スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

水滸綺伝第六回(二)

【第六回 九紋龍、赤松林にて追剥し 魯智深、火にて瓦罐寺を焼く】

(二)

 「やい、貴様ら老いぼれども! よくも俺をだましやがったな。自分たちでこの寺を荒らしたくせに、ぬけぬけと他人のせいにするとは、坊主の風上にもおけんやつらめ」
 地鳴りのような怒声とともに舞い戻ってきた智深の、その仁王のような様に、老僧たちは枯れ枝の体を震わせ、互いに顔を見合わせた。
 「おまえさま、何故そのような戯言を」
 「戯言を申したのはお前たちのほうだろう。やつら、随分と筋の通った話をしていたぞ。お前たちこそが、やりたい放題をしてこの寺を荒らしていたんだとな」
 禅杖を構えながら怒鳴り散らす智深の剣幕に顔色を失いながらも、老僧たちはそろって首を振る。
 「おまえさま、騙されているのはあなたのほうですよ。やつら、あなたが禅杖を構えているのに自分たちは丸腰だったもんで、どうにかその場しのぎの嘘をこさえたのです。悪知恵だけは働く連中ですぞ。試しにもう一度様子を見に行ってごらんなさい。そもそも、落ち着いて、よく考えてもみてください、あの連中は、攫った女子を侍らせて肉に酒にの大宴会、我々は今日ようやくありつけた粥を、おまえさまに奪われぬようにと必死。どちらの言うことが本物か」
 「ぬう……」
 髭をさすりながらよくよく考えてみれば、確かに、困っている方が豪勢に食事をし、困らせている方が粗末な食事をするとはおかしな話だ。
 老僧たちに促されるまま、もう一度禅杖を手に、さきほどの槐の樹を目指して引き返せば、なんとついさっきまでは開いていたはずの方丈の裏手の門が、ぴったりと閉じられている。
 「なんて野郎だ、やましいことがないのなら、なぜ俺を閉め出す!」
 かっと頭に血が上った智深は太い脚を振り上げ一息に門を蹴破って押し入り、槐の樹の影から躍りかかってきた生鉄仏崔道成の朴刀を禅杖の柄で受け止める。
 「ふん、馬鹿な坊主だ、こんな寺のことなんて放っておきゃあ命拾いをしたのにな」
 「ふざけたことを!」
 崔道成の朴刀の太刀筋は決して洗練されていなかったが、さすが山賊紛い、人を殺し慣れた容赦のなさで繰り出される撃には、さしもの智深も手を焼いた。十四、五合と渡り合ったが、なにせ腹が減っていつもの力が入らぬ智深は必死に刀を受け流すのに精いっぱいで、なかなか攻め手に回れない。
 (くそ、今日の俺では、まともにやりあえん)
 このまま馬鹿正直にやりあっていたのでは、すぐに智深の体力にも限界がくる。それよりは一度引いて、たらふく飯を食ったあとに再度挑んだほうが、得策というものだ。
 崔道成が一息入れて間合いを取った隙をつき、さっと踵を返して逃げようとしたそのとき、
 「ふん、逃がさんぞ、くそ坊主!」
 静かに背後から近づいてきていた丘小乙が構えた朴刀を視界の端に捕らえた智深は、「えい」と裂帛の気合いを吐き出した。
 その剣幕に、禅杖をまともにくらわされると思ったらしい崔と丘の両人が、はっと智深から距離を置く。
 (こんな小物相手に尻尾を巻くのは癪に障るが、今日のところは仕方がない)
 じりじりとにらみ合ったまま動かぬ二人から、智深もまた少しずつ距離を取り、
 「ふん、今日はこのあたりで勘弁してやるが、後日また来て、お前たちをぶっとばしてやるからな」
 「あ、待て!」
