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鳳仙花 三 (時遷、史進)


 大きな街の例に漏れず、高唐城下にも、闇と光は同居していた。
 煌びやかに着飾った金持ちが往来を賑やかに行き交う一方で、一歩路地裏に入れば、その日の食い扶持にも困窮する痩せほそった人間がごろごろと転がっていた。
 『だいじんさま』
 施しを求める声すら、かすれていた。
 汚れきった髪を振り乱し、枯れ枝のように薄汚れた腕をだぶついた襤褸布から突き出してぎょろりと目を光らせる人間以下の存在に、優しい笑顔で振り向いてくれる者などいなかった。
 与えられたのは軽蔑と罵倒。痰を吐きかけられ、糞尿を浴びせられることすらあった。
 死を想う気力すら奪われて、皆、ただ空腹を満たすことだけを考えていた。
 『腹が減っているんだろう?』
 気まぐれに与えられる自己満足の善意にすら、すがるしかなかった。
 丸太のような腕。きつい香の匂い。豪奢な着物。大きな身体――
 『おいで』
 たった一人の家族を、父を、喜ばせたかった。過ぎた幸せなど望んでいなくて、ただ父子ふたり、毎日慎ましく、穏やかに生きていきたかった。汗を流しながら種をまき、無事の収穫を喜び、食うことの幸運を感謝する日々だけが望みだった。
 (畜生……!)
 泣き叫ぶことはなくなった。唇を噛締めるか、唇を歪めて笑うか、どちらかだった。苦しいのも、痛いのもいやだ。のうのうと財を浪費しながら生きている人間には、いつか目にものを見せてやる。この、小さい体で、この、小さい体は、なんで、俺たちだけ、痛い、父さん、俺が父さんを、いやだ、師匠、見ていてください、いつか、俺は、放して、ごはん、くれるって、いったのに――
 「……っ!」
 澱みきった泥水から一気にひきあげられたようなこの感覚を、最後に味わったのは七、八年前だったろうか。
 汗のひとつすら出ないくせに、頭の中はひっきりなしに鐘を打ち鳴らされたようにかっかと火照り、背筋は真冬の雪でも塗られたかのごとくこごえている。
 草食動物のようにがばりと身を起こせば、輪郭のはっきりしない景色がゆっくりとからだのまわりをめぐり、やがて静止する。
 (大丈夫だ……)
 心配ない。ここは梁山泊で、自分は江湖に鼓上蚤の名を馳せる好漢だ。もう、何かに脅かされることはない。
 無意識に髪を掻き回し、寝台からぽとりと飛びおりる。すっかり身に染みついた音を立てぬ歩き方で部屋を横切り、石秀に文句をいわれながらも勝手に置かせていただいている大きな風呂敷の前に立つ。
 当然、梁山泊の中には時遷の部屋があるのだが、暇つぶしや酒の無心や「避難」のために石秀の部屋に押しかけることも多く、いつしか仕事道具の半分はここに持ち込むようになった。
 窓の外はすっかり夕暮れ時で、半日眠り続けていたことを知る。ふと鼻をひくつかせれば、聚義庁の方角から食欲をそそる香がふわふわとただよってくるのだが、あいにく今日ばかりは、夕宴で騒ぎながら飲み食いする気になれない――あの、馬鹿野郎のせいで。
 「……へっ」
 ひとつ息をつき、兄貴分の寸法にあわせてつくろわれた着物を脱ぎ捨てる。時遷から見れば十分大柄な石秀も、梁山泊の好漢たちの中ではそこまで体格の良いほうではないのだから、智深や鉄牛の着物ともなれば、頭から足まですっぽり覆われてしまうかもしれない――いま、取り得る姿の中でもっとも無防備な姿でいることをなるべく意識しないよう、梁山泊の重量級たちの間抜けなひげ面を思い描きながら風呂敷をあけ、転がり出てきた小さなつぼの蓋をはがし、琥珀色の特別な軟膏を掬い取る。
