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水滸綺伝第三回(六)

【第三回 史進、夜半に華陰県を去り 魯提轄、拳三発で鎮関西を成敗す】

 (六)

 魯達は、常に騒がしく、癇癪もちの怪力で、粗暴な言動を恐れられていたが、少なくとも提轄という職務に対しては誠実な男であった。
 それ故、仲間も上司も渭州の民も、魯提轄を近寄りがたく恐ろしい迷惑な男と思う一方で、弱い物に味方する役人として信頼してもいた。
 そういうわけで、肉屋の鄭の妻が州の衙門に駆け込み、魯達がわけもなく鄭を殺したと訴え出てきたとき、府尹をはじめ、その場にいた誰もが驚いたのである。
 「魯達はああ言う男だが、罪もない民を勝手に殺めるとは思えぬ。いったいどうしてそのようなことを」
 なんとしても夫の無念を晴らしてくれと無き崩れる鄭の妻を落ちつかせると、府尹は事の次第を報告するため、慌てて魯達の上官である経略使・小种公のもとを訪ねた。
 「府尹殿、そんなに慌てて、どうされたのだ」
 「それが……御配下の魯提轄が、故もなく拳で夫を殴り殺したと訴え出てきた女がおりましてね。殺されたのは肉屋の鄭という者だそうで。魯提轄は気性こそ激しくとも、訳もなく人を殴り殺したりはせんと思うのですが、こうして訴えがあるのもまた事実。ただ私どもの判断だけで彼を逮捕することはできませぬ故、御意を賜りにまいったのです」
 「なんとまあ……」
 魯提轄の癇癪には度々困らされてきた小种公だったが、彼の人柄を買ってはいた。だが、事が人殺しとなれば、そんなお人よしなことは言っていられない。
 「あの男、元は我が父のもとで武官を務めていたところ、私のほうで人手が足りずによこしてもらった者なのだ。腕がたち、弱いものを助ける男と思い、多少のやんちゃには目をつぶってきたが、この度ばかりはそうもいかぬ。逮捕して、法のもとに裁かねばなるまい……」
 「では、すぐに魯達を探し出し、逮捕を」
 「ああ、だが、ひとつ頼みがある。罪状が明らかとなった暁には、父に知らせてから刑を執行してくれぬか。後で父が、あの男を要ると言うかもしれぬ故」
 「承知しました」
 小种公の言を受け、府尹はさっそく捕吏たちに魯達の逮捕を命じた。だが、二十名ほどの捕吏たちが魯達の下宿に押し掛けたときにはすでに、魯達は小さな包みを担いで逃げ出した後であった。
 下宿の主人も、まさか魯達が大罪を犯し姿をくらまそうとしているとは思わなかったのであろう、その行方をわざわざ聞くことはしなかったと言う。部屋に押し入ってみても、そこに残されていたのは着古した着物や夜具だけであった。
 それでも何も証拠も得ぬままに帰ることはできなかった捕吏たちは、鄭の隣家の者と魯達の下宿の主人を連れ帰り、鄭を見殺しにした 罰として隣家の者を棒刑に処し、下宿の主人の方は、みすみす魯達を逃がしたとして散々叱りつけた。
 こうして魯達の首には一千貫の賞金がかけられ、彼の人となりを書き連ねた人相書はあまねく渭州内外に貼りだされることとなったのであるが、そのころ当の魯達はと言えば、果たして特に行く当てがあるわけでもなく、ただ焦りのままにあちこちを彷徨い歩いていた。
 「腹が減った……」
 半月まともな気持ちで寝食することもできずに長い道中を彷徨っていたようには見えぬ巨躯を、情けないほどに折り曲げながら、魯達はさながら群れから逸れた雁のようにとぼとぼと歩く。前に小さな村を出立してからすでに五、六日はたち、そろそろ持ち歩いていた食糧も尽き果てようとしていたところに、秋の冷たい風が容赦なく吹き付けた。
 「まったく、鄭の野郎さえあんな真似をしなければ、こんな目に合わずにすんだものを……ん?」
 未だ消え去ってはいない鄭への恨みごとを一人、呟きながら林の中を進んでいた矢先、ふと、突然に木立の影が消える。開けた小高い丘の眼下に目をやれば、往来の人々で賑わう城壁が姿を現した。
 「ハハ、ありがたい! 街だ!」
 そうとなればこれまでの疲れもどこへやら、魯達は城壁を目指して転がるように丘を駆け下りた。
 「随分北の方まで逃げたはずだが、ここは……」
 背の高い立派な建物が整然と立ち並び、商人や旅人や街の者たちが活気よく行き交う街並みは、どこか故郷を彷彿とさせる。
 字の分からぬ魯達には城門に掲げられた街の名を読むことはできなかったが、あふれんばかりの荷を積んだ車を器用に避けながら門をくぐったとき、すれ違った人々の話を小耳に挟んだところによれば、ここは代州雁門県という場所であるらしい。代州雁門と言えば、長城の雁門関を擁する軍事拠点でもあった。
 「ふん、ここならば、正体を隠して仕官することもできるかもしれん」
 呑気にそんなことを考えながら、賑わう街並みをうろうろしていると、なにやら大勢の民が道端に集い、高札を読んでいる姿が目に入った。老若男女が頭を突き出しながら札を読んでいる様子に気を取られた魯達は、己もその群れに交じらんと、背後からそっと人だかりに近づき、一番前にいる若者が手配書を読み上げるのに聞き耳を立てた。
 「……渭州よりのお達しにより、肉屋の鄭某を殴り殺した罪人、元経略府提轄の魯達を逮捕すべし……いやあ、提轄でさえ人を殺すとは、嫌な世の中だよ」
 まさか己を捕らえるための高札だったとは、と魯達はひとつ、瞬いた。己をかくまったものは同罪とみなされるだとかいうお決まりの文言の後、見つけたものには賞金一千貫、と読み上げられたのを聞き、はて、俺の首の価値もなかなか見くびられたものよと髭を掻きむしった、その時。
 「おや、張さん、こんなところでお会いするとは」
 背中の向こうから聞いことのあるような声がしたと思った刹那、魯達は人ごみの中から引きずり出されていた。

