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水滸綺伝第二回(十二)

 【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(十二)

 やけに甲高く調子はずれな二人分の歌声を引き連れながら、道士姿の賊は、暮らし慣れた山寨の広間へとなだれこんだ。彼の頬もまた陽気に赤らみ、ここの所の険しい顔つきが嘘のように眉根が緩んでいる。
 「兄貴ぃ、史進とこの酒は、うまかったなぁ」
 「俺はぁ、酒をついでくれたお嬢さんが、かわいかったと思った!」
 「ああん? 楊春はああいう女が好みか! ははは!」
 すっかり史進と意気投合した少華山の三頭領は、飲んで食っての愉快な宴を繰り広げ、まだいいだろうと引き止め名残惜しげな史進に手を振りようやく史家村をあとにする頃には、もはや空の端が白みはじめていた。何もかもがおかしくなって笑い転げながら山寨に帰ってきた頭領たちの姿に子分たちは驚き、ただ死ぬつもりでふもとへと向かった兄貴たちが全員五体満足で帰ってきた奇跡に首をかしげるのだった。
 「はぁ、まったく……まったく」
 羽扇をなかば振り回すように揺らしながら、朱武は大王の座にどかりと座る。いったい、こんなにも愉快な夜を迎えたのは幾日ぶりだったろう。それもひとえに、あの気持ちの良い若者のおかげに他ならぬ。すっかり羽目をはずして広間の床を転がりまわる弟たちも、ここに帰る道すがら、しきりに史進を誉めそやしていた。
 「泣き落としのようにはなったが、あんな策でも取らなければ、今頃俺たち三人の首が衙門の軒先にぶらさがっていたところだった」
 「よかったぜ、俺の首はまだ、体と離れたくないって言ってるからな!」
 「そもそも達兄が武兄の言うことを聞かなかったからさ」
 「だぁから、悪かったって。その話はもうよしてくれよ。でも、おかげであんなにうまい酒を飲めて、好漢を知ることもできたじゃねえか」
 「そのとおり」
 軽口を言い合う兄弟たちを羽扇で指しながら、朱武は何度も深く頷く。
 「田舎の粋がった若造かと思っていたが、史大郎の義侠を解するあの人柄、俺もまったく感じ入った。民を苦しめる役人たちがのさばるこの華陰にも、あんな男がいるとは喜ばしい限りだ」
 「朱武の兄貴ったら、この山に来てからというもの毎晩、眉毛を逆立てていたからな。こんな愉快そうな兄貴を見たのは、徐州から夜逃げしたあの日以来だ」
 それは楊春も、そして陳達とて同じだったろう。少華山をのっとり、義賊の旗を掲げたあの日以来、虐げられる民と腐り果てた役人たちを想って苦悩しない日などなかった。平気で悪がまかりとおる鬱々とした世の気風に、抗っているのはもしや自分たちだけなのだろうかと歯がゆさに涙を流した日もあった。だが今日、こんなにも近くに同じ義憤を抱く好漢がいることを知った。かつて奸臣に陥れられた師の姿を胸に、一人、突き抜ける空のように生きる男を知ったのだ。
 「なあ、このままで終わっては、今度は俺たちの義侠がすたってしまう。どうだろう、ひとつ、命を救い酒を酌み交わしてくれた礼の品を後日送るというのは」
 「兄貴、そりゃいい考えだ」
 どんぐり眼を輝かせ、陳達が笑う。この豪気な笑顔を救い、少華山の憂いを吹き飛ばしてくれた男のためならば、どれだけ財を手放しても惜しくはなかった。