 『おまえ、実は色白だったんだな?』
 その声に、決して嘲る響きはなかった。そもそも、九紋龍などという大層なあだ名をもった馬鹿な色男には、仲間が気に病んでいる弱点をあげつらってわざわざ笑い者にするような卑劣なところなどひとつもないことはわかっていた。さらに言ってしまえば、たとえ史進でなくとも、梁山泊の仲間たちにちびだの色白だの言われたとて、その根底に悪気の欠片もないことなど想像がつくだ。だから、これは単に時遷の、個人的な問題だった。
 「……よし、いいな」
 どこだかのまちの、悪名高い役人の家からかっぱらってきた鏡をのぞき込む。
 いつもどおり、三筋の細い髭を生やし、浅黒い顔に人を食ったような笑みを浮かべる"鼓上蚤"の姿が映り込んでいるのを確かめると、いつもどおりの砂色の着物をまとった時遷は、すばやく仕事道具を片づけ、石秀の部屋の窓から煙のように姿を消した。


 酒好きな好漢たちの気持ちよさそうな話声がにぎやかにこだまする聚義庁の広間では、今日も今日とて山のような料理が食卓に並び、酒甕を抱えた兵士たちが忙しそうに、頭領たちの間をとびまわっては盃を満たしている。
 その愉快な景色の中に、常ならばやかましく好漢たちにちょっかいをかけては甲高い笑い声をあげる小柄な男の姿がないことにとっくに気が付いていた史進は、常の元気はどこへやら、窓辺に席を陣取り、一人鬱鬱とした顔で盃を傾けていた。
 灯りに照らされた端正な横顔は、世の女ならば溜息をついて見つめてしまうほどではあるのだが、いかんせん、ちびりちびりと酒をのむ合間に大きく溜息をつき、世にも情けなく眉尻をさげる表情は、その眉間にまっかな靴痕がついていることもあいまって、一言でいえば間抜けであった。
 「まったく……今日はいったい、何をしでかした?」
 突然高いところから降って来た穏やかな声に目をあげれば、呆れたような、それでいて心配するような微笑を浮かべた林冲が、盃を片手に史進を覗き込んでいる。
 見るものの心を捕らえる月夜のような彼の瞳の前に、嘘やごまかしは通用しない――というよりも、史進がだれかに自分の感情をごまかせたことなどないのだが。
 「随分な勲章をつけてきたな」
 長い指が、史進の額をそっとなでてゆく。遠くの方で、武松が思い切り咳き込む声が聞こえた。
 「兄貴、俺は、どうしてこう、考えなしなんだろうな」
 「何を今さらなことを」
 「俺だって好漢だ、仲間の欠点を嘲笑うようなことはしないさ。でも、あいつには、そんな風に聞こえたのかもしれない。俺はただ……でも、もっと、言い方があったはずなんだ」
 いくら考えなしの史進でも、そしていくら相手が林冲であろうと、今日見た時遷の姿を言いふらすほど落ちぶれてはいない。それに、あざけったつもりも、悪口をいったつもりでもなかった。
 ただ、何物にも姿を変えていない、本当の時遷の姿がとても、すがすがしく見えたのだ。
 水面に顔をだしたときの気持ちよさそうな笑顔も、無防備でどこかあどけない仕草も、塀を飛び越え屋根を走り物陰に潜み目を耳をそばだてるために生まれたような小柄な体も、そして闘うことを生業としていないもの本来の肌の色も。
 だからつい、心が高ぶったのだ。時遷のそんな姿を見ることができたのが、嬉しかったのだと思う。もちろん、偶然の出来事ではあったのだが――
 「いや、そもそも、覗いていたのが悪かったのかな」
 「……史進、お前まさか」
 「ちょ、まって、兄貴、考えてるようなことじゃないってば!」
 見るからに説教状態になっている林冲の視線から逃げるように立ち上がり、もう一度堂内を見まわす。やはり、時遷の姿はない。