 山門に至るまでにさらに二人の山賊紛いが振り回す朴刀をどうにか十合ほどやり過ごし、禅杖をひっこめ、巨体に似合わぬ脱兎のごとき素早さで走り去る智深の背後にはもはや追っ手の気配はなく、ちらりと振り返れば、崔も丘も苦々しい顔をしながら、山門の外の石橋の欄干に腰かけ、智深のことはすっかり諦めたようであった。
 「ふん……腹さえ減っていなけりゃ、お前らなんぞ、この禅杖の一振りで倒してやったんだ」
 息を切らしながらぶつくさと憎まれ口をたたいていた智深だったが、ふと、すっかり荷物を寺に忘れてきたことに気が付いた。食糧はもとからもっていなかったが、そのうえ路銀まで手放してしまうとは、つくづく今日は運がない。
 「戻れば奴らの餌食になるが、どうにか路銀を取り戻さなけりゃ、店があっても飯も食えんぞ……」
 困り果てはしたが、このまま悩んでいたところで名案が出てくるわけもなく、仕方がなしに、村か何かは見えぬものかと、智深はとぼとぼと歩き出した。
 重たくなる足を引きずりながらしばらく進めば、目の前に迫ってくるのは、村どころか鬱蒼とした松林である。赤い大蛇のような枝が曲がりくねりながら幾重にも伸びてゆくその光景は、さながら地獄の番人の燃え立つ髭のようでもある。
 「薄気味の悪い林だな」
 このあたりの土地に明るいわけでもない己が、こんな林の中に迷い込めば、食糧も得られぬまま飢えてのたれ死ぬだけだ。どこか別の道を探そうかと、立ち去りかけたそのとき、
 「なんだ、坊主か」
 松林を吹き抜ける生温い微風にさえかき消されそうな小さな呟きが、不思議と鮮明に智深の耳を打った。
 じい、と目を凝らせば、近くの木陰からちらりと覗いたつば広の白い范陽帽の主が、かすかに首を振り、唾を吐いて顔をひっこめたところであった。
 (ふん、追剥め、坊主とみて儲けにならんと引っ込んだか)
 こんな人通りの少ない寂れた林で商売をするとは、気が長いのか愚かなのか分からぬが、どうやら追剥のほうも、ようやく巡り合った客が僧侶と見て気分を害しているようだ。
 (くそったれ、気分が悪いのはこちらも同じ、いっそあべこべにあいつの着物をはぎ取って、酒代にでも替えてやろう)
 先程は相手が二人いたが、今度は相手は一人。いくら腹が減っていようが、追剥の一人くらいならば軽くぶちのめす自信があった。
 「やい、そこの追剥野郎、こそこそ隠れていないで、こっちへ出てきやがれ」
 徐々にずしりと腕に重く感じるようになっていた禅杖を握りなおし、大股に林に踏み入りながら吼えれば、太い松の幹の影に潜んでいた男の、軽やかな笑い声が返ってくる。
 「はは、せっかく引っ込んでやったのに、あんたの方からやってくるとはね」
 ぎろりと声の方を睨めば、白い范陽帽の下の顔を、小粋な黄色い首巻で半分ほど隠した長身の若者が、きらりと光る鴈翎刀を手に躍り出た。
 「でぶのくそ坊主め、ちょうどいい、何もないよりはましってもんだ。あんたの身ぐるみ剥いで、すっかり銀子に替えてやろう」
 「ふん、若造が生意気を!」
 長い髪をなびかせて切りかかってくる若者に応えようと、智深もまた気力を振り絞って禅杖を振り回し、おう、と唸り声を響かせながら鴈翎刀を受け止める。ただの追剥にしては、先ほどの崔や丘とはくらべものにならぬほど洗練された太刀筋だったが、力で負ける智深ではない。
 さらに両腕に力を込めて男をやりこめようと、一歩を踏み出す智深にしかし、若者は何やら怪訝そうに眉をよせて、反撃の手を止めた。
 「おい待て坊主、なんだか、あんたの声には聞き覚えがあるぞ。和尚の知り合いなんていないはずだけど、あんた、何という名だ?」