 「旦那さま、旦那さま、お客様がいらしてますよ」
 遠慮がちな衣擦れの音とともに使用人が小声で史進を呼びに来たのは、夜もとっぷりふけた頃だった。
 「客? こんな時間に、いったい誰だ?」
 ちょうど夜着に着替えようとしていた史進のむき出しの刺青をこわごわと横目に見やりながら、おとなしい使用人はさらに声をひそめる。
 「それが……例の、少華山からのお使いなんです」
 「何!? それを先に言ってくれよ!」
 大慌てで身だしなみを整えた史進は、まろぶように部屋を出る。すでに夕餉で満腹になり、あとは眠るだけとのんびりしていたのだが、あの三頭領からの使いとあれば追い返すわけにはゆかぬ。こんな夜更けにやってきたのも、人目を避けるためであろう。
 「すまん、待たせた!」
 「うわ、あ、史進殿」
 いきおい良く門扉をあければ、門前でおとなしく待っていた少華山の子分二人組はびっくりしてあとずさったが、史進の顔を認めると、すぐに跪いて拱手する。
 「挨拶はいいから、立ってくれ。朱武たちからの使いだな?」
 「ええ、そうです。山寨の三頭領から、先日のお礼の品を託され、山を下って参りました。このような夜更けにお訪ねするしかなかったこと、どうかお許しください」
 「そんなことは気にするなよ。それより、三頭領は元気にやっているかい?」
 「史進殿に命をお助けいただき、酒を酌み交わしてお帰りになってからというもの、前にもまして三頭領は意気揚々としておられます。それに、毎日史家村のほうを向いて線香を焚き、俺たち子分衆にもいつも史進殿の豪傑ぶりを嬉しそうに語っておられるのです」
 心の内に慕った男に初めて出会う小娘の如く、松明に照らし出された子分たちの顔は輝いている。まったく線香まであげるとは大げさなような気もするが、それほどまでに想われるのに悪い気はしない。史進とて、小さな村の中で力を持て余す日々に一筋の光明がさしたようなあの日を思い出せば、未だに胸が高鳴るのだ。
 「そこで三頭領は、史進殿のために礼物を用意し、くれぐれもよろしくと俺たちに言付けられたのです……どうぞ、こちらをお納めください」
 手下が懐にあたためていた包みを取り出し、結び目を解く――中からでてきたのは、金子だった。
 「お、おい、待ってくれ」
 ぎょっとして、思わず男の手を押し返す。「三十両も、もらえない」三頭領の義理堅さは有難いが、今は金には困っていない。それに、山寨のほうが金はなにかと入用だろう。
 「で、ですが史進殿……これは少華山の心からの礼。三頭領だけでなく、俺たちも貴方にはすっかり敬服し、感謝しているのです。それにこれを持って帰ったとなれば、俺たちが尻叩きの刑にされちまいます」
 「史進殿、どうか俺たちの心を汲んでください!」
 「わかった、わかったよ。俺のような若造に心を尽くしてもらって感謝すると、三頭領に伝えてくれ」
 泣き出しそうな男たちの剣幕に、ついに史進も金子を受け取った。朱武たちの心からの礼物とあれば、これ以上拒むのも礼を失するであろう。
 「それより、わざわざここまで足を運んでくれたんだ。おい、お前、こいつらに酒と、それから銀子を。少し中で休んでから帰ればいいよ」
 「え、そんな」
 「そう遠慮するな。俺も、山寨の様子を聞きたいんだ」
 再三辞退しようとるす子分たちを半ば強引に引きずり込み、史進は彼らに酒をふるまい存分に話を聞き出し――そしてこの日から、大きな志を持つ小さな村の若き主と、彼がかつてお縄にしようとしていた山賊の頭領たちとの間には、密やかなやり取りが続くことになった。半月ほどたったある夜には、またも子分が史進の屋敷の門を叩き、大粒の見事な真珠を連ねた飾りを差し出した。これほどまでの心遣いを受けっぱなしというわけにもゆくまいと、史進はお返しに、錦の上着を贈ることに決めた。