<第三回 了>

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水滸綺伝第四回(一)

【第四回 趙員外、魯達を文珠院に出家させ 魯智深、五台山にておおいに暴れる】

 (一)

 「さあ、張さん、こちらへどうぞ。お懐かしいですなあ」
 「な、何をするんだ爺さん、俺は張なんて名じゃ………」
 己の半分ほどの大きさしかない痩せた老人にしては随分と強い力で手を引かれ、魯達は人気のない路地裏に連れ込まれる。
 さすがにむっとして文句を連ねようと、ぎろりと顔をあげれば、そこには。
 「あんた……金のおやじさんじゃないか!」
 魯達を張と呼んだ老人の柔和な顔は、まさしく魯達が手配書を出される所以となったあの鄭にいじめられていた金の父親であった。
 「恩人様、いかにも、先日あなた様にお救い頂いた金でございますよ。まったく、忘れもしないご尊顔をお見かけした気がして追いかけて来れば、恩人様ときたら、ご自分の手配書をしげしげ眺めていらっしゃる。もし私が気づかなければと思えば、肝も冷えましたよ。あんなにはっきり、あなた様のお名前や姿かたちが書いているのですから」
 思いも寄らぬ再会に、魯達は己が間一髪で危機をやり過ごしたことも忘れて、大きな口をあけて笑いながら金老人の背を叩いた。
 「ハハ、俺は字が読めんからな。それに、例え周りの奴らが気付こうが、誰も俺を恐れて手など出して来るまいよ。だが、まさかここでまた会うとは思わなかった。あんたも手配書を見たなら知ってるだろう。あんたたち親子を逃がした日、俺は肉屋の鄭をこらしめに行ったんだが、仕置きのつもりで二、三発殴りつけたらうっかり殺してしまってな……それで逃げているうちに、この街まで流れついたというわけだ。あんたはここで何をしているんだ? 東京に行ったはずだと思っていたが……それに、娘さんは元気か?」
 「恩人様、実は我々親子、あなた様に救っていただいたあの日、最初は東京へと向かうつもりでおりました。ですが、我々が東京に縁があることを鎮関西は知っていましたから、あなた様もおられない道すがら、追っ手をやられては大変と、東京へは向かわず北を目指したのでございます」
 人目を避けるように入り組んだ細い路地へと入っていく金老人に従い、魯達も藍色の瓦がひしめき合う小路の合間を歩き出した。表通りの喧騒が徐々に遠のき、渭州とは趣の違う、どこか素朴かつ品の良い家々が姿を現す。
 「そうしたら、道中、東京での古なじみに出会いましてね。その男に連れられて、娘ともどもこの雁門までやってきたというわけなのです。おまけにその男はよく我らの面倒を見てくれて……なんと翠蓮を、この雁門でも指折りのお金持ち、趙員外様の妾にと引き合わせてくれたんですよ」
 「なんと、翠蓮は結婚したのか!」
 青白い顔で涙を流していたくせに、気丈に笑ってみせたあの娘が結婚とは。
 「ええ、ええ。趙員外さまはお金持ちなだけでなく、とてもお優しく義の心を持ったお方。翠蓮のことも、大切にしてくださっていますよ。それに槍棒もたしなまれますから、我々からあなた様の話を聞くたび、会ってみたい、話してみたい、どうすればお目にかかれるのか、とおっしゃるほどでして」
 いつの間にか路地は終わり、少し開けた場所に出た。大きな通りの向こう側には背の高い門扉がどしりと構えており、わずかに開いた隙間から、小ぶりだが瀟洒な屋敷が覗いている。
 「恩人様、何はともあれ、まずはゆっくり休んで、それからこの先のことを考えましょう。ここは、我ら親子の今の家です。ここなら人目にも尽きませんし……さあ、どうぞ」
 金老人が門扉を開け放つと、ふと、親しみのない香が鼻を掠めた。いかにも女が好みそうな甘い香りのもとを辿るように、門の内側に広がる庭を見渡せば、青い空によく映える橙色の花を咲かせ、まろみを帯びた木が一列に並んでいる。
 「おおい、翠蓮や。誰が一緒にいらしたと思う? お前の生き神様がおいでなすったよ、降りてきなさい」
 ぎょろりとした目で物珍し気にあたりを見回す魯達をよそに、金老人が弾んだ声で娘の名を呼ぶ。屋敷の前で立ち働いていた女中たちは、ぎょっとした面持ちで主の連れてきた髭もじゃの客人を見ていたが、おそらく己の姿かたちを主に聞いていたのだろう。生き神、という言葉に納得したような顔を浮かべると、控えめに魯達に向かって会釈した。
