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星盗人(四)

 その男が呉用の部屋に姿を表すことなど、しかも自らやって来ることなど、前代未聞であった。
 呉用の部屋を埋めつくしている書物や図面や書簡は彼の好むところではなかったし、この部屋に呼びつけて命じるような——つまり機密性の高い任務を彼に命じることなど天地がひっくりかえってもありえないからだ。
 それに、彼の扱いについては副軍師である朱武のほうが遥かに長けているし、小言を漏らしながらも彼の話を辛抱強く聞いて(というか聞き流して)やるのは朱武の役目であった。
 だから、彼が呉用のもとを尋ねるということは、頭の中まで筋肉に支配された彼なりに直接呉用に話さなければいけないと判断した事案がある、ということで、そして呉用にはその内容はとうに見当がついていた。
 いや、智多星という二つ名を背負う者でなくとも、察しのいい者ならば気が付いただろう。
 数日前の兗州攻めの行軍に遅れて追いついた史進が、先に進んでいたものの制止も聞かず、血に飢えた龍の如き速さでひとり于統制の屋敷へ突入し、あわや全軍返り討ちにあうところという状況も省みずに于統制を執拗なまでの血祭りにあげた姿を見れば、彼が何に激昂していたのかなど明らかであった。
 「……軍師、あの」
 「最初に言っておくが」
 銀の皿のような品のある顔の中で、悩まし気に細められた瞳を、じ、と見つめ返す。
 「私は梁山泊の、公明兄貴のためになる合理的な策ならば、たとえ非道とそしられようが実行する。私まで情に流されることなど、あってはならないからな」
 「……知ってるよ、軍師が、いつだって俺たちのことを一番に考えてくれているのは」
 九紋竜という大層な二つ名を背負った美丈夫は、誰にでも屈託のない口調で、そして裏表なく話す。それは彼の長所であり、どうしようもない欠点でもあった。
 「でも、それでも、聞いてほしい」
 梁山泊の好漢たちの性質は誰よりも知っていると自負する呉用だったが、さすがに史進がいきなりがばりと平伏したのには、かすかに目を見開いた。あまりにもためらいなく、史進はその額を床にこすりつける。
 「もう、時遷を色の策に使うのはやめてくれ、頼む」
 「……情で策を決めることはしないと言ったはずだ」
 「わかってる、それでも、お願いだ」
 「お前が時遷とどんな仲であろうと、いや、仮に私があれとそういう仲であったとしても、必要とあらば色の策を命じるだろう。いいか、世の大半の男は、美しい女――まあ、今回は少年だったが、それとうまい酒があれば、たとえ皇帝に口止めされた秘密であろうと漏らす。時遷の変装は完璧だ。それに巧みに話を引き出す才も持っている。今まで何度も、あれのおかげで我々は有利に動くことができた。それをわかってもまだ、そうやって頭を下げ続けるか?」
 「あいつに言ったんだ」
 俯いた顔に浮かぶ表情は見えなくとも、彼が悔しそうに顔を歪めていることがわかる。
 大の好漢が、一体何をそんなに恐れるというのだ。
 「次に軍師に命じられたら、断ってくれって。でもあいつは、俺のことを馬鹿にしてるのかとか、俺の仕事の邪魔すんなとか……怒って」
 「ならば何故」
 「あいつが言わないから!」
 拳が床を打ち、伸ばし放題の蓬髪がぶるりと揺れる。
 「だから俺が代わりにいうんだ! 怖いとか悲しいとかつらいとか、言わないから!」
 「それは仕事の腕に自信があるからだろう」
 「違う、頼ることを知らないからだ!」
 いまにも牙をむきそうな勢いで、史進が顔をあげた。目を赤くした好漢の顔は、彼から最も縁遠いと呉用が思っていたもの――深い苦悩に支配されていた。
 「軍師、あんたはいつも最良の策を選ぶよな。今回だって、色の策が最良だったんだろ。でも、もっとほかの方法があったんじゃないのか? 最良じゃなくたって、二番目三番目の策をあんたは持ってるはずだ」
 「……お前に策のことを語られる日がくるとはな」
 椅子から立ち上がり、史進を見下ろす。この様子では、時遷にしこたま怒られたのだろう。その理由もわからないまま。こんな男前の顔をぶらさげておきながら、なんとも甲斐性がない。
 「ならば聞くが、お前ひとりの勝手な想いで最良ではない策を選んだとして、それで出なくてもいい犠牲が出たとき、一番心を痛めるのは誰だ。自分が仕事をしたほうがうまくやれたのに、と気落ちするのは誰だ」
 「ッ……それは……」
 「九紋竜史進よ、先の兗州攻めでも、お前は私の策を聞かず、一人先走ったな。あやうく我々みな不要な返り討ちにあうところだった。お前が愛する男が、命をかけ、男の矜持を犠牲にし、好いた男への罪悪感を押し殺しながら成し遂げた仕事を、お前が無に帰すところだったんだぞ!」
 「違う、俺は」
 「何が違う? お前の独り善がりで半端な優しさが、時遷の誇りも覚悟も何もかもを踏みつけているんだと何故わからない!」
 「っ……」
 身を貫くような鋭利な言葉を、誰も好んでかけたいわけではない。若者たちの愛憎のすったもんだなど、本来は呉用には関係のない、心底どうでもいい事案なのだ。
 それでも、ここで放り出せば、梁山泊はみすみす二人もの若く優れた好漢を失うことになりかねない。
 史進も、そしてもちろん時遷も、この先続く長き戦いの日々の中で、梁山泊を担っていかなければならないのだ。軍師として、そして彼らより歳を重ねた者として、彼らを導く義務を放棄したとあっては宋江に顔向けができない。
 「私は、今後も最良の策を選ぶだろう。色の策を使わないと約することはできん。お前があれを守りたいと思うなら、あれが背負うものを一緒に背負ってやりなさい。あれが頼ることを知らないというなら、頼る術を教えてやりなさい。それから」
 言葉もなく座り込んだままの史進に、ひとつ、ため息を投げかけた。
 「いつまでもそんな陰気な顔をさげられていては梁山泊の士気に関わる。はやいところ痴話喧嘩は終わらせるように」
 塵でも払うように羽扇を仰げば、意気込んでやってきたときの覇気はどこへやら、しょぼくれた犬のような顔をした史進は、はい、だか、うん、だか小さな声で応え、すごすごと部屋をあとにする。
 まったく色恋沙汰などという慣れぬ戦に知恵をめぐらせるものではないと、呉用はすっかり冷え切った茶をすするのだった。


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