 「誰に何をしたか知らんが、仲間なら、お前に悪気のないことなどわかっている。だが誤解をあたえたと思うなら、まずは謝罪をすべきだろう」
 「……そう、だな……そうだよな、まずは、謝らなきゃ」
 「ああ、さっさと悩みを解決することだ。いつもうるさい男がふさぎこんでいては、皆が心配する」
 頭一つ高い所にある精悍な顔が、一瞬、やわらかな色を帯びる。それはまだ彼が史進と出会ったばかりの頃に浮かべていたような、優しく、いたわるようで、そしてほんの少しのからかいを含んだ笑顔だった。
 「兄貴、ありがとう。俺、時遷のところにいってくるよ!」
 「……」
 史進が常々母親のようだと思っている林冲の笑顔が、一瞬にして頭痛をこらえるような顔に戻ったことを、意気揚々と駆けだした史進は知る由もなかった。


二へ || 四へ
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鳳仙花 四(終) (時遷、史進)

 梁山泊の中で、いや、おそらく国中で、一番屋根の上を心地よいと感じている人間は自分なのではないかと時遷は思った。
 はるか湖沼をのぞむ、泊内でもいっとう眺めのいい特等席――断金亭の屋根の上に堂々と寝そべり、ときおり厨房からくすねてきた銘酒を口に運びながら、水面にたゆたう月影を見つめる。己はここで詩のひとつでも詠みあげるような風流をたしなむ人間ではないが、それでもここから見る景色はいつだって、うまい酒をさらにうまくしてくれる。
 「うめえ」
 たおやかな夜風が中途半端に伸ばした髪を絡め捕り、そっと頬を撫でてゆく。銀色に輝く水面の月が、くすくすと笑うかのように小さく揺れて、そして、
 「……遷……時遷! どこだ、時遷!」
 「……ったく」
 この名月夜の雰囲気を木端微塵にぶちこわすような情けない大声が、微風にとってかわって時遷の耳をうった。
 「はぁ、さすが、逃げ足の速いやつだ!」
 百歩離れている者にも聞こえるような彼の独り言に、肩をすくめる。時遷は特に史進から逃げ出した覚えはないし、彼に追いかけ回された覚えもない。
 屋根飾りの陰から地上をちらりと伺えば、天下をうならせる豪傑・九紋龍ともあろう男の顔に、途方に暮れた子供のような表情が浮かんでいる。蓬髪をじとりと頬に貼りつかせているところを見れば、もう長いこと暮らしている梁山泊の中で得意の方向音痴を発揮し、あちらこちらと時遷を探しまわったに違いなかった。
 「じせーん……」
 肩を落とす、という言葉の手本のように見事に肩を落とした美丈夫は、断金亭から少し離れた草っぱらにどさりと寝転がり、天を仰ぐ。
 「出てきてくれよ、時遷……俺は、お前に謝らなきゃいけないんだ……」
 まったく独り言になっていない独り言に、ふと、時遷は首をかしげる。どうせ夜目もきかない相手と、さらに屋根から身を乗り出せば、しょんぼりと眉尻をさげてなお端正な顔の中で、優美な曲線を描く額になんともまぬけな赤い痕が残っている――間違いなく、時遷がぶん投げた鉄板入りの靴の痕だ。
 (けっ、これだから男前は嫌なんだ)
 たとえ男相手でも、目鼻立ちの整った顔に傷をつけたとなれば、若干具合が悪い。昼間のことを思い出し、罪悪感にかられたのは時遷のほうだった。あまりにも突然のことで柄にもなく動揺したとは言え、いくらなんでも小娘みたいに恥らったうえに靴をぶつける必要はなかったのだ。