 「翠蓮、何をしてる、はやく降りてきなさい」
 「……お父さん、何をそんなに大きな声で叫んでいるの?」
 浮足立ったような父の声に対し、屋敷の中から聞こえた娘の声は、戸惑いをのせて穏やかであった。
 「お客様がいらっしゃったの……?」
 屋敷の二階の扉が、ゆるりと開く。
 「あ」
 父の声を追ってこちらを見下ろした娘の姿は、魯達の覚えていたものよりもずっと、健康的であった。
 きちりと結い上げられた黒髪を飾る見事な黄金の簪は、秋の陽光を映して柔らかくきらめいている。細い体に纏う淡い橙の着物と薄紅の帯は、素人目にも大層な品とわかる光沢を秘めて、娘のしなやかな体を柔らかく包み込む。肌は相も変わらず雪のように白くはあったが、ふっくらとした頬が桃色に色づいているおかげで、消えゆきそうな不穏な影はもはやない。柳の如き眉をあげ、瞳と口をまんまるに開いて絶句する様子は、出会った頃にはなかった色香をも霞ませる幼さを含んでいて、思わず魯達は腹を揺らして笑った。
 「なんだ翠蓮、幽霊でも見たような顔をして。俺の顔を忘れたか?」
 「いえ……いいえ……忘れるわけがございません……!」
 ゆったりと流れる着物の裾をたくしあげ、元気な童のように階段をかけおりてきた翠蓮は、息を整える間もなく魯達の足元に這いつくばり、深々と拝礼をし始めた。
 「恩人様……まさかまたお会いできるなんてっ……」
 「お、おい、やめないか。せっかくの上等な着物が汚れるだろう!」
 あわてて小枝のような腕を引っ掴んで立たせれば、せっかく化粧をした顔に、ぽろぽろと涙がこぼれている。
 「ふん、さては俺の言ったことを忘れたな? 今度べそべそ泣いているところを見つけたら、仕置きをすると言っただろう」
 「あ……」
 別れ際に交わした小さな約束を思い出したか、翠蓮は華奢な手で慌てて涙をぬぐい取り、気恥ずかし気に俯きながら微笑んだ。
 「もう、二度と会えぬと思っておりましたから……嬉しくて」
 「俺もまさか、こんな北の街でお前たちと会おうとは思わなかった。それに、お前の様子にも驚いたぞ。見違えるほどに綺麗になったではないか。幸せになったんだな」
 何故かますます顔を伏せる翠蓮が、また激しく礼をし出すのではないかと魯達がどきりとしていると、金老人が小間使いを呼び寄せ魯達の荷物を持たせた。
 「さあ、恩人様。こんなところで立ち話をしていないで、おあがりになって下さい」
 「あ、いや、かまわんでくれ。長居するつもりはないんだ」
 「いえいえ、遠慮はご無用。魯提轄様の御恩は、こんなことでは返しきれないのですから……。さ、翠蓮、恩人様を二階にご案内してさしあげなさい。私は飯の用意をしてきます」
 いくら気の向くままに生きてきた魯達と言えど、己の首に賞金がかかった今となっては、この親子のもとに留まれば必ず迷惑をかけることくらいはわかっていた。だが、何度そう言っても金老人は頑なに泊まって行けと懇願し、しまいにはまた翠蓮が泣き出しそうな顔をするものだから、これ以上断るのも礼を失するであろうと、魯達は翠蓮に案内されて屋敷の客間へと落ち着いたのであった。
 「しかしまあ、なんとも立派な屋敷だ。趙員外殿とやらは、ひとかどの人物なのだな」
 貧しい生まれの魯達には、勧められた椅子や茶の置かれた卓に使われている光り輝くような木の名前など分かりはしなかったが、仄かに漂う品の良い香りと座り心地から、よほどの高級な品であろうことは想像がついた。
 部屋のあちこちにちりばめられた調度品の数々も、翠蓮の人となりに合わせたかのように慎ましやかで可憐な意匠のものが多いが、おそらくひとつひとつをよく見れば、魯達が一生真面目に勤め上げても手の届かぬような豪奢な品なのだろう。
 「こんな立派なお屋敷で暮らせることになったのも、恩人様のおかげでございます」
 もう何度聞いたか分からぬ感謝の言葉とともに翠蓮が淹れた茶を一口飲み、ふと、窓の外に目を向ける。
 「翠蓮よ、そういえば、あの樹はいったい何という樹だ? 渭州でも、ここに来る道中でも、あんな色の花を咲かせる樹なんぞ見たことがなかった。それに、何やら香のような匂いがする」