 「ふん、油断させようとしたって、そうはいかん。俺の名を知りたければ、あと三百合やりあってからにするんだな!」
 「なんだと?!」
 智深の豪放な物言いに苛立ったのか面白味を覚えたのか、若者は再び怜悧な鴈翎刀を振り上げて、智深に応戦した。刃と禅杖の柄がぶつかる涼やかな音が太鼓のように拍子を刻み、その中に違いの力が逼迫する耳障りで甲高い長い音が混じる。どうせ若気の思い付きで追い剥ぎ稼業に手を染めたのだろうと舐めてかかっていたが、なかなかどうして、己の万力の攻めをもどうにかとらえて跳ね返す様に、知らず智深の心は弾み始めた。
 「くそ、坊主のくせに、なんて力だ」
 「お前こそ、若造のくせになかなかの腕前」
 それから四、五合やりあったが、若者が今度はあからさまに身を引いて、開いた手を突き出し智深の動きを止めた。
 「待ってくれ、あんた、本当に名前を教えてくれないか。どこかでその声を聴いたんだ、知り合いだったら目も当てられないよ」
 せっかくこの打ち合いを楽しみだしていたところに再び水を差され、内心むっとはしたのだが、このままではらちが明かぬと諦めた智深は、禅杖を地に突き立て、尊大に胸を張った。
 「しつこい野郎だ、そんなに知りたくば教えてやろう。俺の俗名は魯達、訳あって出家の身となり、今は法名を魯智深と申す」
 途端、若者は、おもしろいほどに目を丸くして、あっという間の素早さで、智深の足元に平伏した。
 「な、なんだ気色が悪い!」
 「まさか、こんなところで兄貴に出会うとは」
 己のことを「兄貴」と呼ぶ人間は、数えるほどしかいない――そして、黄色い首巻を顎まで下げて、こちらを笑顔で見上げた若者は、その数えるほどしかいない人間の一人であった。
 「兄貴、俺のことを覚えているかい」
 銀のさらのようなつるりとした顔に、一片の粗野をみなぎらせた男ぶりを、見忘れるはずがない。
 「ハハ、なんだ、史大郎、史進じゃないか!」
 嬉しそうにこちらを三拝する九紋竜史進の腕を掴んで立たせ、肩をたたきあって再会を祝う。
 いったい誰が、こんな人寂しい林の中で、契りの盃を交わした義兄弟と出会うなどと思うだろう。
 「懐かしいじゃないか史進。いったい、渭州で別れてから、どこで何をしていたんだ?」
 林の中ほど、休息をとるのにちょうどよくひらけた場所に二人並んで腰を下ろせば、史進はきらりと目を輝かせながら話し出した。
 「あの時、兄貴と例の店の前で別れた次の日、俺も金父娘を助太刀するのに加わろうかと兄貴を探して街に出たら、たまたま噂話を小耳にはさんで、兄貴が鎮関西を殴り殺して姿を消したと聞いたのさ。おまけに、これは大変なことになったと思ってうろうろしていたら、捕吏たちが口々に、俺と李忠の兄貴の名前を挙げて、この一件に関わりがあるから捕らえるとかなんとか……まったく、俺たちは困っている人を助けたってのに、仁義の一つもわからん役人たちだ」
 さも不愉快そうに肩を揺らし、史進は記憶をたどるように視線を上向かせた。
 「そんなわけで、俺は慌てて渭州を出て、元から目指していた延安府に王進師匠を探しに行ったんだが、結局師匠には会えずじまいでね。そのあとは、行く当てもなくなってふらふら延安の近くを歩きまわって、北京大名府やら、東昌府やら、あちこちを見物しているうちに、路銀が尽きてしまったんで、ここでこうして路銀を稼ごうと追剥の真似事なんてしていたら、どういう縁か、こうして再び兄貴に出会ったというわけさ」
