スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

星盗人(八)

濮州郊外のその街は、どこか情緒と懐かしさの漂う家並みが美しく、こんな時でなかったならば、ぶらぶらと店を見て回り、うまい酒を飲みながら花を愛でるのには似合いの場所であった。
 賑やかながらも落ち着いた佇まいの店が並ぶ表通りから一歩外れれば、豊かな緑に囲まれた邸宅が立ち並ぶ。雑踏の話し声を拾ったところによれば、風土が良いので、ここ最近、金持ちがこぞって別荘を作っているらしい。道行く人たちの中に、どこか楚々とした品の良さを備えた人々がいるのは、きっとあの別荘の持ち主なのだろう。
 そんなお上品なお金持ちのご婦人の一人に身をやつした時遷は、さりげなくあたりの空気に気を配りながら、住民や旅人で賑わう表通りの店先をぶらぶらと覗き込んでいた。
 (なるほど、こりゃ、新手の人さらいが目をつけるにはうってつけの街ってわけだ)
 越してきたばかりなのであろう、金持ちそうな人間が、きょろきょろと無防備に歩き回っている。たとえ夫婦で並び歩いていたとて、めずらしい品物が並ぶ店に気を取られた妻につき合わされ、あきあきした夫が目を離したすきに妻をさらうことなど容易かろう。
 街中を歩く提轄たちも、人さらいが出たというのでなにやら目を三角にして歩き回ってはいるが、どこかひ弱く荒事に慣れていなさそうな様子から見るに、これまで事件などめったにおこらないゆったりとした日々に身を浸していたのは明らかだった。
 (さぁて、怪しいのはあのあたりか)
 いかにも、若く財産を持て余した婦人が好みそうな、異国の衣や宝石、人形と言った品が整然と並べられた店に目をつける。
 店頭に立つ若い男は愛想笑いを振り撒いているが、小さな瞳は抜け目なく、四方をきょろきょろ探り回り、着物の袖からほんのわずかに覗く腕には、いかにも品のない、賊の好みそうな刺青が施されている。
 だいたい、体つきが、いかにも商人ではないのだ。
 (けっ、わかりやすい面ァしやがって。ひとつ、探りを入れてやれ)
 さっそくその店に近付きながら、ちらりと背後に視線をやれば、丁度、離れた曲がり角に背の高い人影が現れたところだった。柴進であろう。向こうは遅れて出発したので格好を見てはいないが、そのあたりは本物の金持ちなので心配はない。どこかの誰かと違って聡明な人だから、段取りさえきちんと伝えておけば、大きくしくじることもないはずだ。
 「あら、奥様、見かけないお顔ですね」
 「こちらに夫と越してきたばかりですの」
 まずは目当ての店の隣の店先に近寄る。きらきらと美しい簪を売る気の良さそうな女の声に、淡い笑みを浮かべながら答えれば、新しい客に足を止めてもらえたのが嬉しいとばかりに女がぺらぺらと喋り出す。
 「奥様みたいな品のよい方にこそ、うちの簪をぜひつけていただきたいわ! 最近はこのあたりもお金持ちの方が増えて、なんだか雰囲気がかわったよう……あ、ほら、これなんていかがです?」
 「まあ、素敵」
 小さく繊細な花飾りをちりばめた簪を手に取り、店先の台に置かれた鏡をのぞきこむ。
 鏡の中にいるのは、紫がかった薄紅の着物に翡翠色の帯をあわせ、真珠をあしらった細やかな首飾りがほっそりとした白い首筋によく似合う、可憐だがどこか芯を感じさせ、けれど近寄りがたい冷たさはなく、手折って我が物にしたくなるような品とあどけなさのある小柄な美女――我ながら完璧だ。どこから見ても、酒と肉が好きで仲間と馬鹿をやってはげらげら笑う小柄な男の面影はない。
 「こちらの簪はおいくら?」
 銀子を探すふりをして、わざとに黄色い手巾を落とす。柴進への合図だ。
 「あら、奥様、何か落ちましたよ」
 「ありがとう……」
 屈みこみ、手巾を拾い上げたところでふと、何故か雑踏のざわめきが大きく、いや、正確に言えば少し甲高くなったような心地を覚えた。
 (……気のせいか?)
 あまり周囲に気を張りすぎても怪しまれる。ほんの刹那のとまどいを打ち消し、立ち上がってふたたび簪に熱中するふりをして、
 「あ、奥様、こんなところに! 旦那様、旦那様、こちらですよ」
 (へぇ、さすが貴族のおっさん、使用人まで準備するとはね)
 忠実な使用人を装いながらもどこか不満げな色を隠しきれていない(と言っても気付くのは時遷くらいだろう)石秀の声に、あやうくこぼれそうになった笑みをとどめ、貞淑な人妻らしくゆったりと声の方を振り向いた時遷は、せっかく拾い上げた手巾を、今度こそ本気で落とした。
 「娘子、やっと見つけた!」