 「あれは……丹桂という樹なのだそうです。本当は、もっと南の方に育つ樹なのですが、旦那様がお庭を趣味にされていて、取り寄せたのです。そして、私に似合うからと、ご自分のお屋敷から分けてくださって……秋になると、ああして橙の花が咲き、甘い香りをさせるのだそうです」
 なるほど、秋の夕日に照らされる橙の淡い花は、翠蓮によく似合う。そういえば、着物の色も、あの丹桂だかという花の色に似ていた。
 「この着物も、旦那様に仕立てていただきました」
 魯達の視線に気が付いたのか、翠蓮が着物の袖をつまんで見せる。
 「この、袖のところ……母の形見を端切れに使っていただいたんです。そのままだとどうしても、見栄えがよくなかったから」
 「どうりで、なにかその色に見覚えがあると思った。あの時お前が大事そうに抱えてた着物だったんだな」
 魯達が覚えていたことに驚いたのだろう、翠蓮は目をぱちくりさせ、そして、さも幸せでたまらないというように、笑った。
 「ハハ、趙員外は、お前のことを大切にしているようだ。この幸せ者め」
 頼りなく、不安げで、儚く消えそうだった娘が今こうして花のような笑顔を浮かべているのを見ると、何やら妹か娘の幸せを喜んでいるような心地になる。
 「……恩人様も、花がお好きなのですか?」
 「俺が草木を愛でるような男に見えるか? さっぱりわからんから、こうしてお前に聞いたのだ。ああ、だが」
 ひっそりと卓の済に置かれた花瓶から零れる、小さな薄紅の花を指さす。
 「この、秋海棠だけは知っているぞ。死んだ両親が育てていてな、酷い襤褸の家だったが、この花だけは毎年ちゃんと咲いたものだ。なかなか見応えがあったんで、それが珍しかったのか、俺の刺青を彫った同郷の爺さんは、牡丹のほかにこの秋海棠を、ほら、こうやって」
 「恩人様、飯の支度ができましたぞ!」
 自慢の刺青をまさに今披露してやろうとした矢先、金老人が、食べきれぬほどの料理と酒を小間使いたちに運ばせて客間に戻ってきた。
 「おお、待ちくたびれたぞ! 酒はあるんだろうな」
 「もちろんでございますとも。趙員外さまより賜った上酒をお持ちしました……これ、翠蓮、何をそっぽを向いておる?」
 胡乱気な父の視線の先で、翠蓮はと言えば、薄紅のさした頬をそらして俯いている。
 「ほら、料理が来たのだから、お前も並べるのを手伝いなさい」
 「……はい」
 伏し目がちのまま立ち上がり、どこか困ったような薄い笑みを浮かべて魯達の前に皿を並べていく様は、何か卓上のに飾られた小さな花に似ているな、と魯達はひとり、おかしみを覚えた。
 大人しいのかと思えば毅然としていたり、静かに笑っていたかと思えば子供のように目を丸くしたり、どうにも若い娘の気分は己のような男には難解だ。それでも、ひとまず泣いてさえいなければ、魯達はそれでいいのだが。
 「恩人様、今一度、拝礼をお受けくだされ」
 「や、おやじ、そこまでせんでくれ。こちらが困るのだ」
 そうこうしているうちに、山と料理を並べ終えた金老人が、魯達の足元に這いつくばって礼を始める。まったく親子そろって、律儀なことだ。
 「いいえ、お聞きくだされ。こちらへ腰を落ち着けて以来、私ども父娘はあなた様を生き神様としてまつるため、紅位牌をつくり、毎朝毎晩、香を焚いては拝んでまいったのです。今日は、そのあなた様ご本人とこうして会えたのです、どうして拝まずにいられましょう」
 「そこまでされては、悪い気はせんな。思いもかけず殺しの罪を犯してしまったとはいえ、元はあの鄭の豚野郎がお前たち父娘に仁義もなくひどい仕打ちをしていたのが悪いのだ。俺は悪を見過ごせぬ性分、それがたまたまこうなったまでのことよ。さあ、明日のことはまたあとで考えるとして、あんたたちも一緒に、酒を飲んでくれ」
 魯達はなおもひれ伏す金老人を半ば強引に隣に座らせ、翠蓮もともに盃を交えながら、あの日の出来事や、互いに会わぬ間の四方山話に花を咲かせた。たった一人、見知らぬ土地を逃げ続けてきたこの半月で飢え渇いていた身体はすっかり潤い、久方ぶりに人目を気にせず気持ちのいい酒を飲んだ心は高揚する。まるであの日、史進や李忠と酒を酌み交わしたときのような――
 「やい、出てこい、恥知らずめ!」
 「何、もう追っ手が来たか?!」
 ささやかな感激に浸っていた魯達の耳に、階下で己を罵る男たちの声が、潮のように押し寄せた。