 智深は北京大名府にも、東昌府にも行ったことはなかったが、仕事がら、地図を見ることはよくあったので、だいたいの位置はわかっていた。なので、なぜ延安府の近くを歩き回ったはずの彼が、遠く北京大名府まで行ってしまったのか、はたまたそれがどうして東昌府を経てこの東京開封府にもほど近い松林でうろついているのかについて一抹の疑問はあったが、それ以上深くは考えないことにした。考えるのは、苦手なのだ。
 「ところで兄貴、俺は驚いたよ。最後に会った時と、まるで姿が違うんだから、一目見たってどうりでわからないはずだ。なんだって、和尚になんかなったんだい?」
 「……よくぞ聞いてくれた史大郎、これにはさまざま、訳があってな」
 提轄だったはずの己が渭州を追われ、金父娘と再会した後五台山で出家し、さらにはそこさえも追われて桃花山で李忠と再会した経緯を話せば、史進は驚くやら呆れるやら感心するやら、精悍な顔にくるくるとさまざまの表情を浮かべながら聞いていたが、李忠が元気にやっているというのを聞いて、安堵に胸をなでおろした。
 「よかった、李忠の兄貴も無事に逃げていたんだな。俺は渭州を後にして少したってから、李忠の兄貴を置いてきたことを思い出したんだが、いかんせん戻るに戻れなくて」
 「案ずるな、あの時はそうするより仕方なかったを、あいつもちゃんと分かっているとも。まあ、そんなわけで桃華山をあとにしたはいいが、食糧もなし、この近くの寺に斎を求めて立ち寄ってみれば、境内は広大なのに寺は荒れ放題、いるのは干からびたような老僧だらけ、おまけに崔と丘と名乗る山賊まがいが、でかい顔をして寺を乗っ取っている始末。ぶっとばしてやろうと挑んだはいいが、情けないことに腹が減って力も出ず、こうして尻尾を巻いて逃げてきたところで、お前と会ったというわけさ」
 そうして先程の寺での出来事を詳しく話して聞かせれば、史進も老僧たちの窮状に思いを寄せて、苛立たし気に眉を寄せる。だが、ふと厳しい顔を崩して、
 「腹が減って力が出ない? 兄貴の体格じゃあ、そうは見えないな。でも、ほら、腹を減らしているなら、干し肉とおやきを持っているから、遠慮せず食ってくれ」
 「はは、でかした! 悪いが、遠慮せず食わせてもらうぞ。このままじゃ岩でも食ってしまいそうだ」
 史進が荷物の中から取り出したおやきや干し肉を、まさに飢えた獣のごとき素早さで受け取れば、おかしそうに笑った史進が「喉をつまらせないでくれよ」と水筒を差し出す。
 「和尚になっても、変わらず豪快な食べっぷりだな。なあ、荷物を寺に置いてきちまったんなら、俺が一緒に取りに行こう。そして、その崔だか丘だか知らないが、その糞坊主どもを一緒に叩きのめしてやるのさ」
 「史大郎、お前がともに来てくれるなら百人力。老僧たちと、さらわれたお嬢さんを助けてやろうじゃないか」
 息巻く智深がしゃべるたびにぷっぷと飛び散る干し肉の欠片を器用によけながら、史進が尋ねた。
 「それにしても、そんな大きな寺がこの辺にあったかな? なんていう寺だい」
 「あいにく、俺は字が読めん。額が飾ってあったが、何という名の寺なのか、そういえば聞かずじまいだった」
 「まったく、兄貴は豪快だ」
 「廃墟とは言え、あんなにでかい寺が目に入らんお前もな」
 ひとしきり、顔を見合わせて笑った二人の豪傑は、腹ごしらえを済ませ気力の満ちた体を携え、もと来た道を戻っていった。


(一)へ || (三)へ
スポンサーサイト

水滸綺伝第六回(三)

【第六回 九紋龍、赤松林にて追剥し 魯智深、火にて瓦罐寺を焼く】