 装いに関してはこだわりのあった父が通いつめていた店で紅錦を自ら選び、それをこちらも贔屓の仕立て屋に持ちこむ。三枚の上着はそれぞれ趣向を変え、朱武には知性を感じさせるゆったりとしたものを、陳達にはその武勇に見合うような力強いつくりのものを、楊春には彼のしなやかな身体にぴったりと合う動きやすいものを……と史進自ら逐一注文をつけて仕立てさせた。そうして仕上がった上着のほかに、丸々とした羊を三匹煮たものや自家製の酒を王四たち使用人に持たせて山寨にやらせれば、大喜びした少華山の三頭領にたっぷりともてなしを受けた王四たちは、「三頭領は、旦那様によろしくと何度もおっしゃっていましたよ」と顔を赤くしながら銀子を手に帰ってきたのだった。
 こうして、史進の贈り物を携えた王四と、三頭領の贈り物を携えた少華山の子分たちがしょっちゅう行き来を繰り返すようになってから時は過ぎ、気がつけば季節は中秋をむかえる頃となっていた。
 「なあ、王四」
 「はい、なんでしょう」
 いつものとおり、史進が使用人たちに作らせた料理や買ってきた器などがぎっしり詰め込まれた行李を慎重に点検する王四の背中を眺めながら、史進は顎の先をかいた。
 「もうすぐ、十五夜だ」
 「そうですね……ああ、これは曲がってしまうから、こちらに入れ替えて……」
 三頭領と出会う契機となったあの日以来、また史家村は平和で穏やかな日々に包まれている。民はみな畑を耕し、たまに街へ出てはささやかな売り買いをして、儲かった日にはうまいものを食べる。史進の屋敷にも村の民を養うだけの十分な蓄えがあり、今のところ特段大きな心配事もない。不穏な気がたちこめるこの時世に、なんと幸せなことだろう。
 だが、その幸せをおとなしくかみしめながら悠々と暮らしていきたいと願うほど、史進の心は枯れていなかった。一歩外に出れば、地位と財に力を借りた悪人たちに民は脅かされ、生きるために善人が盗賊になり果てている。いったい今、この国で何が起きているのか。そして、これからこの国はどうなってゆくのか。王進が去った今、己がそんなことを大真面目に語り合えるのは、朱武たちだけだ。
 「十五夜の宴に、王四、俺は、少華山の三頭領を招きたいと思う」
 せわしなく贈り物の上を行き来していた王四の手がぴくりと止まり、老いた顔がこちらを振り返る。
 三頭領と別れてから時は経ってしまったが、未だに贈り物のやり取りを欠かさないところを見れば、彼らも史進との縁を切るつもりはないようだ。それに、今や史家村の民もみな、少華山の賊が善良な民を傷つけないことをわかっているだろう。中秋の夜くらい、いつもは人目を忍んで生きる得難い友と愉快に飲み明かし、そしてこの浮世に感じている鬱憤を語り明かすことを誰が責められよう。
 「……旦那様、きっと三頭領も喜ばれましょうね」
 しばし思案顔でかたまっていた王四も、史進の心中を察したのか深く頷いて同意した。
 「そうとなれば、さっそく招待状をしたためられた方がよろしいかと。この贈り物を届けるときに、一緒に持っていきましょう。私は使用人たちに、宴の準備を言づけてから出発いたします」
 「ああ、わかったよ。さすが、お前はいつも気が利くな」
 王四の薄い肩を何度もたたくと、史進は満面に笑みを浮かべた。持つべきものは、信頼できる使用人だ――きっと中秋の宴は、愉快なものになるだろう。