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水滸綺伝第四回(二)

【第四回 趙員外、魯達を文珠院に出家させ 魯智深、五台山にておおいに暴れる】

 (二)

 「下衆を捕らえよ! 門を閉じて逃がすなよ!」
 穏やかならぬ剣幕の怒声の正体を辿って窓から眼下を見やれば、二、三十人の男たちがこん棒や槍を振り回して屋敷を取り囲んでいる。
 「ちっ、見たところ捕吏ではなさそうだ。賞金目当ての野郎どもだろうが、俺だけでなく金親子にまで疑いをかけかねん……!」
 ここまでくれば何人はったおして逃亡しようが同じこと、と魯達が太い腕で椅子を振り上げたその時、
 「お、お待ちください恩人様! みなさんも、お待ちくだされ!」
 目を白黒させた金老人が、魯達の前に身を乗り出し、階下の男たちに向かって手を振った。
 「魯提轄、し、しばしお待ちを!」
 冷や汗を滲ませたその剣幕に思わず椅子を手放した魯達が見ていると、慌てて階段を駆け下りた金老人は、階下に集まっていた男たちの中で一際目立つ、美しい衣を纏って威厳を湛えた馬上の男に何やら早口でまくし立てた。
 すると、奇妙なことに、男は大笑いして馬から降りると、周りに集っていた二、三十人の男たちを手の一振りで追い払い、聡明そうな瞳を煌めかせて魯達を見上げた。
 「なんだ、あのお偉いさんは」
 いぶかしげに男を睨みつけていると、金老人が「恩人様!」と魯達を手招く。
 「……行きましょう、恩人様」
 翠蓮までもが何やらおかしげなに頬を緩ませていて、魯達はいまいち事態を飲み込めぬままに階段を下りる。そうすれば、さらに妙なことに、先ほどの立派な男が、魯達の姿を見るなりいきなり地べたにがばりと平伏し、何度も拝礼をするのだ。
 「な、なんだ、一体?」
 「百聞は一見にしかずとは、かの趙充国の言葉がまさにこのこと。あなた様こそ義にあつき好漢、魯提轄殿とは知らず、無礼な真似をいたしました。どうか拝礼をお受けください」
 「あいや、こりゃまたご丁寧に……な、なあおやじ、この立派なお方はいったいどなただ? 会ったこともない俺のような男に向かって、どうしてこんなに平伏なさるんだ?」
 金老人は、目じりにしわを寄せて微笑んだ。
 「このお方こそが、翠蓮を娶り、我々父娘を救ってくださった、趙員外様にございます」
 「や、なんと!」
 「先程は、私がどこぞの若い男を引き入れて娘に引き合わせていると勘違いなさって、従者の方々を連れて殴り込みに来られたのですが、私がわけをお話しいたしましたので、こうして大事にいたらずに」
 「はは、そういうことだったか! そうとなれば員外殿、そんなふうに拝礼をせんでください」
 魯達はあわてて趙員外の腕を引いて立たせたが、それでもなお彼は魯達を前にして仏でも拝むかのように頭を下げる。
 「魯提轄殿、そうは参りません。あなた様こそ我が妻、翠蓮を救ってくださった生き神様。感謝してもしきれぬ」
 「まったく、親子だけかと思えば旦那のあんたまでこうもぺこぺこ俺をありがたがるとは。俺のほうこそ、翠蓮は妹分のようなもんだからな、あんたがこの娘を大切にしてくれているだけでありがたいさ。ほら、顔をあげてくれ」
 ようやく拝礼をやめた趙員外は、なかなかの美男、なんとも人のよさそうな顔をしており、聡明な眉目と整えられた髭が、ひとかどの人物であろうことを思わせた。これで財をもち、義にも通じているというのだから、翠蓮はなんともいい夫を持ったものだ。
 「翠蓮、義父殿、こうして提轄殿と出会えたのも何かの御縁。改めて酒席を設けてもてなしたい故、支度を頼みたい」
 「かしこまりました」
 大層な喜びようの趙員外に抗えぬまま再び二階に戻れば、彼ほどの男がなんと、魯達に上座を勧めてくる。地元ではいばっていた魯達とて、人の上下はわきまえているつもりだ。
 「員外殿、そりゃいかん。ここはあんたと翠蓮の屋敷だ、あんたが上座に座ってください」
 「いいえ、提轄殿、これは私の敬意のしるしなのです。義父殿や翠蓮があなた様のことをお話しするたび、どれだけお会いしたいと思っていたか……この幸運に、感謝をしたいのです」
 「あの父娘が何を言ったか知らんが、俺はただの乱暴者、それに今となっては人を殺して死罪まで負った身だ。それでもあんたがかまわんというなら、俺はなんでもするし、喜んで上座につこう」
 それを聞いた趙員外は大喜びし、さっそく翠蓮たちも呼び寄せ四人で卓を囲み、魯達が鎮関西の鄭を殴り殺した話に目を輝かせ、道中の面白おかしい話に笑い声をあげ、槍棒術の話に熱弁をふるった。趙員外は魯達と違い武の人ではなかったが、何を学ぶにも熱心なようで、真剣になって魯達の語り口を聴く眼差しは、どこか好漢のそれを思わせるのだった。
 そうこうしているうちにすっかり夜も更け、金老人が船をこぎだしたのを見て、趙員外はようやく小間使いたちに酒食を下げさせた。
 「魯提轄殿、私は考えたのですが……この街中の屋敷にいては、御身が危ないかもしれぬ。どうです、今日は私と一緒にここに泊まり、明日からは私の屋敷でゆっくりされては?」
 趙員外がそう言った刹那、翠蓮が静かに立ち上がり、父親を小突き起こし、寝室へと連れていくため客間を出てゆく。それを横目に、魯達は乗り気で尋ねた。
 「確かに、ここじゃいくら街はずれといっても人目につくし、金父娘にも迷惑がかかる。あんたの屋敷はどこにあるんだい?」
 「ここから十里ほど離れた、七宝村という場所にございます」
 「おお、そりゃあいい。あんたさえよければ、明日からはそっちへご厄介になるとしよう」
 「決まりですな」
 上機嫌な趙員外に連れられ寝室へと移ろうとした時、ふと、どこか遠くで小さな泣き声を聞いた気がして魯達は部屋を見回した。
 だが先ほどと変わったことと言えば、一輪の秋海棠が、静かに床に横たわっていたことだけであった。