(三)

 廃寺からほうほうの体で逃げ出したはずの大男が、再びゆらりと現れたのを見て、石橋の欄干に腰かけ辺りを見回していた二人の賊は、へらりと薄い笑いを浮かべた。
 「おい、見ろよ。俺たちに負けたやつが、またのこのこと戻って来たぜ」
 「兄貴、おいらが相手をしてやろうか」
 「いや、なに、少し体を動かすにはちょうどいい相手。この生鉄仏があのでぶを御陀仏にしてやろうじゃないか」
 欄干から滑り降り、朴刀を手に、黄色い歯をむき出してこちらに歩んでくる崔道成に向かって、智深もまた大音声で怒鳴りつける。
 「ふん、さっきは腹が減って力が出なかったが、此度は違うぞ。貴様ら如き、とことん叩きのめしてやる!」
 「ぐうッ!」
 もはや飢えも満たされ、おまけに背後には義兄弟が潜んでいる。水を得た魚とばかりに禅杖をぐるりと振り回して躍りかかれば、生鉄仏のほうも、これはどうやら先程と様子が違うと目を見開き、気合一成、腰を落として智深の一撃を受け止める。
 「しつこい野郎だ、これでも喰らえ!」
 八、九合も渡り合わぬうち、甲高い音とともに、しっかと握ったはずの刀を吹き飛ばされ仰天した崔道成は、余裕の態度などかなぐり捨てて、背中をこちらに見せぬようにと必死の形相で後ずさる。
 「兄貴!」
 仲間の窮地を見た丘小乙が、慌てて助太刀に入ろうとするが、そのとき、近くの大樹の影で息をひそめていた史進が軽やかな足取りで飛び出した。
 「動くな! お前の相手は、この俺だ」
 「ひっ……!」
  鴈翎刀を振り上げる袖口から露になった龍の刺青に恐れをなした丘小乙は、それでもどうにか史進に歯向かったが、九紋龍の重たい太刀筋を防ぐのがやっと、息を荒げて駆けずり回る様はなんとも無様で、横目に見ていた智深も思わず笑い声をあげた。
 「ハハッ、大口叩いていた勢いはどこへ行った? 貴様らのように年寄りを虐げる賊に、慈悲などないぞ!」
 巨体を揺らして飛び上がった智深の禅杖が、一直線に生鉄仏の脳天に吸い込まれる。
 「逃がすか!」
 もはやこれまでと見て走り去ろうとした丘小乙の背中を史進の鴈翎刀が鮮やかに奔り、立て続けに幾度も容赦なく貫く。
 先はあれほど智深を苦しめた二人の賊は、最期の悲鳴も上げられぬまま、高々と血しぶきを迸らせ、冷たい石橋の下に消えていった。
 弱い者を虐げる者を、今度は自分の意志で葬った。ふと橋の下を覗き込めば、もはや動かぬ肉となった二人の小悪党から流れ出した赤い血が、川面を一瞬黒々とした赤に染め、そして消えていく。
 「やったな、兄貴……兄貴?」
 黙ってその様子を見つめる己を不審に思ったのか、史進に背中を叩かれる。
 「どうした兄貴? まさか、このくらいで疲れたわけじゃないだろ?」
 「ハハッ、何を言う。腹が減っていなければ、こんな小悪党など俺の相手ではなかったんだ」
 「そりゃあそうだ。さ、それより、寺の中の様子を見に行こう。瓦罐寺、と書いてるぞ」
 「瓦罐寺、か。食い物も、水さえ満足に残っていないのに罐かまも何もあったものか 」
 切り捨てた肉塊を振り返りもせず、颯爽とした足取りで寺の中へと進んでいく史進に続いて智深もまた廃寺の内へと引き返す。
 「……なんだ、随分しんとしているな。これじゃあ俺が気付かないわけだよ」
 「いや、史進。なんだかちいとばかり、静かすぎるぞ」
 やかましいほどに威張り散らしていた輩がいなくなっただけにしては、気味の悪いほどの静けさに、智深は太い眉を潜める。何やら風までどんよりと動いていないようで、じとりとした湿り気がわずかに頬に絡みつく。
