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草原の子、蒼穹を駆けよ 第1話 戦士の帰還(1)

  第一話 戦士の帰還

 湿った吐息を幾重にも荒げながら、その獅子は闘技場の床を前足で掻いた。
 日の光の一片も射さぬ地下である。さぞやぎらついた太陽と乾いた風が恋しかろう。豊かな黄金色だったはずの鬣は、藁色に枯れたまま、そよともなびかない。
 「このように巨大な獅子を前にして僅かも怯まぬとは、さすが皇王陛下の御子息でございますな」
 御子息、という単語をことさら伸ばして発音した男の鼻声に、まるでとびきりの冗談を聴いたかのごとく、居並ぶ貴顕淑女たちがさざめき笑う。彼らの顔をいちいち覗かなくとも、その声だけで、侮蔑の眼差しは容易に想像できた。
 (帰りたいか、お前も)
 白濁した獅子の瞳を、真正面から見つめる。問いに答えるように、獅子は低く喉を鳴らす。頭上を飛び交う下らない言葉の応酬など、彼も己も、気に留めていない。
 (こんなところで、命を終えたくはなかったろう)
 たとえ華美で窮屈な典礼衣装に身を包んでいたとて、己が獅子に負けることはない。それは、予定された勝利であり、強いられた戯曲であった。長すぎる槍を握る掌は、途方のない虚しさに乾いている。
 (いつかまた逢おう……あの、草原で)
 最期の咆哮は、懊悩を一滴残らず絞り出したかの如く、苛烈であった。衰えた後ろ足で冷たい石の床を蹴り、澱みを切り裂いて舞い上がった獅子の、その心臓だけをただ狙った。せめて苦しまず逝くように――誇り高き草原の王者への、尽くせる限りの礼儀であった。
 「御見事!」
 社交辞令の拍手でさえ、闘技場の壁に反響すれば盛大な喝采となる。だが、己の内側には、静寂のみが存在していた。もはや動くことのない肉塊へと姿を変えた獅子の傍に膝を付き、その鬣に指を絡めて目を閉じる。
 「三太子……御衣装が、穢れます」
 目の前の猛獣が既に死んでいると理解してもなお恐怖を拭い去れないのだろう、細かく震える侍従の声に、ゆるりと首を振った。
 高貴な獣の血は美しい赤であるはずなのに、灰色の石床に吸い込まれることもなく広がっていく様は、どす黒い肥溜のようにも見えた。
 どんな命も、死ねばただのモノになる。ここにあるのはただの死肉。捕らわれ、辱められ、虐げられてなお高貴であった魂はもう、喜びも悲しみも感じることはない。
 「見よ。神は私に、どのような獣も捻じ伏せる比類無き力を授けたもうた。ギィ・ド・ミラルこそ、我が国の力の権化じゃ」
 凄惨な見世物の場には到底そぐわぬはしゃいだ声が、観覧席の一番高い場所から降ってくる。
 少年のようにつぶらな瞳を輝かせ、白くふくよかな頬を赤く染めたこの国の君主は、 豪奢な銀の巻毛を弾ませて立ち上がる。肉の厚い手を打ち鳴らしてしきりに頷いている姿は、傍から見れば、勇敢な我が子へ心からの賛辞を送っているように見えたかもしれない。
 「陛下」
 8年あまりの月日が流れようとも、生まれたときから耳に馴染み舌に刻み込まれた母国の訛りが消えることはない。だからギィは、必要な言葉しか発しない。
 「この獅子を、葬ってください」
 「わかった、わかった。それより、その生臭くなった衣装を着替えなさい。ロジェがまた、お前のために衣装を見繕ったそうだぞ」
 「……仰せの通りに」
 教え込まれた角度に腰を曲げ、叩き込まれた滑らかさで後ずさる。揃いの囚人着に身を包んだ模範囚人たちが、箒や熊手を手に獅子の死肉を始末する。見世物が終わり、再び退屈を持て余した貴族たちが、あれこれと噂話に興じながら席を立つ。
 異国の皇族としての人生を強いられるようになってから、幾度も目にしたその景色が消えるころ、ようやくギィは、滴る汗を拭った。褐色の肌に浮かぶ汗には、尊き者が最期に流した美しく赤い血が、微かに混じっていた。