 翌朝、食事を済ませた魯達は、名残惜し気な金父娘に見送られ、趙員外の連れてきた立派な馬に乗って七宝村へとやってきた。趙員外の屋敷は、田舎の静かな村にはもったいないほどの豪奢な邸宅だったが、決して華美に過ぎず、粗野な魯達ですら彼の品格に感じ入るほどであった。
 おまけに趙員外は格別に魯達をもてなし、毎日の酒食を用意するばかりか、表立って出歩けない魯達に代わって下男にこまごまとした買い物をさせたり、逃亡の最中にすっかり汚れてくたびれてしまった衣や草鞋を新しいものに取り換えた。
 確かに金父娘のことを助けはしたが、その夫に、しかも名のある員外に、ここまでされるとかえって魯達もなにやらこそばゆいものを感じてしまい、こうまでしてもらっては、と遠慮をするのだが、そのたびに趙員外は金父娘の名を出し感謝の言葉を述べるのだった。
 「つらいことがたくさんあったでしょうに、翠蓮はいつも笑顔を絶やさぬのです。そして口癖のように、あなたと泣かぬと約束したのだ、と言っておりました。あなたは彼女の心をもお救いになった。誰にでもできることではありません」
 「よくわからんが、あんたたちが幸せそうならそれでいいさ。俺は、女がめそめそ泣いているのを見るのが嫌なんだ」
 幼いころ、そんな光景にはさんざ悩まされたのだ。それに、渭州で別れた時も、代州の屋敷で別れた時も、思い出すのは晴れ晴れと微笑んでいた顔だ。別れ際を思い出すたび浮かぶのが泣き顔では、いつまでも心配になってしまう。
 ――だが、そんな金父娘との別れを懐かしむ暇もなく、数日後に再び魯達は、金老人の顔を見ることとなった。
 「義父殿、いったい何があったのです?!」
 息を切らしながら屋敷に通された金老人の、ただならぬ様子を感じ取った趙員外は、人払いをさせて魯達とともに部屋の奥へと引っ込んだ。
 「旦那様、恩人様、実は……先日、私どもの屋敷の二階で恩人様をもてなしていたとき、旦那様が人の知らせを聞き違えてひと騒ぎ起こしましたでしょう。あのとき、騒ぎがあまりにもすぐに静まったもので、街の者たちが不審がって噂をたてているようでして……昨日も、屋敷のまわりを役人様が三、四人、聞き込みをしてまわっていたようです。我らもなんとか隠し通すつもりではおりますが、ここまで手がまわるのも、もはや時間の問題かと……」
 「何?! それはいかん!」
 太鼓腹を揺らして立ち上がった魯達の大音声に、趙員外と金老人がびくりと肩を揺らす。
 「こうしちゃおれん、このままここにおれば、員外殿とあんたたち父娘に危害が及ぶ。俺はすぐにここを出ていくから、安心せい」
 「お、お待ちください提轄殿! まずは落ち着いて!」
 趙員外に腕を引かれ、魯達はしぶしぶ椅子に腰かける。
 「だが、あまり悠長なことはしておれんぞ」
 「ええ、わかっておりますとも。ですが、義父殿の話を聞けば、そも疑われた原因は、私があのように勘違いして騒ぎ立てたが故。お引き留めしたいが、そうすれば追手がやってきて面倒なことになり、貴方様に恨まれましょう。そして私に責がある以上、お引き留めしなければ私の顔も立たぬ。そこで、ここ数日、私が考えていたことがあるのです」
 まるでその言葉を誰かに聞かれるのを恐れるかのように、趙員外は声をひそめ、魯達と金老人と額をあわせた。
 「この方法ならば、提轄殿は間違いなく安全な身の上となります。ただ、ご承知されるかどうか……」
 「ふん、俺は死罪の追われ者。鄭なんかのために命を落とすのが癪なだけで、死ぬことなどなにも怖くはない。それが、安全に身を置ける場所があるというのなら、拒むことなどありえんぞ」
 「ああ、その言葉を聞いて、安心いたしました。実は……」
 わずかばかり言い澱んだ後、趙員外が夕暮れに沈む窓の外を指さす。魯達がそちらに目を向ければ、はるか向こうには、晩秋にも関わらず青々とした山並みが続いていた。
 「実は、ここから三十里ほどいったあの山は、五台山という山でございます。その山頂には文珠院という寺があり、もとは文殊菩薩の道場だったのですが、この大変霊験あらたかな寺には五、六百名ほどの僧侶がおります。その筆頭である智真長老という方は、私とは兄弟のような仲。私の先祖が文珠院に喜捨をしたことから、私も施主ということになっております。以前より、私は誰かをここに出家させ功徳を積み、長老への御恩返しをたいと思っておりまして、度牒も買っておいたのです。ただ、どうにもこれはという人に巡り合えず、そのままになっておりました。もし……もし、魯提轄殿がご承知くださるならば、費用や支度の一切は私が準備しますので、剃髪して文珠院に出家されませんか」
 思いも寄らぬ趙員外の言葉に、迫る危機も忘れ、魯達はぎょろりとした目をぱちくりさせた。
 「俺が、出家……?」
 確かに、寺に入り髪を剃ってしまえば、一切の罪は問われず、役人の手からは逃れられるだろう。出家の生活など人並みのことしか想像が及ばないが、命からがら逃げまわるよりは、悪くはなさそうだ――生臭物を飲み食いできないことを除いては、だが。
 「……まあ、そこはどうにでもなるだろう」
 「提轄殿?」
 「あいや、こっちの話だ。なに、どうせこの先あんたたち以外に頼るあてはないんだ。員外殿が世話してくれるなら、寺でそうひどい扱いも受けまい。よろこんで坊主になってやろうじゃないか」
 魯達はぼりぼりと髭をかきむしり、にやりと笑った。この自分が、槍や棒や拳を振り回し、酒と肉を愛し、今となっては人殺しの罪まで犯した己が、坊主になるとは、なんとも奇妙なめぐりあわせではないか。史進や李忠が知ったら、何というだろうか。
 「そうと決まれば、すぐに支度をいたしましょう。提轄殿、もう少しお付き合いいただけますかな。衣服を見繕って、荷造りをせねばなりますまい」
 「何から何まですみませんな、員外殿」
 あわただしく小間使いたちを呼び寄せ始めた趙員外と金老人の背から、ふともう一度、窓の外に目をやる。出家の相談をしているうちにすっかり日の落ちた景色の中で、五台山の頂上に、怪しげな灯りが揺らめいていた。


