴む、そのいじらしい仕草が演技ではなく、まぎれもなく史進のためだけのものであることが、とても幸せだと思う。
 「……していいって、言ってない」
 ようやく離した唇を尖らせ、目元まで朱に染めた時遷がじとりとこちらを見上げる。
 「いやだった?」
 「いやだなんて、言ってない」
 駄々っ子のような言いぐさがおかしくて、けらけらと笑ってやれば、時遷もまた、こらえきれぬように噴き出した。
 「お前さ、せっかくめかしこんできたのに、すっかり汚れちまったじゃねえか。そんな豪勢な着物、どこで手に入れたんだよ?」
 「……げ! そういやあ、これ、柴大官人に借りた着物だった!」
 「げ……おいおい……俺は知らねえからな」
 「ひどいじゃねえか時遷! 一緒に謝ってくれよぉ」
 「それより俺はけが人なんだからな、さっさと帰るぞ! 安先生のとこにいかなきゃ、肩が痛くてしかたねえ!」
 「わかった、わかったから暴れるなって! けが人なのに、元気だなあ」
 ばたばたと脚を蹴り上げる時遷を抱き上げ、ひらりと馬の背に乗る。
 「じゃ、帰るか」
 「なあ、史進」
 「ん?」
 史進にどかりと寄りかかった時遷が、もぞもぞと体を動かし、真正面から史進を見上げる。
 「お前の変装、悪くなかったけどさ……やっぱ俺は、いつものお前が好きだな」
 いたずら小僧のように笑った顔が、あっという間に目の前に迫り、そしてあっという間に離れていく。
 「おら、さっさと走れ! 帰ったらたっぷり餌やるからな!」
 「う、わ」
 前触れもなく時遷にわき腹を優しく蹴られた馬が、突然走り出す。
 慌てて手綱を握った史進の目の前で揺れる髪の毛からひょこりと覗いた時遷の耳は、熟れた桃のような色をしていた。


<終>

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