 神殿の門の如く壮麗な彫刻が施された扉を押し開けると、視界は色とりどりの服で埋め尽くされる。
 「まったく、こうもすぐに衣装を汚されちゃ、いくら衣装部屋があっても足りないよ」
 煌びやかな布が作り出す密林をかき分けるようにして、ロジェ・ド・ミラルは、一そろいの衣装を手元に引き寄せた。染み一つない純白のブーツの踵が磨き上げた大理石の床を打ち、軽やかな音をたてる。
 「ギィ、お前に似合う衣装をつくるのは難しいんだぞ。だがまあ、そこは僕の才能の見せ所なのだがね」
 外側に向かって気ままに跳ねる黒髪を大げさにかきあげたロジェは、立ち尽くすギィの肩からマントをはぎ取り、なんとも無造作に床へ投げ捨てる。希少な南国狐の毛皮でさえ、彼にとっては使い捨ての布切れであるらしかった。
 「それにしても……いつ見ても、惚れ惚れする体つきだ。まったく、辺境の土人にこんな美しい肉体を与えるなんて、神というやつの気まぐれには驚かされるよ」
 美術品を品定めする骨董商の目つきでしげしげと己の半裸を眺めるロジェに、ギィはじろりと視線を向ける。
 形式上は兄である青年にとって、すべての基準は美だ。女のように滑らかな肌や、絹糸のように輝く黒髪を保つため、彼が雇った美容師は数知れない。
 だがギィに言わせれば、この国の人間たちの陰気な白い肌も、霧がかった空のような青い眼も、太陽の下で生きるにはあまりに貧相だった。そこに生命の持つ燃えるような力強さなど、なにひとつ感じられない。
 「僕や兄上と同じような寸法の衣装では、お前には小さいのだものね。まったく、生意気なやつだ」
 「二太子も、毎日鍛錬をすればいい」
 「鍛錬!? 冗談はやめてくれよ! そんなことをするのは兵士の仕事だ。僕や兄上の高貴な体に傷でもつけてみろ、父上も母上も怒り狂い、悲しむに決まってる」
 眼に痛い緋色の衣装を青白く傷一つない手でひろげ、ロジェはギィに顎をしゃくった。
 「さあ、手を通せ。この僕が直々に、意匠を考えてやった上着だ。次こそ、汚すなよ」
 「……二太子」
 尊大に己を見上げてくるロジェから視線を外し、ギィは窓の外を見た。果ての見えぬ整然とした庭園には、人の手で姿を変えられたけばけばしい花々が所狭しと並んでいる。
 「何故いつも、無駄なことをするのです? 捕虜と変わらない男に、いつも豪華な衣装を着せてみては楽しむ……それを俺は、すぐに駄目にするのに。俺には、あんたが何をしたいのかわかりません」
 「8年もここで暮らして、今更そんなことを聞くとはね」
 前髪を吐息で揺らし、大げさに肩をすくませたロジェは、ギィが受け取ろうとしない緋色の衣装を椅子の背に掛け、その上にゆるりと腰を下ろした。足を組み、黄金で装飾されたひじ掛けに頬杖をつく様は、生まれながらに怠惰な暮らしを与えられた者特有の傲慢さに満ちている。
 「次に皇王になる兄上はどうか知らないが、僕とお前との間にはなんの含みもない、そうだろう? 僕は衣装や小物を作るのが大好きで、お前はこの国の人間にはない体を持っている。黒い肌も、固い髪も、粗雑な顔の造作も、逞しい肉体も、僕の才能の新境地を試すのにぴったりだ。僕は、僕の好奇心と熱意を満たすために、趣味でお前に衣装を作っているんだよ。そのおかげで、お前は野蛮な草原の土人たちには想像もつかないような美しい服を着て暮らせる。それだけで十分じゃないか」
 一息に言い切ったロジェは、小さなティーカップを指先で持ち上げ紅茶をすする。それひとつで農民が一生暮らしていけるほどの価値をもつ食器さえ、この宮殿の中では日常の一部に過ぎなかった。
 「あのままお前がヴァナーシャで暮らしていたらどうなったか、考えてもみたまえ。父上がお前を連れて来なければ、お前はけだものの餌食になるか、戦火の中で死んでいた。幸運なことだろう?」
 野蛮人、土人、と罵られ見下されることにいちいち腹をたてるほど、もはやギィも子供ではなかった。だが、久しぶりに耳を打った故郷の名が、忘れかけていた己の戦士の血を波立たせた。ヴァナーシャ――神がギィたちに与えたその名を、こんな軽薄な口から聞きたくはない。
 「……俺は、それを望んでいた!」
 「ひっ……!」
 弾き飛ばされたティーカップが、大理石の床の上で粉々になる。もう、本来の役目を果たすことはないだろう。
 「こんなくだらない生き方をするくらいなら、死ぬべきだった。だが、まだ死ねない。それは、お前たちの不運だ」
 「ギ、ギィ、落ち着くんだ。ぼ、僕がお前にひどくしたことがあったかい?」
 「俺は忘れていない」
 無様に腰を抜かして床に座り込むロジェに、背を向ける。風のように走ることさえできないような弱い男に手をあげるのは、戦士のすることではない。
 『俺は、モランの誇りを忘れていない。俺は、俺の名前を忘れていない。俺は、ヴァナーシャのことを、シャマイのことを、忘れていない』
 「な、何……」
 この国に捕らわれ、最初に奪われたのは言葉だった。封じていた故郷の言葉を数年ぶりに舌の上で噛みしめながら、ギィは質素な木綿のシャツを羽織る。
 「二太子、あんたも忘れない方がいい。俺の名はギィではない。ギティア・ライキを縛るのは、ヴァナーシャの掟だけだ」
 ギィ・ド・ミラルは――ギティア・ライキは、ブーツを脱ぎ捨て、裸足で床を踏む。体の芯にまで染みるその冷たさが、己の命を長らえさせていた。再びヴァナーシャのあたたかな土をこの足に踏みしめるまで、ギティアは生きねばならなかった。