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水滸綺伝第四回(三)

【第四回 趙員外、魯達を文珠院に出家させ 魯智深、五台山にておおいに暴れる】

 (三)

 五台山の威容は、宋に住む者ならば一度はそれを讃える言葉を聞いたことがあるだろう。着物や路銀を詰め込めるだけ詰め込んだ袋を背負い、魯達が見上げたその山は、なるほど数多の讃辞に違わぬ姿であった。
 淡い青味を讃えた山々は遥か霞を突き、天の川さえ従えているかのように凛と座っている。蒼松の影に潜む堂や蔓草に覆われた伽藍の数々は深々と幾年月の風雨を耐えた重みに色を滲ませ、晩秋にあってなお咲く花々は風に舞い、月影のごとき銀の瀑布に楚々とした色を添えている。そこに何百もの僧侶たちの囁くような祈りがさざめき合う様は、これぞまさに三千世界の極致とも思われた。
 趙員外とともに籠に乗せられ山頂へと運ばれた魯達は、その太った体いっぱいに澄み渡った山の空気を吸い込んだ。賑やかな酒屋も、武を競い高揚する道場も好きだが、世俗に侵されぬ木々の合間を吹く清い風もまた心地良い。
 さすがの己もなにやら迂闊に言葉を発するのを憚られ、寺男たちに案内されるまま東屋で休んでいると、しばらくして、これまた立派な山門が、ぎしりぎしりと年季を帯びた音をあげてゆっくりと開いた。
 「これは施主殿……こんな山奥まではるばる、ご苦労様でした」
 深い、静かな、この五台山を体現したような声だった。
 仏の道の心得など、塵ひとつほども持ち合わせていない魯達にすら、その声に悟りの境地を聞いた。
 「久方ぶりでございます……智真長老」
 歩み寄って深々と拝礼する趙員外にならい、魯達もまた、この寺院の筆頭である白鬚の老人に頭を下げた。
 「本日は、長老にお願いがあって参った次第でございます」
 「……員外殿、それにお連れの方も、お疲れになったでしょう。まずはお茶でもいかがかな」
 垂れ下がり、しわ深い瞳に浮かぶ笑みは柔和だったが、窺うように視線をあげた魯達は、長老のその眼差しになにやら居心地の悪さを覚えた。まるで、全く知らないはずの己のことを、何もかもを見透かしているような瞳だ。
 「魯提轄、参りましょう」
 それでもここから逃げられるわけもなし、趙員外に連れられ、おそるおそる長老のあとをついていけば、文珠院とやら言う寺院は、どこで見たこともないほどに立派である。
 秋晴れの空に映える鐘楼や宝塔のまわりには、黄金斑の毛並みを持つ鹿たちが悠然と草花を食み、湧き出る清らな泉に厨や方丈が写り込んでたゆたう様は、古より続く悠久を感じさせる。長老に案内された方丈もまた、方丈などと呼ぶにはもったいないほどに重々しく、威厳のある佇まいであった。
 「おかけくだされ」
 長老の声に頷いた趙員外が上座に腰を下ろしたのを見て、魯達はさっそくそのすぐ下手にまわり、禅椅子にどかりと腰かける。
 すると、驚いたように目を瞬かせた趙員外が、そっと魯達の耳元に囁いた。
 「提轄殿、貴方様はここに出家されるのですから、長老様の真正面に座ってはなりません」
 「おお、そうだったか。そりゃあ知らんこととは言え失礼したな」
 趙員外があまりにも申し訳なさそうにしているのを見て魯達は咄嗟に立ち上がり、彼の後ろに控えたが、内心いささかおもしろくない心地がして、逆立った眉毛をぐ、と寄せた。客としてやってきたのに、何故座ることさえ許されぬのか、腑に落ちない。
 だが、魯達の向かいでは、何人もの坊主たちが、魯達と同じように長老の後ろに控え、何を考えているのかわからぬ無表情で立ち尽くしている。これが寺の礼儀というものなのだろう。
 「長老様、まずはつまらないものですが……」
 「なんとまあ、またご進物をいただくとは。施主殿には常々世話になっておると言うのに」
 趙員外の下男たちが運び込んできた大小さまざまの箱を見て、長老が嬉しそうに頭を下げる。中身をのぞいたわけではないが、少なくともただの線香などでないのは確かだ。まさかこの坊主、趙員外から金をせびりとっているわけではあるまいな、と箱を睨みつけていると、その視線に気が付いたのか、長老の真後ろに立つ痩せた坊主が軽く咳ばらいをした。
 「いえいえ、どうかお気を遣わず、お納めください」
 趙員外が立ち上がり、深々と頭を下げるのを見て、もう一度痩せた坊主が咳ばらいをする。あやうく癇癪玉を爆発させそうになった魯達だったが、長老の白い眉が優しく垂れ下がっているのを見てぐ、と思いとどまり、員外にならって頭を下げた。
 「智真長老様、私はかねてよりこのお寺に誰か出家させて功徳を積まんと願っておりまして、度牒など入用なものまで整えていたにも関わらず、長年宿願を果たせずにおりました。それがこのたび、こちらにいます男、私の従弟で姓は魯と言いまして、関西で軍人として暮らしておりましたが、この世をはかなんで出家をしたいと私を頼ってきたのです。どうか長老様のお慈悲を持って、我が従弟を迎え入れてやってはくださいませんでしょうか……さすれば、私も積年の想いを遂げることができ、この上なき幸せなのです」
 昨夜のうちにうまい言い分を考えていたのだろう、よどみなく長老への願いを口にした員外を横目に見れば、その端正な顔は、僧籍の者の前でごまかしを言うことへの緊張からか、やや青ざめている。それを知ってか知らずか、答えた長老の声は優しかった。
 「……なるほど、それはなんとも光栄な因縁でございます。従弟殿のこと、我ら喜んでお迎えいたしましょう。さあ、お二人ともお座りになられよ。誰か茶を」
 その声に弾かれたように駆け寄ってきた小坊主が、座りなおした趙員外と魯達の前に湯気のたつ茶を起く。
 「すまんな!」
 「ひっ……」
 魯達としては、限りなく愛想よく礼を言ったつもりだったのだが、小坊主はその音量に驚いたか、びくりと体を引き、魯達と目を合わせないようにして下がっていく。
 (なんだ、愛想のないやつめ)
 斎を待ちながら、長老が呼び寄せた偉そうな坊主二人と己の剃髪のことを話しているとき間も、じろじろと寺や坊主たちの様子を見物する魯達の視線は、誰のものともかち合わない。
 (ふん、口では愛想のいいことを言いながら、内心は俺のような武人がいきなり坊主になりたいなんて言ってきたことを怪しんでいるに違いない。初対面の人間を疑うとは、坊主のくせに度量の狭い奴らめ)
 趙員外の申し出でなかったら、こんな糞坊主たちのひしめく辛気臭い寺などこちらから願い下げだ。
 怒りに任せて一気に茶を飲み干しても、誰も二杯目を注ぎにはこなかった。

