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星盗人(五)

 しょんぼりと、かわいそうなほどに肩を落として呉用の部屋から出てきた史進の姿を見届け、時遷は音もなく屋根から飛び降り、そっと闇に身を溶かす。
 この数日、史進と顔を合わせていない。いや、いくら梁山泊が広いとはいえ、意識しなければ会えないほど果てしない地ではない。隠れているのだ。自分が。
 あんなに手ひどく怒鳴りつけた気まずさと、収まらぬ苛立ちに、 兗州攻めから帰ってきた軍勢のことは、遠くの木の上から見守っていた。
 だが、行軍の先頭に立って帰ってきた史進の、その目を覆いたくなるほど血に濡れた姿を見て、体中から生気が抜けていく心地がした。
 今すぐ屋根の上を飛んで駆け寄り、青白い顔を包みたい衝動を抑えてよく観察すれば、それはすべて返り血であることがわかり(ちゃんと馬に乗って帰ってきたのだから当たり前だ)、今度こそ安堵に生気が抜け、恥ずかしいことに、時遷は木の上から落ちた(誰にも見られていなかったのは幸いだった)。
 そして、一瞬頭から吹き飛んだ喧嘩のことは、木から落ちた痛みとともにすぐに時遷の中に舞い戻った。
 あの返り血塗れでふてくされた顔をした様子を見れば、誰から話を聞かなくてもわかる。
 呉用の策も、仲間の制止も聞かず、怒りに任せて突っ走り、于統制を殺したのだろう。
 無事でよかったと思う気持ちはすぐに、勝手な真似をしやがってという怒りに塗りつぶされていく。
 策に従わず、仲間を、部下を、危険にさらす頭領がどこにいる。
 あんなに返り血を浴びて、あれがもし自分から流れ出す血となったら取り返しがつかないのがわからないのか。
 もし、もし、史進に何かあったら、もし――
 「ああ、もう、俺の知ったことか!」
 まったくあの大馬鹿野郎のせいで、ここ数日気分が晴れないことこの上ない。
 こういう時こそ、酒に限る。
 さっそく時遷は西山酒店の張青を訪ね、ごねにごねて上物の酒と牛肉をたっぷり手に入れると、いい香りのするそれらを抱えて楊雄の部屋に我が物顔で立ち入った。
 「大哥、起きてるかい。晩酌でもしようぜ」
 扉の向こうでは、ちょうどよく、楊雄と石秀が茶をすすりながら何やら話しているところで、時遷の抱えた籠の中身に思い当たったらしい石秀が、でかした、とかなんとか言いながら時遷を手招いた。
 「ちょうど哥哥と、腹が減ったと話していたところだったんだ」
 「そうだろうと思って、かわいい弟弟がこうして調達してきてやったのさ」
 「まったく調子のいい蚤め。まさかくすねてきたんじゃないだろうな」
 口ではそう言いながらも、ほかの者の前ではめったに見せない、ある種父親のような微笑みを浮かべ、隣に座る楊雄が大きな手で時遷の頭を撫でる。
 頭に、というか、髪に触れられるのは好きではないが、この人たちは別だ。
 「さあ、冷めないうちに、はやく」
 湯気をあげる肉をつつきあいながら酒を酌み交わせば、ふと、祝家荘で過ごした時のことを思い出した。
 己の命の恩人である楊雄と再会し、石秀という兄貴分を得て、梁山泊を目指すと決めたあの時、ようやく師との約束を果たせると思った。ようやく一人前の好漢になれるのだと。
 自分で選び取った人生に後悔はない。泥棒、密偵、詐欺師……なんと言われようが、屁でもない。今や江湖に名を馳せる鼓上蚤に、怖いものはない。ない、はずなのに。
 「……時遷? 食わないのか?」
 「え? あ、ああ、食うよ、もちろん食うさ」
 「顔色悪いな。ちゃんと食ってるのか?」
 時遷の取り皿に牛肉をどっさり載せた石秀は、「それ以上痩せたらなくなっちまうぞ」と軽い調子で言うと、ぐい、と盃を呷り、ちらりと楊雄を見た。
 「もっと牛肉をもらってくる。まだまだ腹が減ってかなわないや」
 「ああ、頼んだ。それから、酒もな」
 「わかってるよ」
 石秀が部屋を出て行ってしばらく、部屋には時遷が肉を一生懸命に咀嚼する音と、楊雄が時折盃を傾ける音だけが響いていた。
 「……小遷」
 ぽつり、静かに楊雄に呼ばれる。三人でいるときにしか呼ばれない、そのどこか子供をあやすような呼び方が、時遷はくすぐったくて、好きだった。
 「……なんだよ大哥、肉ならもうすぐ」
 「俺にとって」
 再び、楊雄の手が髪に触れる。かさついたこの手は、心から愛した人の裏切りにあふれた涙を拭い、その人の命を奪った手だ。だけど、怖くない。この手の優しさを、知っている。死の淵から救い出してくれた、情義の手。