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水滸綺伝第二回(十三)

 【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(十三)

 秋の夜は長い。もうすぐ満ちる月の下、史進から中秋の宴の誘いを受けてひどく喜んだ少華山の三頭領は、十杯ほどの酒を飲み干すまで、王四を離そうとしなかった。
 (なんとも気持ちの良い夜だが、さっさと帰って、旦那さまに返書を届けなくてはな)
 赤らんだ顔に吹き付ける夜風はそよとして、懐で硬質な音をたてる銀子の重さもまた心地よい。
 祖父から三代、黙々と史家に仕えてきた王四の日常は、節制を続けるだけの至極単調なものだった。
 どこで米がいくらとれたとか、どこぞの家の誰が結婚するから贈り物がいくら必要だとか、そんな細々とした計算をただ繰り返し、史家の台所を守る日々。三人の兄はそれぞれ武芸の腕がたったから、先代の旦那の口添えで街に出て行ったが、自分は帳簿をつけることしか能のない男だった。おまけにそれ以外に学があるかと聞かれればほかに何も取柄はなく、史家の使用人をやめれば最後、大した稼ぎを得られるはずもなかった。
 だが、少華山の山賊どもと出会ってから、王四の日常は少しばかり変わった。
 無頼に憧れる若き主が彼らと親交を持ったおかげで、山寨と行き来をするうち、王四の懐にはこれまでの倍の銀子が転がり込むようになった。そして、国の各地から集まった男たちと交わるうち、今まで王四の知らなかった世界との繋がりすらできるようになっていた。
 (あの世慣れない坊ちゃまも、そろそろ手のかからない男になったろう)
 懐にしまい込んだ銀子を握りしめ、王四は思う。山賊どもとのやり取りで得た銀子は、こんな田舎を捨て、残り少ない余生を自分のためにだけ使えるくらいには貯まっている。史家には使用人が大勢いるのだし、自分ひとりがいなくなったとて、何を困ることがあるだろう? これまでさんざん迷惑をかけられ、さんざんに面倒を見てやったのだ。もうそろそろ、好きにさせてもらってもいい頃だろう――
 「あれ、王四さんじゃないか!」
 山道の途中でやおらに声をかけてきた男は、いつも史家の屋敷に贈り物を運んでくる子分の一人だった。陽気な髭面からは、離れていてもわかるほどぷんぷんと酒の匂いが漂ってくる。
 「なあ、久しぶりじゃないか。少し飲んで行かないかい? もちろん、俺たちのおごりさ」
 彼の指さす先には、少華山の手の者が営んでいるのであろう酒屋の灯りが揺れている。この男は、かつて西京河南府で商売をやっていたらしい……
 「では、お言葉に甘えて少しだけ」
 へらりと笑った王四の頭からは、面倒ごとばかり起こす若き主の顔はすっかり消え去っていた。

 秋の夜は、長い。日の出ている時間などあっという間に過ぎ去るのに、獲物は一向に姿を見せない。
山賊どもの巣から姿を隠すように夜な夜な山の裾野を駆け回っては、なんとか獲物を探す李吉に、村の者たちは冷たい。あの武芸しか能のない史家の若造だけでなく、いまや村中の者が度胸のない奴と己を馬鹿にしているのだ。
「ハッ、獣たちだって、山賊どもに怯えてるのさ、俺だけじゃないさね」
 細い目を精一杯ぎょろぎょろと光らせながら、李吉はおっかなびっくりあたりを見回す。雲間から不規則にそそぐ月明りにいくら目を凝らしても、獣の気配は見当たらない。
 「ちぇ、今日も手ぶらかぃ」
 大げさに肩を落とし、こうなれば腹いせにどこかの間抜けの家から少しばかりの小粒をくすねて一杯やろうかと諦めたその時。
 草が擦れるような音が、確かに聞こえた。
 「い、今頃になって出てきやがった!」
 随分と重たい音だったから、もしかすると猪か、それとも……人間か。村の者ならばいいが、山賊野郎だったら命を取られるかもわからない。それでもなんとか獲物を仕留めたい一心の李吉は、どうにか己を叱咤し、音の聞こえた林の中へと分け入っていく。
 「……なんだ、史大郎のところの王四の爺じゃねえかぃ。何をこんなとこで寝ているんだか」
 こわごわと闇の中を見つめているうち、大きな音をあげた張本人が草っぱらで大の字になっているのを見つけると、肩透かしをくらった李吉は悪態をつきながらその人影に近づいた。
 「ったく、気持ち良く酔っぱらいやがってよぅ。こちとら酒を飲む金さえありゃしねぇ……ん? こりゃあ……!」
 気に食わない野郎と言えど、一応は見知った男とあれば声をかけねばなるまいと、王四の体に手をかけた李吉は、彼の胴巻から何か光るものが覗いているのに気が付いた。それは、自分のような貧乏猟師など、一生かかっても手にできないような量の、銀子だった。
 「ひぃ、こいつぁ、運がいい! この野郎、使用人のくせに、どこからこんな大金をくすねてきたんだぃ、え?」
 涎さえ垂らしそうな勢いで、李吉は王四の胴巻を剥がしにかかる。こんなに幸せそうな顔で寝こけているのだ、きっとこの中にはさらにたんまりと銀子を隠しこんでいるに違いない。どうせなら全部くすねて明日は隣まちの賭場に行き、このもうけをさらに倍にしてやろう――
 「……なんだ、これは?」
 小粒のひとつも逃すまいと丹念に胴巻を振っていると、銀子のほかに、なにやら文のようなものがかさりと零れ落ちる。常ならば、金目のもの以外にはまったく気も取られない李吉だったが、今宵ばかりは、何故かこの文にやたらと気が引かれた。多少は字を読める故、表に書かれた神経質そうな文字が「九紋龍史進殿」と綴っていたことに気が付いたからかもしれない。
 —―それが偶然の出来心であったのか、宿命であったのか、今となっては誰一人知る者はない。
 李吉のがさついた指先が、するりと王四の文を開く。書き連ねられた細かい文字をすべて理解することはできなかったが、猟師の鋭くずる賢い小さな眼の中にはすぐに、その字が滑りこんできた。
 「少華山の朱武、陳達、楊春より史家村の史進殿へ……? おいおい、なんだぃ、こりゃあ……!」
 月明かりを当てて何度眺めても、見間違いなどではない。この文は、山賊どもから史家の若造へ宛てられたものだ。李吉は間抜け面で寝こける王四の顔をもう一度覗き込み、唇を舐めた。乾いて逆立った薄皮が、舌の先を掠める。
 「へっ……へへ、とんでもねぇもんを見つけちまったよぅ。こないだ易者のやつが、今年こそ俺に大金が転がり込むとか抜かしていたが、まさかこんなこととは思わなかったね」
 王四がまったく起きる気配もないことを再三確かめると、李吉は静かに山賊の文を懐へ滑りこませた。
 「へへ、史大郎のくそがきめ、いつだか俺が丘乙郎を探していったときには盗みの下見じゃないかとか言いやがったが、なんだ、自分こそ、盗人どもと仲良くしていやがったんじゃないかぃ。さぁて、しみったれた猟師家業とも、今日でおさらばさね……」
 音もなく山を駆け下りた李吉は、まっすぐに華陰県の衙門を目指してひた走った。意気地なしの役人どもが、少華山の三頭領の首にかけたは三千貫――それがすべて李吉のものになるのは、もうすぐだ。