→(2)へ
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茨沼・日輪の章 第一回(一)

 大きく息を吸った刹那、鼻腔がひゅうと縮んでいくような朝だった。群青色の空から降り注ぐ陽光をぎんと押し返す真白い地面は目を刺し貫き、不精な髭では覆い隠せない頬に当たる微かな風は少しずつ肌を裂いていく。
 散々文句を言われて久しぶりに洗った蓬髪は気ままに撥ねあがったまましばれ付き、掌の温を借りてなでつけてもすぐに絡み合って再びしばれついていく。欠伸に滲んだ涙は短い睫に氷の玉を成し、瞼を開けることすら億劫になる。
 ――蝦夷の冬は、痛みの季節であった。
 「ちょっと、総司! まだ湯浴みは終っとらんけどぉ?」
 「あん? お前も暇人だなぁ……こんないい天気の日にゃ、朝っぱらからごろ寝して、熱燗飲むのが一番よ」
 駐屯地の奥にぬっそりと建ちならぶ屯田兵屋は、常の喧騒が幻ででもあるかのような静けさに包まれている。その一角、他より少しだけ広い兵屋の畳の上で、誰もが震え上がる蝦夷屯田兵団の札幌都第二師団長ともあろう大男が、平日の朝から日光浴中のどら猫よろしく微睡み猪口を傾けているその様は、誰が見ても「血税の無駄遣い」という言葉にたどり着くものだったろう。
 「お天道様だってまだ働き始めたばっかりなんだぞ? 俺たち人間さまが、そう簡単に動き出せるわけねえべや」
 「はぁ、君はいつもそうやって……ほら、体起こし」
 「うるせえなぁ、非番の日くらいゆっくりさせてくれよ、夏明」
 口ではぶちぶち文句を言いながらも、大男――皇総司が大人しくその巨体を起こしたのは、ひとえに彼の後ろでまなじりを吊り上げる年若い青年を怒らせると後が怖いからだった。
 「まだ銭湯が開いとらんから、僕が直々にこうやって君の体を拭いてあげとるんに、何を偉そうに」
 「だから銭湯の時間まで待つって言ったじゃねえか」
 「待ってられんくらい臭いんじゃ!」
 「うっひゃ、さみぃ、しゃっこい、てめえ、何すんだ、ひええ」
 使い古された雑巾ですらもっとまともな扱いを受けるであろうほどのぞんざいさで総司の着物を剥ぎ取り、夏明と呼ばれた青年は、冷水をたっぷり含ませた手拭いで目の前の無駄に広い背中を果敢に擦り始める。
 「うげえ、汚なっ、ほんまにようこんな汚いなりして何日もおったね君も」
 擦るほどにぼろぼろと垢が零れ落ちる様を見て、夏明が白く品の良い醤油顔を最大限に顰めていることにも気付かず、しばらくは凶器の如き水の冷たさに身を捩っていた総司だったが、ようやくその温度にも慣れ、己の身だしなみに気を遣わぬ者特有のふてぶてしさで胸板をぼりぼりと掻いた。
 「忙しかったんだよ、わかんだろ? ほれ、そこにも書いてある」
 尻に敷いた瓦版を指し、総司は肩を竦める。その一面には、『第二師団、各地で活躍――死刑囚捕縛にも尽力』と大きな字が躍っていた。
 実際、ここ数週間は、風呂に浸かっている暇もないほど忙しかったのだ。
 石狩に行って大雪で身動きの取れなくなった村人たちを避難させ、その足で網走監獄から脱獄した死刑囚を新篠津まで追いかけまわし、ようやく捕まえたかと思えば今度は苫小牧で漁師組合の中規模な一揆が起こったとかでその鎮圧の応援に駆り出される始末である。
 札幌都には屯田兵がわんさかいるのに、いつも近隣のもめごとにいの一番に駆り出されるのは総司たち第二師団だった。確かに第二師団の連中は、機動力があり機転の利く輩が多いので、その才を買ってもらえているのだと思えば光栄ではあるのだが。
 「篠路に帰ってきたのも久しぶりだし、昼から酒飲んで寝てたって、罰は当たらねえよなぁ?」
 「さぁ……」
 信じられないほどの量の垢をようやくこそげ落とし、満足気に頷いていた夏明が、こちらは温かい湯で絞った手拭で両手を綺麗にふきながら小首を傾げる。まるであどけない少年のようなその仕草に、方々を向く柔らかな猫毛が楽し気に揺れる。
 「罰が当たるとしたら、違うことで当たるんやないの……例えば、上司に嘘の報告しはったとか」
 「……お前」
 思わず、まじまじと夏明の顔を見る。細い吊眼をさらに細め、にたりと口尻をあげる妖狐のごときその顔は、さすが、かの安倍清明の血を引くだけの小賢しさを滲ませている。
 「けっ、これだから陰陽師ってやつは嫌なんだ」
 「あのね、いつも言うとるやろ、陰陽師は君の思うようないんちき超能力者じゃないって」
 「へぇへぇ、どうせお前にゃ全部お見通しだからな」
 猪口を置き、血の巡りの良くなった体を思い切り伸ばして立ち上がる。とうに肌蹴られていた着物をずるりと脱ぎ捨て、一糸まとわぬ毛深い体に冬の陽光を存分と浴びせる。首を、肩を、腰を、足を、順番に回し、全身の力を抜く。真白い景色の中を駆け巡り、気まぐれに吹きつける微風は、相変わらず冷たく痛い。