 「おい、坊主、じいさんたち、お前らを困らせた阿呆どもは、この俺がやっつけて」
 訝しみながらも、老僧たちが息を潜めているはずの小屋に踏み入った智深は、この静けさの訳を目の前にして、つう、と押し黙った。
 「兄貴? どうした……」
 石像のようにかたまった兄貴分の後ろから中の様子を覗き込んだ史進もまた、口をつぐみ、ふ、と息を吐いたようであった。
 「……年寄りというのは、短気でいかん。俺の真の力量を信じられなかったか」
 揺れもせず、ゆらりと梁からぶらさがる骸に背を向け、智深は半ば諦念をもって、槐の樹のあったところへと行ってはみたが、近くの井戸の傍に並んで置かれた小さな靴を見ては、これ以上探し回る気は起きなかった。
 「兄貴、終わってしまったことは仕方がない。それより、ここに長くいては、いらん疑いをかけられるかもしれないぞ。はやく荷物を探して、出発しよう」
 「ああ、お前の言うとおりだ。せっかく人助けのつもりで痛快に暴れてやったのに、また妙なことを言われて役人に追いかけまわされるんじゃ、たまらんからな」
 だが、先ほどの小屋に置いてきたはずの荷物は、影も形もみあたらなかった。わずかばかりの着物や草鞋などどうでもよいが、あの中には智真長老より預かった大事な手紙が入っている。
 「弱った、いったいどこにいったんだか」
 「このあたりを探して見よう。僧侶たちがかっぱらって、どこかに隠したかもしれないぞ」
 「それなら、この槐の樹の近くが怪しいな」
 二人であたりを見渡せば、ちょうど木々の葉陰に、崩れかけた長屋のような小屋がある。押し入ってみれば、七つも八つも部屋があるうちのひとつに、あれこれとした荷が山のように積まれており、その一番手前には、智深の運んできた荷が無造作に放り出されていた。
 「ハハ、俺の荷があまりに軽いんで、大したものは入っとらんと捨て置いたな?」
 包みを解いて中を改めれば、衣服も草鞋も、そして手紙も何一つ欠けることなく揃っている。
 「よかった、この手紙がなきゃ、住処にもあぶれるところだった」
 「それが、さっき話していた智真長老様の手紙か。東京といやあ、ここからすぐ……いや、近いのかな。ここがどのあたりなのか、見当がつかないけど、あまり遠くないといいね。東京には行ったことがないが、王進師匠の話を聞く限りじゃ、とても華やかな都なんだろうな」
 話ながらも手を止めず、山と積まれた荷を改めていた史進は、その中から傷みの少ない着物と銀子を探り当て、智深に投げてよこした。
 「俺が幼い頃に立ち寄った時も、賑わっていた。あんなに人がうじゃうじゃいるのを見たのは、後にも先にもあれだけだ」
 受け取った着物はどう考えても智深の太鼓腹を収めるには小さすぎたが、売れば多少の路銀にはなるだろう。
 「そういえば、やつらが残していた酒と肉があったな。あれも失敬しよう」
 「え、兄貴、まだ食うのか」
 「馬鹿を言え、干し肉とおやきくらいでいっぱいになるような腹じゃないわ」
 「ハハ、確かにな」
 賊どもが二度と続きを味わうことのできなくなった宴席に舌鼓をうつと、衣服や銀子を詰め込んだ荷物を抱えなおし、禅杖を手に握り、すっかり身も心も満たされた智深は、史進と連れ立って早々にこの寺を去ろうとした。
 だが、満たされたはずなのに、どうにも心のうちに気にかかるものがある。
 「……供養を」
 「供養?」
 意外げに目を丸くした史進よりも、驚いていたのは己自身であった。