 誰かが扉の向こうを滑るように歩く衣擦れの音になど、常ならば気付かず眠りこけているところなのだが、何故か今宵ばかりはその微かな物音に起こされた。
 「……王四か?」
 のそりと起き上がって部屋の扉を開けた史進は、そそくさと遠ざかろうとしていた猫背姿にひそめた声をかけた。
 「ひっ……だ、旦那様、ですか……驚かさないでくださいよ」
 「なんだよ、驚かせたのはそっちだろ。こんな時間に帰ってきたのはどうしてだ? 泊まっていけとでも言われたか?」
 大げさに肩を震わせて振り返った王四の顔色は薄暗がりでよく見えないが、どこか焦点の定まらない目をしている――おそらく浴びるほどに酒を飲まされたのだろう。
 「ええ、その通りで……三頭領どころか、子分衆の皆さんまでも、旦那さまの中秋の誘いに大喜びで、私をどうしてもと引きとめたのです。ようやく帰って来られたと思ったらこんな時間で、旦那さまを起こしてしまいましたな」
 「はは、そんなことだろうと思ったよ。そうだ、朱武たちから文の返事はもらったか?」
 「いえ、その、文を書こうとおっしゃったところを私がお断りしたのです。三頭領がおいでになると決められたからには文など不要。私も相当酔っておりましたから、途中で万一間違いを起こしてはいけないですし」
 「へえ、さすがは父さんが賽伯当と呼んでいただけはある。機転がきくじゃないか」
 「め、滅相もない。私はただ、確かに三頭領の良い返事を旦那さまにお伝えしようとまっすぐ走って帰ってきただけでして」
 「はは、お前のおかげで、中秋の宴は愉快になりそうだ。そうと決まれば、さっそく宴席の準備をしないと」
 「そちらも私にお任せを。万事ぬかりなく準備いたしましょう」
 「まあ、今日のところは早く休め。ずいぶん疲れた顔をしているぞ。俺もまだ眠たいから、もう一度寝るとするよ」
 だらしなく大あくびをしてひらひらと手をふった史進はついぞ、細く震える溜息を漏らしてそっと汗を拭う王四の姿に気が付くことはなかった。