 あのとき彼は、自分を馬鹿にしていたわけでも、ましてや趣味悪く覗きをしていたわけでもない。どうせ陽気に眠気を誘われて、彼のお目付け役でもある林教頭から逃れるために偶然あの茂みに身を隠していたに違いない。そこに偶然、任務を終えて油断していた自分が鉢合わせ、偶然、たった二人にしか見せたことのない己の本来の姿を見られ、偶然、悪気のない彼の能天気な言葉に、忘れかけていた感情を揺り起こされただけなのだ。
 そう、すべて、間が悪かっただけ。
 「月、綺麗だな……」
 己を探し疲れたか、酔いもまわっているのか、次第に史進の大きな独り言もぼんやりとした口調になってゆく。こんなところで眠って風邪にあたるような繊細なつくりではないだろうが、ささやかな罪滅ぼしも兼ねて起こしてやろうか。
 小ぶりな酒甕から残りの酒を一気に呷り、ぞんざいに口元を拭った時遷は、やおらに断金亭の屋根の上で仁王立ちになった。
 「おい、九紋龍! この鼓上蚤をお探しかい?」
 「じ、時遷?!」
 はだけられるだけ着物をはだけさせながら飛び起き、口をあんぐりあけてこちらを見上げる史進の呆けた様がおかしくて、ひひ、と笑う。
 「何を謝るのか知らないが、俺と話がしたいなら、まずは俺を捕まえてみるんだな!」
 にたりと笑い、思い切り踏み込んだ一歩で近場の柳の枝にひらりと飛び移る。細い枝だが、己の体重ならば十分支えてもらえる。
 「ま、待て時遷! 待ってくれ、いや、下りてこい! 危ないだろ!」
 「危ない? ヘッ、誰に向かって言ってるんだ。それより、俺に謝るんじゃなかったのか?」
 「あ、そうだ、そうだった時遷、今日の昼間は俺……いや、あ、待てって!」
 「待てっていわれて待つかよ、ばぁか!」
 夜風をきり、月の光から隠れながら、時遷は木々の間を飛んだ。顔を体を梢の葉がくすぐり、鼻先に草いきれが流れてゆく。
 「時遷、おい、ふざけるなよ、俺は真剣に……!」
 眼下ではむきになって時遷を追走する史進がひたすらわめいているが、その声も木立ちの合間に次々と吸い込まれる。
 「じせ……っうわ!」
 「ひひ、気をつけろ!」
 時遷が払い落した小枝に襲撃されても、木の根に蹴躓いても、史進はいっこうにあきらめない。それどころか、徐々に足音も、息遣いも、どこか楽しげにはずんでくる。だんだん、何故こんな追いかけっこのようなことをしているのか、わからなくなってくる。抑えようもなく、唇がつりあがる。笑い声が止まらない。ああ、なんて面白おかしい夜だ。このまま、どこまで――
 「……っと」
 突然、月あかりとは違う輝きが目に入り、時遷はあわてて細い木の枝の上で動きを止めた。あの、右へ左へとゆっくり動く橙色の灯りは、金沙灘の見張りたちだ。
 (ま、ここまでか)
 さすがの己でも、夜も遅くに梁山泊の頭領たちが間抜けな追いかけっこをしている姿を兵士たちに見せようとは思わない。それに、どんなに単純な馬鹿とはいえ、史進もいい加減、時遷が気を悪くしていないことに気付いただろう。
 「おい史進、もういいだろ、戻るぞ」
 「時遷!!」
 「……は?」
 振り向きざまに時遷の目に飛び込んできたのは、時遷の想像をはるかに超えた馬鹿の、なんとも得意げな笑顔。
 「ようやく捕まえたぞ!」
 「ば、馬鹿野郎! 放せっ、ていうか、降り」
 めき、という音を聞いたと思った次の刹那には、時遷の体は、何か重たいものと地面の間にべちょりと挟まっていた。


 「あー! くそ! いってえ! どけ、この、馬鹿!」
 なにやら地面が人の言葉でうなっている、と思ったのは気のせいで、呆然とする史進の鼻をつまんで目をつりあげているのは、史進と地面の間でぺちゃんこにされた探し人――誰あろう、鼓上蚤時遷であった。
 「重い、んだよ、お前! さっさと、立て、って!」