 蝦夷の冬は痛みの季節であったが、白い静謐が一面を満たすこの季節を――いや、冬が似合う蝦夷という大地とそこに暮らす人々を、総司は心から、愛していた。
 「俺が好きでやってることだからよ……ほかのやつに迷惑かけねえように、その辺は抜かりなくやってんだ」
 「君のそういうとこ、僕は好きやけど、慎重にならんと」
 「お、なんだよ、いきなりやけに優しくなりやがって。じゃ、そんな優しい安倍夏明くんにお願い、ぬくい手拭いで俺の尻を拭」
 「皇師団長」
 窓の外から聞こえたその静かな声は、阿保面で毛に覆われた尻を突き出す全裸の大男と、その尻にいまにも冷水を浴びせようと構えた京男の動きを止めるには、十分すぎるほどの威力をもってその場を支配した。
 「……皇」
 降り積もった雪よりなお冷たい声に再び名を呼ばれた総司は、ようやく「きゃあ!」と甲高い叫び声をあげ、情けなく両手で股間を隠しながらその場にひっくり返った。脱ぎ捨てた着物を慌てて手繰り寄せ、尻の力だけで後ずされるだけ後ずさる。摩擦の犠牲になった体毛が、ささくれだった藺草になんとも悲し気に絡みつく。
 「非番のところ邪魔をして申し訳ない。だが、急ぎの用があった故」
 「真尋ぉ、ええとこに来てくれたわ! 聞いて、この怠惰で不潔で呑兵衛なうどの大木がなぁ、僕みたいな神聖な男に向かって尻を拭けって言うんよ、信じられへんわぁ」
 「何が神聖な男だ、こんちくしょう! お前だって薄野で女と遊んでるくせに!」
 風の速さで褌を巻き付け着物を整えた総司は、窓の外を睨みつけた。いつの間にか外へ降りた夏明が、総司に「化け狐」と形容される常の笑みとは比べ物にならないほど相好を崩し、無感動な顔で佇む小柄な少女に抱きついている。屯田兵団の制服である黒い着物を纏い、緩やかな段に切った黒髪を肩口に揺らす少女は、夏明に同意するでもなく暫く思案気に大きな瞳を瞬かせていたかと思うと、顔色一つ変えずに蝦夷山桜の如く瑞々しい唇を開いた。
 「……お前は部下にいつも、自分の尻は自分で拭けという癖に、己の尻は他人に拭かせるのか」
 話しぶりもその内容も、まるで年頃の少女とは思えぬその言葉に、顔を赤くしたのは総司のほうだった。
 「馬鹿、おまっ……若い娘が尻とか言うんじゃありません! そんな子に育てた覚えはないわよ!」
 「お前に育ててもらった記憶はないが」
 「……菅原一等軍曹よぉ、冗談ってやつをいい加減学んでもいい頃じゃねえか?」
 先刻までぱりぱりとしばれついていたはずの髪の毛はすっかり濡れそぼち、冷や汗だか脂汗だか分らぬ汗に交じって水滴が額を流れ落ちる。真尋の後ろでは、夏明がまた「化け狐」顔で笑っていた。
 「それより、急ぎの用があって来たんだろ。今度はいったいどんな雑用だ?」
 「これを」
 真尋が赤くなった指先で懐から取り出した封筒には、驚いたことに、屯田兵団長・長岡啓次郎の署名が記されていた。
 常ならば各師団に軍命が下る際は、屯田兵団指令室の名で命令書が届く。目の前でじっと総司の様子をうかがう少女もその軍籍を置く指令室は、蝦夷全域の情勢を独自に調査するほか各兵村からの報告を将校たちに上奏し、ともに作戦を練ったうえで最も適当な師団に軍命を届ける参謀本部である。その指令室を通らない、兵団長からの「直命」ということは、これはよほどに重大な案件であるらしかった。
 「オホーツクのコタンから、数名の扇動者が札幌都に潜入したそうだ」
 「……アイヌか」
 手紙を開きかけた指をとめ、総司は低く息を吐く。長岡団長は決して悪人ではないが、時に職務に忠実すぎる。職にも就かずにふらふらとしていた男の才を見込み職を与えてくれた恩は深いが、こうして釘を刺されるたびに、総司は今の窮屈な身の上を思い知らされのだった。
 「ま、今すぐ直ちに動けってわけでもねえだろ? それよりせっかく来たんだ、火にあたって、うまいもんでも食いながら喋ろうや」
 「せや、ものすごい美味しいお菓子があるんよ、真珠麿言うてな、囲炉裏の火で焼くねん……ま、あのおやじがこっそり『はぐれもん』からくすねたやつやけど」
 「長岡団長には、今回も第二師団と行動を共にせよと命じられている。任務に出発する日まで、ここに泊めてほしい」
 「わかった、じゃ、あのおやじを追い出すから、真尋は僕の隣の部屋で寝たらええわ」
 手紙を受け取ったとき触れた冷たい指先を一刻もはやく温めようと伸ばした手はあっけなく夏明の手に弾き飛ばされ、礼儀正しく玄関に回って二人が家の中に入ってくるまでの数瞬、総司は行き場をなくした右手でごわついた蓬髪を撫で付けるしかなかった。