 そうして、その夜はやってきた。
 気の早い満月は、未だ暮れぬ黄昏の空に我が物顔で銀色の輪を描いていた。
 その清かな輝きの中、ゆったりと葉を散らす木陰にしつらえられた宴席に、大小さまざま赴きのある器が所狭しと並べられた様は、片田舎の庭先とは思えぬ品をたたえていた。
 使用人たちが丹精込めて整えた料理や酒の芳香は、実り豊かな史家村の幸福を乗せて、人々の談笑の合間を漂っていた。
 やがて黄昏の空が紫紺の宵闇に変わり始めた頃、史進の待ち人たちは、ようやく門前に姿を表した。
 「旦那様、三頭領がお着きになりましたよ」
 使用人たちが告げるや否や、史進は幼子のように目を輝かせ、村の主の威厳もそこそこに、友のもとへと駆け寄った。
 「朱武、陳達、それに楊春も、皆、今日はよく来てくれたな!」
 「はは、お前にまた会えるとなってからは、兄貴たちも仕事が手につかなくて、稼ぎはあがったりさ」
 のっぺりとした顔いっぱいに嬉しそうな笑みを浮かべる楊春を、陳達のどんぐり眼がぎょろりと睨む。
 「ばかを言え、稼ぎが減るどころか、今日のためにたんまり贈り物をあつらえたじゃねえか。やい、史大郎、楊春の言うことなんか、真にうけるなよ」
 愉快げにまくし立てる陳達につられて、朱武もくつくつと肩を揺らす。
 「史進、今日は中秋の宴に招いてもらい、嬉しい限りだ。あまり目立ったことはできぬ故、馬にも乗らず、子分どもも五人しか連れて来られなかった。山に残った者たちも皆、お前によろしくと言っていたぞ」
 「なぁに、あんたたち三人が来てくれただけで俺は嬉しいんだ。さあ、話したいことは山ほどある、さっそく席についてくれ」
 史進は三人を宴席に案内し、再三辞退するのも聞き入れずに上座に座らせる。
 表裏の門に閂をかけさせ、使用人たちに酒と料理を運ばせ、自ら三頭領の杯に上酒をなみなみ注ぐと、史進はようやく腰を下ろして白い歯を見せた。
 「三頭領との再会を祝って」
 掲げられた四つの盃が、軽やかな音を立ててぶつかりあう。
 「かぁ、うめえ。さすが史家村の旦那が選ぶ酒は、格が違う」
 豪快に髭を酒で濡らしながら、陳達は吠えるように笑う。
 「達兄、今日は中秋だぜ。まったく、酒ばかりに目がいって、ほら、あんなにきれいなお月さまを見もしない」
 「月じゃ腹は膨れないだろ。そう言うなら、お前こそ、月を眺めて詩のひとつでも詠んだらどうだ」
 「そりゃあ俺じゃなくて朱武の兄貴の仕事だろう」
 相も変わらぬ二人の掛け合いを聞きながら、史進は朱武の盃に酒を注ぎ足した。
 「前に会ってから随分と時が経った気がする。たまに通りすがる江湖の旅人から、あんたたちの名を何度も聞いたぜ。衙門の奴らも、そうそう手出しできないわけだ」
 「史大郎よ、今や草莽の好漢は国中にいる。好きで落草した者もいるが、役人にいじめられて行き場をなくした者も多い」
 盃を傾ける朱武の瞳に、憂いの色が走る。
 「華陰の役人どもなどまだ可愛いほうだ。都の役人どもや朝廷の奴らの腐敗ぶりには目も当てられん。俺たちも、少華山で終わる気はない。元を断たねば、この国の民に平穏など訪れんよ」
 「朱武、あんたはただの山賊の親分でいるにはもったいない男だな」
 脳裏に、未だ尊敬してやまぬ男の姿が浮かぶ。
 「一体いつから、世間はこんなにおかしくなっちまったんだ? かつてこの家に、禁軍でも名高い王進教頭がやってきたことがある。俺は王教頭に武術を教わったんだ」
 「なんだって!? 王進と言やあ、江湖の連中も一目置く好漢だ。どうりで俺の点鋼槍でも歯がたたねえわけだ」