 「……ようやく、捕まえた……」
 「あぁ?」
 自分の重さを考えもせずにほっそとりした枝に飛び乗ろうとしたあげく枝が折れて時遷もろとも地面に落ちた、という現状を分析をできるほど、史進の頭は回転していなかった。今の史進の頭の中にはただ、当初の目的であった「時遷への謝罪」をようやく達成できるという思いしかなく、しかめられるだけしかめられた時遷の顔をまじまじと見つめる。
 「時遷、本当にすまなかった」
 「わかったよ、わかった、別に気にしてねえから、そこを、どけって」
 「いつもの時遷だな……」
 「お、い」
 乱れた時遷の髪をかきわけて暴いた彼の顔は、常と同じ、人をくったような小生意気な表情を浮かべた浅黒い顔だ。指先で頬をこすっても、あの時見た白い地肌は現れない。
 「うあ、おい、や、めろ、ひひっ、ししん、おい」
 着物に隠された肩も腕も腰も、掌でなぞってみれば決して見た目ほど華奢なつくりではないのだが、武芸者とは体の使い方が違うのだろう、史進より一回りも二回りも小柄に思える。
 「いだ、おい、いでえ、ははっ、やめろって!」
 細い三筋のひげも、ゆるやかに肩口にかかる髪も、 ひっぱってもびくともしないし、いったいどうやって、この、自分の下敷きになって、目尻に涙の粒すら浮かべてけらけらと笑ったり眉を寄せたりしている男は……
 「……って! すまん! すまない! もう、本当に!」
 その小柄な男を小柄とは真反対の自分が長らく押しつぶしていたことにようやく思い至った史進は、蛙のごとき勢いでとびあがり、林冲が見れば泣いて喜ぶであろうほど機敏に優雅に美しく、時遷にむかって拝礼した。
 「っは、はぁ、はー……ようやく、気づいた、かよ……」
 当の拝礼を受けた方はと言えば、襟元をつかんでばたばたと顔を仰ぎながら、まだ笑いの余韻がさめやらないらしい。
 「ったく、人の話も聞かずに謝り倒したかと思えが、くすぐってきやがるし、それにお前、髪も、ひっぱりやがったな?」
 「すまん……」
 「わかった、わかったよ、もうやめてくれ、お前にそうされちゃ、なんだかむずがゆくなる」
 「あ、ああ……」
 あの日のことを含め、すべてを許されたのだと悟っておそるおそる顔をあげれば、時遷は、見たことのないような静かな笑顔を浮かべて座している。
 (こんな顔も、するんだな)
 史進は、物事を深く考えるのが得意ではない。それは学問においてだけでなく、人付き合いにおいてもそうで、たとえば晁蓋や智深をはじめとした多くの好漢たちはそのひととなりが明快で、何を考え何を思っているか史進にもすぐわかるので親しみやすい。一方、敬愛する林教頭の心などはとても複雑で深遠なのだが、彼の深い眼差しの向こうに沈む悲しみや怒りや悩み、あるいは優しさや喜びは存外に感じ取りやすく、己のその感覚を史進は信用し、確信していた。だが――
 「俺、時遷のことを、全然知らないんだ」
 塀を飛び越え屋根を走り、間隙を縫って夜の空を飛ぶ小柄な泥棒の心を推し量ることはとても、とても難しい。彼は変化を得意とするようだが、普段ですら、時遷という存在は、史進の考えの及ばないところで絶えず変化し、ちかちかと激しく瞬き続けている。田舎の庄屋の息子としてのんびりとした少年時代をおくり、その後は規律にならう武人の世界で生きてきた史進にとって、その摩訶不思議な瞬きは、難しくもあり、好奇心を刺激されるものでもあった。
 「だから?」
 「仲間だろ? 仲間だから、知りたいと思うのは当たり前だ」
 「なんだよ、薄情者だな。仲間なのに、今まで俺のことを何も知らなかったのか? 俺はお前のことを色々知ってるぜ」