(二)へ→

水滸綺伝第三回(一)

 【第三回 史進、夜半に華陰県を去り 魯提轄、拳三発で鎮関西を成敗す】

 (一)


 屋敷の外には、山賊どもを捕まえようと目を血走らせる男たち。屋敷の内には、山賊と謗られながらも義を掲げる男たち。
 (どうしたらいい)
 それは、三頭領を引き渡すか引き渡すまいかという問ではなかった。にたにたと笑う県尉の顔を塀の外に見たその時から、いや、あるいはもっと前から、史進の腹はとうに決まっていたのだ。
 (どうしたら俺たちは逃げられる)
 めまぐるしく頭の中をかきまぜ答えを見つけようにも、焦燥と憤怒が邪魔をする。
 「……史進よ」
 どうにもならずに梯子にしがみついて息を殺す史進の背後から、静かな声が訴える。
 「俺たちを、捕らえに来たんだな」
 振り向けば、朱武が曖昧な笑みを口尻にのせ、目を細めている。その後ろでは、陳達と楊春が、こちらも悲しげな、それでいて清々しいような顔を並べている。
 「史進、お前は俺たちと違って潔白の身だ。俺たちをかばって身に破滅を招くことなどあってはならん。さあ、はやく俺たちを縛って、奴らの前に突き出してくれ」
 「朱武、あんたって人は、神機軍師のくせに何もわかっちゃいない! 俺があの日、どんな気持ちであんたらを助けたと思ってる!?」
 汗ばみ始めた額を拭い、蓬髪をぞんざいに払いのけ、史進は唇を舐めた。
 「盃を交わしたのを忘れたか? 俺の生死は、あんたらとともにあるんだ」
 見ていろ、と音にならぬ声で呟き、史進はゆっくりと梯子を上る。塀から顔を出した瞬間、兵たちの目が一斉にこちらを向いた。
 「これは都頭殿が二人も揃って、こんな中秋の宵にどうされました?」
 「……史の若旦那」
 二人の都頭のうち、潰れ顔でもっさりと背の低い方が、慇懃に礼をする。
 「こんな月の美しい夜でも、我らには務めがありましてね……おわかりでしょう、若旦那」
 「へえ、そりゃ大変だ。うちなんかは気ままなもんですよ。今、村の若い奴らと一緒に中秋の宴を開いていたところなんですけど、どうです、景気づけに一献」
 「ふざけるな!」
 へらへらと嘯く若き庄屋の言葉に、神経質そうな顔をしたもう一人の都頭が、傍らに立つ李吉の背を押しながら声を荒げる。
 「この李吉がすべて告げてくれたぞ! 村の主ともあろうお前が、屋敷に山賊どもを招いて酒宴を開いているとな!」
 「貴様……!」
 いつもへらへらと軽薄な男ではあったが、彼の狩った獣をいつも買ってやり、小遣いまでやっていたのは、この己ではなかったのか。
 「父さんも俺も、お前にひどい仕打ちをしたこともないのに、なぜ濡れ衣を着せようとするんだ!」
 「いやですよぅ、若旦那、俺は何も知らなかったんだってば。ちょいと山に入って獣を探していたら、王四の爺が林の中でのんきに寝てたのさ。俺はあいつの持ってた返書を拾って、衙門の前でちょっと読んでただけなんですから、勘弁してくださいよぉ」
 「王四の返書?」
 その言葉に史進は、目の前の危機をもひととき忘れた。
 あの日、少華山に宴の誘いを持っていかせたその帰り、王四は夜もとっぷり更けたころに帰ってきた。浴びるほどに酒を飲まされて。
 返書はもらったかと聞けば、酔って間違いをおかしてはいけないからもらわなかったと、確かに言ったのだ。
 「嘘を……嘘を言ってるんだ、お前は……」
 「嘘? だったらあの爺を呼んで聞いてみてくださいよぅ。あいつと俺と、どっちが正しい人間か」
 喘鳴に紛れるような史進の呟きすら拾った地獄耳の李吉が、獲物を前にした獣のように笑った。
 「王四……王四! どこにいる! 誰か、王四を呼べ! 引きずってでも連れてこい!」
 梯子から飛び降り血相を変えてあたりを見回す主のただならぬ声に、使用人たちが屋敷の中をばたばたと駆けまわる。そういえば、いつもは史進に困ったことが起これば必ず傍にいるはずの使用人頭は、屋敷のまわりを兵たちが囲んだとたん、姿を消していた。
 「だ、旦那様……」
 ほどなくして、数人の使用人が、文字通り引きずるようにして王四を連れてやってきた。地面に体を投げ出され、ぜいぜいと咳込む王四の顔は、月よりなお白い。
 「王四、教えてくれ」
 膝をつき、最も信用していた使用人の、痩せた肩をぐいと掴む。