 「もはや家族と呼べるのは石秀とお前だけ。血は繋がっていなくとも、二人とも俺の大事な弟だ」
 「へへ、なんだよ、改まって」
 「俺は……好いた女を幸せにすることもできなかった甲斐性なしだが」
 髪を撫でていた手が、頬に触れる。やはりかさついているその指先は、少し痒い。
 「俺を恩人と慕ってくれるお前が、飯も喉を通らんほどに悩んでいるのを黙って見ていられるほど呑気な男ではないつもりだ」
 「やめてくれよ、俺がそこまで繊細にできてるわけないだろ? 近々また女に化けなきゃいけないからね、少し体を絞ってるのさ。心配しないでくれよ」
 半分は楊雄をごまかすための嘘だったが、半分はおそらく真実だった。
 戴宗が、梁山泊の好漢を騙って女を拐かす輩がいるという情報を掴んだと話していた。おそらく今宵あたり、その情報は呉用に奏上されるだろう。
 「……あの男と、お前が、引っ付いているのを見て、正直いい気分はしないんだが」
 「は……?」
 どこか唐突な言葉も、先ほどの心配げな口ぶりから続くものだと思えば、悩みの原因も何もかも、この人は知っているのだと思い出す。朴念仁で無関心のように見えて、ちゃんと相手を丁寧に見ている。
 (無駄なごまかしだったな)
 どこか気まずそうに視線を泳がせた楊雄は、言葉を選ぶように喉を震わせ、そして小さく咳ばらいをした。
 「大事な弟を、傷つけるようなことがあったら、ただじゃおかんと、常々思っているが、だがな、これまであいつをお前から引きはがそうと、本気で思ったことは一度もない。何故か分かるか?」
 「な、に言ってんだか……」
 「いつも、調子にのって大口叩いて笑いながらもずっと気を張りつめさせているお前が、あの男の隣では、まるで安心しきっているからだ」
 思わず、息をのんだ。
 そんなつもりはなかった。
 闇に生き、常に追っ手から逃げ、姿をくらますことで生き延びてきた自分は、梁山泊という根城を得ても、周囲の気配に気を張る癖を捨てなかった。
 どれだけ厳重な警備の目もかいくぐって忍び込む者が――自分のような曲者がいないとも限らない世で、大切な仲間に何かあってはと思うからだ。
 それなのに、史進といるときにそんなに無防備になっていたのでは、意味がない。
 一番、守りたい人の隣で、
 「し、小遷、すまない、泣かせるつもりは」
 「泣いて、ねえッ」
 「わかった、わかった」
 柿の葉色の着物に視界を閉ざされ、時遷は歯を食いしばった。こんなに簡単に涙を流すなんて、みっともなくて、みじめだ。
 けれど、突然のことにうろたえ、ひたすら己の背を軽くたたく楊雄の顔は少しおかしくて、ほんの少しだけ心が軽くなった。まったく、やっぱり不器用な人だ。
 「お前は強い。誰もお前のようには生きられないし、お前の代わりを務められる者もいない。だがな、完璧な人間などいない。誰にでも弱さがある。それを見せずに誇りと気力で立っていられるほど、俺たちは強くない」
 「ううぅ……」
 「受け入れてやれ。少々暑苦しいが……あの男の想いは、まっすぐだ」
 「うう……」
 「お前が目をそらし、隠し、抑え込もうとしてきた弱さを、あの男は守りたいというんだ。守らせてやれ。それが足かせになる程弱い男じゃないのは、お前が一番知っているんだろう? 能天気だし、阿呆だし、方向音痴だし、武術のことしか頭にないし、所かまわずお前に、接……まあなんだ、べったりと近づいてくるし、義兄としては首根っこつかんでやりたい時がたまに……いや、時々……いや、かなりあるんだが、それでも正直で純粋な男だ。信じてやれ。あの男のことも、自分のことも」
 「う……」
 途中から何やら愛する人がひどい言われようをされているような気がしたが、どんどん楊雄の着物に吸い込まれていく涙と洟を拭うのに必死だったので、時遷はそのくだりには触れないことにした。
 口下手な楊雄が、こんなにも自分たちのことを想って言葉を尽くしてくれたことだけで、十分だった。
 「でも、あいつは、俺の仕事にけちをつけたんだ、しばらく口は聞いてやらねえ」
 「……まったく」
 擦りすぎて真っ赤になっているであろう目元を見て、楊雄が肩をすくめた。
 「意地を張るのはいいが、後悔しないようにな」
 「……ん」
 まるで時遷が落ち着くのを扉の外で待っていたかのように、丁度よく入ってきた石秀と楊雄が目くばせをしていることに、時遷は結局気が付かなかった。


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