 育ての親さえ満足に供養せずに暮らしてきた己が、恩人でも知人でも友でもない、僅かな時間言葉を交わしただけの他人相手に、そのような言葉を口に上らせるなど、夢にも思わなかった。
 おまけに僧形とは言え、すっかり仏に帰依するような殊勝な心を持っているわけでもない。
 それでも、なぜか、その想いは無意識の中で口をついた。
 「……思えば、哀れな者たちよ。五台山の坊主と名乗りながら経も満足に読めんが、せめて荼毘に付してやろうじゃないか」
 去り掛けに通りかかったかまどの傍に屈みこみ、僅かに残った火種をかき集めて火を起こすと、手近な藁を縛って作り上げた二本の松明に火をともし、その一本を史進に渡す。
 「丁度風も吹いてきたようだ。お前はあの槐の樹を燃やしてくれないか」
 「……わかったよ」
 刹那、何かを考えるような色を乗せた史進の瞳は、しかしすぐに常の健康的な輝きに戻る。
 「火をつけたのは、二度目だ」
 智深の心の内を察したかのように強さを増した風に吹かれ、廃寺を包んだ炎はその勢いを増す。
 天にまで上る黒い煙を離れたところから眺めていた智深の隣で、史進がぼそりと呟いた。
 「さ、行くぞ。また宿を逃してはかなわんからな」
 弟分の背を軽く叩き、智深は赤松林を迂回して、細い馬車道を歩き出す。
 「兄貴はこの辺りに詳しいのかい?」
 「詳しくはないが、どう考えてもこの大層な林に入り込んじまったら、迷うだろう」
 「俺は近道だと思うんだけどなあ」
 「史進よ」
 五台山を下りてから、うるさく言う者もおらずすっかり伸ばし放題の髭をさすり、智深は唸る。
 「お前は、地図を見ながら旅をしたほうがよさそうだぞ」
 「もちろん見てるよ! でも、持ってるものが古いのかもしれない」
 「……そうだなあ」
 何とない話をしているうちに、夜が暮れ、そして朝が来た。
 腹ごしらえさえしてしまえば、己も史進も、一晩くらい歩き通すのは屁でもない。
 背中から追いかけてきた焦げ臭い風がようやく気にならなくなった頃、道の先に、人の営みらしきものが見えてきた。
 「しめた、村があるぞ。少し休むとしよう」
 穏やかに晴れた朝の青空の下、農作業に精を出す村人たちは、まるでこの長閑な村にそぐわぬ風体の大男が二人、のしのしと歩いてやってきたので、ぎょっとして二人を遠巻きに見守っているようであった。
 (ふん、どいつもこいつも、朝から気分の悪い)
 物心ついた時から、好意的で友好的で暖かな眼差しを向けられることは稀であったが、それでも提轄であったころ、渭州の民の目には恐れのほかに信頼と畏敬があった。
 それが今では、もはや善良な役人でも、まして徳のある真実の僧侶でもない、荒れ放題の髭と伸び放題の眉毛を蓄えた荒法師の姿なのだから、恐れられて当然と言えば当然なのだが。
 「おい小二、酒と肉、それに菜と飯だ! あるだけ持ってこい」
 とりあえず手近な店の扉をくぐれば、早朝から大声をあげて入ってきた客が、そのうえ僧形なのを見て何か言いたげにしていた店主も、あまりにも凄みのある視線にただただ、はい、と頷き、先に酒と菜を卓に並べると、そそくさと厨房のほうへ姿を消した。
 「そういえば、林で何も起こらなかった」
 「林? あの赤松林のことか?」
 菜をつまみながら、ぼつりと智深が零した言葉に、史進が首をかしげる。
 「林に遇いて起ち、山に遇いて富み、水に遇いて興り、江に遇いて止まる。長老から授かった文句だが、桃花村の近くでも、先の赤松林でも、 これといって何か特別なことは起こらなかった」