 「少華山に、宴の誘いを持って行ったとき、お前は返書を受け取ったのか?」
 「……それは……」
 老いた眼が、揺れながら朱武たちのほうを見る。朱武の表情からその感情をうかがい知ることはできなかったが、細い髭を震わせ、彼はゆっくりと頷いた。
 「王殿、俺は確かに、史大郎への返書をあなたに託したはずだ」
 「あ……だ、旦那様……」
 情の抜け落ちた顔で己を見つめる主の腕に、老いた使用人頭は必死でしがみつく。
 「つい、勧められるまま酒を飲み、返書のことを……忘れてしまったのです……まさか、李吉が拾うとは、私は」
 「黙れ!」
 痩せた胸倉をひっつかみ、かつて誰よりも信頼した男を史進は地面にねじ伏せ、方便ばかりが達者な頬を何度も拳で殴りつけた。
 「お前は言ったんだぞ、間違いを犯してはいけないから返書はもらわなかったと! なぜ正直になくしたと言わなかった! なぜ俺を追い詰めるような真似を!」
 「史進、落ち着け! 今はあいつらをどうにかしなきゃ」
 陳達と楊春に力づくで引きはがされてようやく、史進は王四から目を逸らした。屋敷を取り囲む兵たちが強引に踏み込んでこないのは、少華山の三頭領と史進の豪傑ぶりを聞き及んでいるからだろう。だが、もたもたたしている猶予はない。
 じんと痛む拳を握りしめ、空を仰ぐ。
 延安でこの名月を見ているはずの人を、倣う時が来たのだろう。
 「……都頭殿!」
 再び梯子を上った史進は、動揺を押し殺し、精一杯威厳のある顔をしてみせた。
 「確かに、うちの使用人がへまをして返書を取られたようだ。だけど、今宵の宴は、山賊どもを一網打尽にしようと俺が考えた口実さ。だから、どうか少し待ってくれ。三頭領は酒に酔って、へべれけだ。今のうちに奴らを縄で縛って、あんたたちのとこに連れていくよ。賞金は、俺のものかい?」
 肌蹴た着物からうっそりと覗く九匹の龍の刺青を、都頭たちがこわごわと見ているのがわかる。威勢よく屋敷を取り囲んではいるが、彼らには毛ほども豪胆さなど備わっていないのだ。
 「……若旦那、私たちはことを荒げる気はないんでね。あんたが山賊どもを連れてきてくれさえすれば、賞金を受け取らせてやろう」
 「わかった、待っていろ」
 するりと梯子を下り、史進はしたたる汗を腕で拭った。
 「朱武、陳達、楊春……」
 「史大郎よ……やるんだな?」
 「ああ」
 にやりとする陳達にひとつ、頷くと、史進は未だ地面に這いつくばる王四の首根っこをひっ掴み、三頭領を従えて、宴席を設けていた前庭へと引き返した。
 「みんな、聞いてくれ!」
 屋敷のあちこちで固唾をのんでいた使用人たちを呼び集め、手に馴染んだ三尖刀を掲げる。
 「俺は今から、屋敷に火を放つ」
 若き村の主の突拍子もない言動はいつものこと。特に、少華山と一線を交えてからというもの、その突拍子のなさには際限がなくなった。だから、史進の放った言葉に使用人たちは驚きもせず、ただじっと、尽くし仕えた青年の挑戦的な眼光を一身に受けていた――首根っこをつかまれ、顔を痣だらけにした王四以外は。
 「ぼ、坊ちゃん、何をなさるので……」
 「ハッ、今更なにが『坊ちゃん』だ。俺を裏切りやがったくせに」
 王四の首筋に、刀をあてる。こんな日が来ると、いったい誰が想像できたろう? 未熟な己を親身に見守ってくれた男だったと、信じていたのに。
 「う、裏切ったわけじゃない……全部、李吉が、悪いんだ……」
 「こんな重大なことで、俺に嘘をついた、それだけで十分な裏切りだ! お前が正直に返書を無くしたと言っていれば、手の打ちようもあったものを、畜生め!」
 徐々に刀が食い込み、痩せた首筋を血が流れる。
 「私を、こ、殺すのか……今まで散々世話をしてやったのに!」
 「史進……お前が信頼してる使用人だと思って今まで言わなかったがよう……」
 躊躇いを見抜いたか、陳達が常にない険しい顔で唸るように呟いた。
 「子分どもの話では、そいつは俺たちがお前にと贈った銀子からかなりの額を抜いてたそうだぜ。俺たちがそいつのためにと別に銀子を渡していたのに、だ。おまけに、少華山との行き来で稼いだ銭で、お前を捨てて商売をするとも話してたらしい……それでもまだ、生かしておくのか?」