 この寺に流れる穏やかで静謐な気が、今日を境に完全に変わったことを、智真はすでに悟っていた。
 いや、今日に始まったことではなかったのだ。
 その日を、智真ははっきりと覚えている。三十と一年前のことだった。
 斎を済ませ、寺院の廊下を歩いていた智真は、何の気なしに窓から見えた、南西の夕空の色を見て仰天した。
 まるで人を喰らう獣が大口を開けたかのような赤い空。その中にただ一つ、不思議な輝きを放つ星。
 慌てて外に走り出て見れば、その星の周りには、他の星も、月も、雲や鳥の影さえも見当たらなかった。
 なんと孤独な星なのだろうと思ってしばらく空を見上げていると、唐突に、一陣の突風が、山全体を吹き荒れた。
 その風は五台山をひとめぐりすると、都の方角へと抜けてゆき、行方を確かめるようにそちらを振り返れば、都の空にもまた孤独な星が一つ、瞬いていた。
 「あれは、お主であったか」
 ぽつり、と呟きを落とした刹那、寺院にはふさわしくない音をたてて厨の扉が開いた。
 「長老様!」
 駆け込んできたのは首座をはじめとした数名の僧侶たちだったが、穏やかにそちらを向いた智真の視線に己たちの慌ただしい振る舞いを恥じたか、俯きがちに話し出した。
 「長老様……先程の男……」
 「員外殿も、従弟殿も、きちんと客間にお通ししたかな」
 「は、はい……それはもちろん……ですが長老様、どうか聞いてください。員外殿が連れてきたあの太った男、あれは立ち居振る舞いがあまりにも粗暴、おまけに髭だらけでぎょろりと目をむいて、いかにも乱暴狼藉を働きそうな風貌でした。とても員外殿の親戚とは思えませんし、心から出家を望んでいるとも思えません!」
 「私も、あんな偉そうな図体をした軍人が、突然出家など、怪しいとしか思えません。本気であれを得度させようとお思いなのですか? あんな男を入山させれば、この山に災いが起こります!」
 息巻く僧侶たちをよそに、智真は六字の念仏を唱えると、静かに手をあわせて祭壇に歩み寄った。
 「趙員外ほどの方があの者を縁者だと仰せなのだ。不義理はできぬし、疑るのは罪というもの。そんなに心配をするのなら、今ここで、私がうかがってみよう」
 智真は皺深い指に香をつまみ、祭壇の前に焚くと、禅椅にあがって膝を組み、座禅に入って目を閉じる。そして香が燃え尽きた頃合いに、ゆっくりと瞼を上げた――赤い空が焼き付いた瞼を。
 「お前たち、必ずあの人を得度させるように。あの人は赤き空に輝く天の星、心素直な男です。今はまだ未熟故にその気性荒く、良い巡り合わせにも逢うていないが、いつか必ず心清らかに悟りを開き、お前たちでは及びもしない人物になろう……私のこの言葉をよく心にとどめ、決してとやかく言ってはならぬ」
 ありありと不満を顔に表しながらも、わかりましたと去っていく弟子たちの姿に、智真は目を細めた。


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