 「俺に再会したとか?」
 「それはそうだが、長老が偈とするくらいだぞ、もっとこう、派手なことが起こるのかと思ったんだが」
 胸元から皺だらけになった紙を取り出し、口尻をさげながら睨みつける。偈の文字だけは覚えたが、どうにもその真意まではわからない。
 「これから東京に近づいたら、あんな鬱蒼とした林なぞ殆どない。あそこは本当に開けているんだ」
 「前に行ったときは、旅行だったのか?」
 「いや……身内と一緒に、商売をしにな。俺がまだ十か十一かの大昔のことだが、それでもさすがは皇帝のお膝元、品物も食い物も、人間も、なんでもあそこには揃っていた。俺によくしてくれた人の屋敷の近くに、大きくて洒落た樊楼があった。あの時は縁などなかったが、きっと今でも残っているだろうから、一度立ち寄りたいものだ。その人も達者でいるかどうか、顔を見に行かねばな」
 「へえ、そりゃいいや」
 まだ見ぬ都に思いを馳せる史進の顔はきらきらと輝いていたが、俺も、と言い出すような風はない。
 そして智深も、無理に誘うつもりはなかった。
 「史大郎、お前はこれからどうするんだ」
 湯気をあげる牛肉をほおばりながら、史進は迷わず答える。
 「俺は、少華山へ帰るよ。もうまったくの潔白の身とも言えなくなったことだし、朱武たちのもとに行って……それからのことは、それから、考える」
 「はは、それもいいだろう」
 智深はあっという間に残り少なくなった酒を史進と己の盃に満たすと、懐を探り、得たばかりの銀子を二、三取り出して、史進の手に握らせた。
 「兄貴、これは」
 「路銀にしろ。お前はどうせ、まっすぐ帰れそうにないからな。余分に持っていけ」
 「なんだよ、どういうことだ?」
 くりくりと不思議そうな色をのせた瞳は、それでも智深の好意を拒まなかった。
 「ありがとう、いつか恩返しをするよ」
 「そんなかたいことを言うな、兄弟。困ったときはお互い様だ。お前のおやきがなければ、今ごろ俺は飢え死にしていたところだ」
 最後の一杯を飲み干すと、二人は勘定を済ませ、身支度を整えるて店を出た。
 妙な二人連れがやって来たことは、狭い村中に疾風の如く伝わったのだろう、穏やかな朝だというのにほとんど人影のない村の中を突っ切り、しばらくあれこれと話しながら歩き続けた智深たちは、気が付けば東京へと続く三叉路へと差し掛かっていた。
 「さて……名残惜しくはあるが、ここでお前とはお別れのようだ」
 「なあ、兄貴」
 ふと、史進が 范陽帽の下からこちらをじっと見上げてくる。
 「少華山に行くことを考えたことがあるかい?」
 「ふむ、お前の話を聞いた限りではなかなか愉快そうではあるが、だが、長老との約束を破るわけにもいかん。俺は東京へ、お前は華州へ、いつかまた会える日もあるだろう」
 「……そうだな」
 史進は、それ以上何かを言うことはなかった。
 「俺は東京へ、この道を、お前は華州へ行くんだから、この道をまっすぐ、まっすぐ行けばいいんだぞ、いいか、道なりにまっすぐだ。わからなくなったら、その辺の奴をつかまえて道を聞くといい」
 「ハハ、なんだ、兄貴はいつからそんな心配性になったんだ? もう子供でもないし、大丈夫だよ。じゃあ、元気でな」
 そしてさっそうと、智深が指さしたのとは別の道を歩いていく史進の後姿を見送った智深もまた、それ以上何かを言うのはやめたのであった。


(二)へ || (四)へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。