 すう、と息を吸いこみ、刀を握る手に、力をこめた。もはや目の前にいるのは、幼いころからかわいがってくれた男ではない――ただの薄汚い恩知らずに、かけてやる温情など、もはやありはしなかった。
 「王四、お前のせいで、今日俺は故郷を追われる……最期に言い残すことがあれば、聞いてやるぞ」
 「……史大郎」
 怒りに入墨まで赤くする主を見上げる狡猾な瞳は、もはや覚悟を決めたか、ひどく冷めきっていた。
 「最期の忠告と思って聞け、若造。お前は、自分を嫌う者が存在することなど想像もしないまま、能天気に育ちすぎた。過ぎた信用は、いつかこうして自分に返ってくるぞ!」
 愉快げなのか悔し気なのか判別も付かぬ掠れた笑い声を道連れに、王四の首は弧を描いて草むらに消えていった。
 「……今から、屋敷に火を放ち、周りを囲んでる兵どもを突破する」
 裏切者の残滓を刀から振り払い、史進は再びその言葉を口にした。
 「俺について来る気のある者は、武器をとれ。だけど、無理に従えという言うつもりはない。命を大事にしたいなら、今日から新しい道を歩むといい……ここで、お別れだ」
 使用人たち一人一人の顔を見渡す。庄屋としての才も威厳もなかったかもしれないが、父と同じくらい、彼ら一人一人を大切にしてきた自負はあった。
 「旦那様……俺たちは、王四とは違います」
 「そうだ。若旦那が行くとおっしゃるなら、どこまででもお供します!」
 「三頭領と若旦那に武器を用意するんだ!」
 過ぎた信用は、己に返る――それが真実だとするのなら、まさに彼らの言葉こそ、史進が抱いた信頼への返答だった。
 「先陣は、俺が切る。朱武と楊春は中央で子分とこいつらを率いて、女たちを守ってくれ。陳達、あんたにはしんがりを頼む」
 「任せろよ!」
 史進と三頭領は、それぞれ使用人たちが用意した鎧に身を固め、己の武器を手に取った。女たちには金目のものだけをまとめさせ、男たちには屋敷の四方の藁小屋に火をつけさせる。
 「……父さん」
 最後に、史進自ら松明を手に取り、母屋の前に立つ。
 火の手があがったのを見た外の兵たちが色めきたつ気配を感じながらも、史進はしばし、生まれ育った屋敷を見上げた。
 「俺はきっと、逃げ続けるよ。この国は広いから、色々、見て回ろうと思ってる」
 この屋敷で父の子として生を受け、幸福な少年時代を過ごし、義に生きる好漢たちに出会った。
 「でも……いつになるかはわからないけど、きっといつか、帰ってくるからな」
 ばちりばちりと小さな音をたてていた火は、少しも経たぬうちに大きな炎となり、屋敷を飲み込んでゆく。
 「行くぞ!」
 その炎を受けて煌めく三尖刀を掲げ、気合い一声、史進は表門の扉を蹴り開けた。
 「し、史進が来たぞ! 逃がすな、賊とひとまとめに捕らえるんだ!」
 兵たちを鼓舞する県尉の声が震えきっていたのも、仕方のないことだったろう。
 九紋龍史進は、ひとつの嵐だった。
 畑仕事で出来上がったとは到底思えぬ均整のとれた肉体を中秋の宵に踊らせ、眼光鋭い山寨の好漢たちを従えて駆け抜ける暴風だった。
 その勢いにたじろぐ兵たちを薙ぎ倒し、赤子の首をひねるように命を奪う史進たちの足元には、はやくも死体の山と血の海が広がっていた。
 「李吉!」
 腰を抜かし、動けずにいる卑怯な小男の首は、返り血を浴びたその顔を一瞥する間もなく胴と離れ離れになり、その後ろでは、体面も何もかなぐり捨てて一目散に逃げだした二人の都頭が、陳達の点鋼槍と楊春の刀の餌食になっていた。
 「待て、逃げるな!」
 ただ一人、県尉だけは、先の威勢もどこへやら、これは勝ち目もあるはずなしと、颯のように馬を駆って逃れ去る。
 「あんな腰抜け役人のもとで威張り散らして良民をいじめるとは、兵の風上にもおけない野郎どもめ! まだ善悪が分からんというのなら、この九紋龍史進がお前たちの体に叩き込んでやる!」
 命からがら逃げてゆく兵たちの背を眺め、史進は白い歯をこぼした。もはや己を邪魔する者は、どこにもいない。
 「痛快だ! 今宵はなんて佳い夜だ」
 まぶしいほどに輝く満月に向かい、史進は吼えた。蓬髪を夜風に揺らし両腕を突き上げるその姿を目にしたものはきっと、そこに一匹の龍を見出したことだろう。