 嬉しそうに、ほっとしたように、けれど駆け寄ってくるような無粋な真似はせず、育ちのよさを感じさせるようなゆったりとした足取りでこちらにやってくる男は、確かに「進」と言う名の男だった。
 だが、時遷が待っていたのはその前に「柴」という姓のつく、年上の男ではなかったか――
 「……娘子?」
 先程些細なことと切り捨てた、甲高いざわめきの正体が、今ならばはっきりとわかった。
 常ならば伸ばし放題にしている蓬髪は、入雲竜の魔術でも使ったのかと思うほどに整えられ、繊細な紋様の刻まれた髪飾りで高く髷に結わえられている。
 露になった卵形の顔は銀の皿のように品がよく、一文字の凛々しい眉の下の瞳は、午後の陽光を浴びて琥珀の如く煌めき、風流を愛する者の例に違わず蕩けるような熱をその眥に宿している。
 すっきりとした鼻梁と程よく厚みのある唇の均衡すら計ったように絶妙な様を見れば、なるほど、女たちがため息と共に黄色い声をあげるのも致し方ないことであったろう。
 襟や袖に精緻な刺繍が施され、艶やかな光沢を放つ濃翠の上衣は決して華美に過ぎず、己と並べばまるであつらえたように似合いの色合いなのが、また憎い。
 当代きっての画家の筆致から生み出されたかのような正真正銘の貴公子は、まるで三尖刀どころか針すらもったことのないような白い手を伸ばし、彼の妻の白磁のような頬に触れる。
 「娘子、やっぱりまだ怒っているのか? 私が悪かった。いつだって、私が悪いんだ。何千回でも謝るし、君が機嫌を直してくれるなら何でもするよ。だから、こんな風に、私を置いて勝手に出かけたりしないでおくれ。君の身に何かあれば、私は生きていけないのだから」
 全身の産毛が寒気で逆立つどころか抜け落ちるような謝罪の言葉さえ、目映いばかりの男前にどこか愛嬌のある情けなさを添えながら言われたのでは、許さずにいられる者がどこにいようか。
 おまけに、己が求めた完璧な「甲斐性なしの金持ちの若旦那」を演じながら、その言葉の裏に決してまやかしでない、梁山泊の九紋龍の真心を込めて、抱き締められたのでは。
 「……まぁ、大袈裟な御方」
 この瞬間ほど、長年の鍛練で身についた動じない心に感謝したことはなかった。久しぶりに包み込まれた愛しい熱のせいでこぼれおちそうになる想いなどおくびにも出さず、時遷は、つん、とそっぽを向く。
 「私、もう少しこのあたりを見て回りたいの。離してくださらない? こんな往来で、恥ずかしいわ」
 「娘子、買い物なら小三に頼めばいい。私はもっと君と一緒にいたいんだ」
 小三と呼ばれた石秀が浮かべているであろう、うんざりした顔は、あいにく「夫」の胸板に阻まれて見えなかった。
 『目星はついてるんだろう』
 耳元に触れる吐息に微かに肩が揺れるのは決して意味があるわけではないと自分自身に言い訳しながら、微かに首を縦に振る。
 「困った方、ねえ、もう怒っていないわ。お隣のお店を覗いたら、すぐに帰りますから」
 『たぶん店の中に招かれる。店の裏手がすぐ林だ、女たちは裏から連れ出されてると見た。きっと床にもつれ込まれる。うまいこと探りを入れたら器を割るから、音がしたら入ってこい』
 早口で告げた言葉に、彼は目だけで頷いた。
 「わかった、わかったよ娘子。私は小三と向かいの茶店で待っているから」
 『お前を信頼してる……だから、俺のことも信じて、無茶はしないで』
 刹那、本当に触れたのか分からないほど微かに、彼の唇が目尻を掠め、そして時遷はようやく、束縛したがる若旦那の腕から解放された 。
 「ご婦人、その簪をひとつ」
 「……あ、は、はいはい! まあなんともお熱いご夫婦ですこと! 」
 しばらく呆けたように若旦那に見入っていた簪屋の女主人は、我にかえって、さきほど時遷が手に取っていた簪をさし出した。
 「私は先日こちらに越してきた楊と申す者。どうぞよしなに」
 あきらかに簪の対価以上の銀子を女主人に渡した若旦那は、買ったばかりの美しい簪を、時遷の髪に(正確に言えば鬘に)そっと挿した。
 「綺麗だ、娘子」
 「……ありがとう、相公」
 読唇術も身に付けている時遷には、かなしいかな、彼がそのあとに『この世のどの女より』と言ったのがわかってしまった。
 (……あンの食えねえ貴族のおっさん……帰ったら、とっちめる)
 美しい貴公子の暑苦しいほどの愛を一身に受けることがまるで日常の些細な出来事であるかのように、楊の若旦那の妻は涼しい顔で、目当ての店先に歩を進めた。


←(七)へ || (九)へ→
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。