 「本当か?!」
 「史家村の庄屋の一人息子で母親は幼い頃に病死。たまたま村を通りがかった禁軍教頭・王進に稽古をつけられ腕を見込まれたお前は、そのつてで林教頭の弟子として禁軍入り、武芸の腕で活躍するが、酒癖が悪くて問題を起こすこともしばしば……その後王進が亡くなったことを知り、禁軍を辞して師匠の墓とその母親を捜しに延安府に向かうがとんだ馬鹿野郎のお前はまったく見当違いの経略府まで行っちまって、そこで魯大師と義兄弟になった。その後は少華山の三頭領と親しくなって義兄弟の契りを交わし、山賊の頭領にまでのぼりつめ……どうだ? あってるだろ?」
 滔々と、よどみなく史進の人生を語る時遷の、薄い唇の片端が、にやりとつりあがるのを見つめる。
 「……なんで知ってるんだ……?」
 「おいおい、本当にお前は馬鹿だな。それくらい、俺じゃなくても知ってるぜ。九紋龍史進ほどの好漢ともなれば、江湖の誰もが半生くらい知ってるさ。お前だって、武松や李逵の半生くらい知ってるだろ、それと同じだ」
 「そういうもんか……?」
 「そういうもんだ」
 「なんだか、不公平じゃないか。お前ばっかり、俺のことを知ってるなんて」
 「いいだろ、俺のことをお前が知らなくたって、今は晁蓋兄貴の下で一緒にやってるし、困ることなんてない」
 音もたてず、時遷がひらりと立ち上がる。
 史進とて、江湖に名をはせる好漢たちの話はひとしきり耳にしているし、時遷の名も何度も耳にしたことがあった。だが、出会う前も、出会ってからも、なぜか耳にするのは「鼓上蚤時遷はこの世に盗めぬ物のない、天賦の才をもった大泥棒」という言葉だけで、たとえば彼がどこで生まれ、どこでどのように育ち、今までどんな活躍をしたのかといった話は何一つ耳にしたことがないのだ。
 「あ……でも」
 立ち去ろうとする時遷の脚を、思わず掴む。不意をつかれてまろびそうになった時遷が、非難の目で見降ろしてくるのもかまわず、史進は彼の細い脚を掴む手に力を込めた。
 「今日、ひとつお前のことを知れたな。大宋国一の大泥棒時遷は、変装の名人で……ほんとは、俺より、年下だ」
 時遷の鋭い瞳が、一瞬、大きく見開かれ、そして何かを考えるようにじっと史進を見つめた。
 「……同じだ」
 「え?」
 「数え間違いじゃなきゃ、お前と、同じ歳だ。残念だったな」
 「あ……あれ? 時遷?」
 人をくったようでもなく、得意げな泥棒のそれでもなく、まるでこの世の何も恐れていない無垢な子供のようにくしゃりと笑った顔が、一瞬で夜の闇に消える。
 「時遷……」
 あたりを見回しても、木々のざわめきと湖のさざ波、遠くで談笑する兵士たちの声のほかに、さっきまで隣にあった声も息遣いも聞こえない。
 (……とりあえず、誤解はとけたよな)
 なんだか少しだけ釈然としない気分ではあるが、今日の大きな目的は果たせたのだから、酒を飲み直そう。さっきよりはうまく感じるはずだ。
 「……あ、れ」
 腰をあげようとした史進は、それが難しい原因に気が付き、しばらく首をかしげた後、ふと己の手を見つめた。
 何の気なしに、触れた、体温――
 「………そうか!」
 梁山泊でも一、二を争う男前をぶらさげた好漢は、再び地面に大の字に横たわり、最高に能天気な笑顔をはじけさせた。
 「時遷! 俺のことでお前の知らなかったことが、ひとつあるみたいだぞ!」
 聞く者もいない朗らかな大声は、木々の狭間に再び吸い込まれていった。


鳳仙花 終
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