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跳澗虎陳達

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【姓名】 陳達 (ちんたつ)

【二つ名】 跳澗虎 (ちょうかんこ)

【宿星】 地周星

【生年】 1085年(第二回初登場時28歳)

【出身地】 鄴城(河北省邯鄲市)

【身長/体重】 179cm / 91Kg

 鄴城出身の、少華山第二の頭領。得物の点鋼槍を振り回し、恐れを知らず敵にあたる猪突猛進型の豪傑。勇猛だが、短気で後先を考えないところが玉に瑕。あとくされのない性格が、強面に愛嬌を与えている。
 かつて徐州に住んでいた時、役人と結託した姑によって冤罪を着せられた姉を救ってくれた朱武を心から尊敬し、義兄と慕うようになる。恩人である朱武が讒言によって陥れられると、友人であり義兄弟であった楊春とともに朱武を連れて徐州を逃げ、やがて少華山へとたどり着き二の頭領の座につくこととなる。
 ある時、華陰県の衙門に目をつけられたことに激怒し、民のためにも衙門から食料を奪うため、豪傑・史進の住む史家村を突破することを決めたが……

白蛇花楊春

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【姓名】 楊春 (ようしゅん)

【二つ名】 白花蛇 (はくかだ)

【宿星】 地隠星

【生年】 1086年(第二回初登場時27歳)

【出身地】 蒲州解良県(山西省運城市解州鎮)

【身長/体重】 180cm / 65Kg

 蒲州解良県出身の、少華山第三の頭領。細身の長身と蛇を思わせる白い顔から、ついた二つ名は「白花蛇」。だが、雅な二つ名と体格に反し、戦場では大桿刀を振るう猛者でもある。飄々としてつかみどころのない性格だが、意外と思慮深く冷静な慎重派。
 かつては地元の軍に志願していたが、商売敵の策略で有り金をすべて取られてしまった両親の面倒を見るため徐州に移り住む。そのとき何かと世話を焼いてくれた陳達を、兄貴分として慕うようになる。
 その後、陳達の恩人である朱武を助けるため徐州を追われ、華陰県の少華山であらためて義兄弟の契りを交わし、山賊の三の頭領となった。
 華陰県の衙門に目をつけられ、三千貫の賞金をかけられたことを知った陳達が、史進との戦いに敗れて捕らわれたことを聞き……
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