 「それで、王進は今どこに?」
 少華山の山賊たちもその名に目を輝かせる男はすでに、この村を去り延安で新たな道を歩んでいる。師を都から追いやった男のことを思えば、史進はただ歯がゆさに苛まれるのだった。
 「何が高太尉だ。成り上がりの道楽男のくせに」
 「今や江湖に高俅の悪名を知らぬ好漢はいないだろう。王進のような男をも貶めるとは……」
 憤りもあらわに黙り込む三頭領の姿に、史進は慌てて手を叩く。
 「すまん、暗い話になっちまったな。せっかくの中秋の宴なんだ、愉快にやろう」
 「へへ、それもそうだ」
 「だから、兄貴は酒が飲みたいだけだろう?」
 仕切り直しとばかりに使用人を呼び、羊肉を取り分けさせようと史進が腰をあげた刹那。
 「――屋敷を囲め!」
 突然、屋敷の外から波のような怒号が押し寄せる。何事かと、月明かりしか浮かんでいなかった宵闇に視線を巡らせれば、一体いつの間に灯ったのか、数え切れないほどの松明の火が、ぐるりを取り囲んでいる。
 「史進……?」
 「大丈夫、俺が様子を見てくるから、あんたたちは飲んでてくれないか」
 白い顔をさらに青白くした楊春が立ち上がろうとするのを制し、史進は使用人を呼び寄せ囁いた。
 「絶対に門を開けるなよ」
 震えながら頷く使用人の背を叩き、急ぎ足で屋敷の裏手へ回る。梯子を引っ張り出し、外から見えぬよう頭を低くしながら塀の上によじ登り、
 「……くそっ、なんで……!」
 噛みしめた奥歯の間から、悲鳴のような悪態が漏れる。
 塀の外には、馬上で偉そうにふんぞりかえる華陰県の県尉がいた。だが、それだけではない。彼の隣には下卑た笑みを浮かべる兎捕りの李吉、その後ろには二人の都頭をはじめ、ざっと三百人ほどの兵士が顔を揃えているのだ。月明かりすらかき消すほどの松明の火が、彼らの掲げる刀や五股叉を煌々と照らす様に、史進の顔から血の気が引いていく。ぬかりはなかったはずなのに、なぜ李吉の野郎なんかが、今宵のことを知っていた?
 「賊を逃がすな!」
 都頭たちの勝ち誇ったような叫び声が、史進の肌に刻まれた龍の髭を、静かに震わせた。

<第二回 了>

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神機軍師朱武

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【姓名】 朱武 (しゅぶ)

【二つ名】 神機軍師 (しんきぐんし)

【宿星】 地魁星

【生年】 1083年(第二回初登場時30歳)

【出身地】 定遠県(安徽省滁州市定遠県)

【身長/体重】 176cm / 68Kg

 定遠県出身の、少華山第一の頭領。両刀の使い手であるが、腕っぷしよりは頭脳に自信のある策略家。かつては徐州で知府をつとめていたほどの才覚を持った、冷静沈着で思慮深い文人肌の好漢。兵法にも通じ、特に様々な陣形への造詣が深い。
 知府だったころはその清廉潔白さで民から慕われていたが、悪徳官吏にその人気を妬まれ、讒言により地位を追われた。
行き場をなくし落草を決めた朱武は、かつて姉を冤罪から救ったことが縁で義兄弟となった陳達とその友人で同じく義兄弟の楊春ととともに、華陰県の少華山へ腰をおちつけ義賊の山寨をつくる。自身は一の頭領となった。
 華陰県の衙門に目をつけられ、三千貫の賞金をかけられたことを知った陳達が、史進との戦いに敗れて捕らわれたことを聞き……
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