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[茨沼小噺]朔夜時


 友情、などという言葉は、本当は作り話の中にしか存在していないのかもしれない。
 頭の上から遠ざかっていくべたべたと耳障りな足音に鼓膜を穢されながら、吾妻は想った。
 淡い風に身をそよがせる梢の合間に、退紅色の空を見る。切れた口の端から滲んだ血潮は、あんなに綺麗な色じゃない。
 「空の向こうが見たいって……言ったのに」
 つい先刻まで友達だった少年たちは、雲の向こうが見たいと言った。あの向こうにはいったい、何があるのだろうと頬を火照らせていた。だから吾妻は、この廃屋に彼らを招いた。父に連れられ何度か足を運んだ、秘密の廃屋。内緒話のように語られた、空の秘密。すべてを話した。喜ぶ顔が見たかった。
 「あ」
 ふと、風の中に、慣れ親しんだ香を嗅いだ、その途端。流れるはずのなかった涙が、どう、と溢れた。
 静かで、軽やかで、美しい拍子を刻む、楽の音のような歩みは、それに驚いたかのように、耳元でふつりと止まった。
 「何故、抗わない?」
 退紅色を背負って現れた、逆さ夕月のかんばせの中で、細められた瞳だけはもう既に、夜空を映してちかちかと瞬いた。ああ、眉根を寄せた額のその形は、なんと玲瓏としているのだろう。
 「痛むか」
 長い指が、唇の端に宿った仄かな熱を掬う。丹念に切りそろえられた爪先が、かさついた唇に浮かぶ薄皮をはらりと落としていった。
 「……教えてあげたんだ」
 今は廃墟と化し、誰に知られることなく朽ち果ててゆくばかりのこの場所に、かつて空の向こうを目指した人たちが集っていたことを。
 あの悲劇の日以来、彼らの叡智は喪われてしまったことを。
 瓦礫の中、微かに形をとどめる"遠眼鏡"は、その昔、果てしない星の彼方を映していたことを。
 「ぜんぜん、喜んでくれなかった」
 「……そうなのか」
 唐突に、兄の、歳に似合わぬ長身が、ばさりと隣に寝転んだ。
 「父上は一度も、俺をここに連れてきたことはない。いつも、そういう時は、お前ばっかり連れて行くんだ」
 天に向かって伸ばされた兄の手は、修練を積む侍にしては仄白く、退紅から濃鼠へと沈んでゆく空を貫き、"うちゅう"まで掴んでしまいそうだった。
 「初めてここに来たが、空が広く見える。昔ここで夢を見ていた人たちと、俺たちと、見える空は違うのかな」
 「え、一緒に決まってるじゃない。だって……」
 空の秘密。雲の向こうにあるもの。近くて遠く、遠くて近い、星月の群れ。彼らが飽くことなく目指し、想い焦がれ続けたその先は。
 「吾妻」
 音もなく、すらりと立ちあがった兄の手が、大地に仰向く己に伸ばされる。何時の間にか鉄紺に沈んだ空に、月が満ちる。
 「帰るぞ」
 只一度だけ触れることのできたその場所へ、どうしてもたどり着きたかった者たちはきっと、現れては消え、満ちては欠ける、その輝きの刹那さに魅入られたに違いない。
 いつも几帳面に着込んでいるはずの着物の、丁寧に結い上げているはずの髪の、その乱れに。
 凛としているはずの双眸の、きりりと結ばれているはずの唇の、そのわななきに。
 この身を包む想いの眩さを知った己の如く、魅入られたに違いないと、吾妻は想った。


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鳳仙花 二 (時遷と石秀)


 「げ」
 それは、男伊達の多い梁山泊の好漢の中でも十分色男の部類に入る青年の顔を見て、開口一番発するには少々、品のない声だったかもしれない。
 「げ、ってなんだよ。ここは俺の部屋だぞ……って、ひどい格好だな」
 もっともな御言葉をのたまったこの部屋の主・石秀は、濡れ鼠ならぬ「濡れ蚤」姿の時遷を見ると、それこそ「げ」とでも言いそうなしかめ面で小首をかしげた。
 「ああ、もう、そんな格好で歩き回るなよ、床がぐちゃぐちゃになる」
 「へっ、小娘の部屋でもあるまいし、何をいまさら」 
 寝台からのそりとおきあがった石秀の、すらりと長い手が伸びてくるのをかわす間もなく、ぐしょりとぬれた着物はあっというまにはぎとられ、かわりに大判の手拭いと挑発的な大きさの着物がぶしつけな勢いで投げつけられる。
 「兄貴の背丈のでかさといったら、顔がまったく見えないくらいだね」
 「それはお前の目が細いからさ。そっちこそ、ちいさすぎて顔がよく見えないけど?」
 「けっ、これでも見えないってかァ?」
 「いだっ、いでで、やったな、こら」
 「ひひひ」
 頭突きを食らった額を右手でさすりながら、石秀が左手で時遷の頬をつまむ。
 「まさか、酔っ払って河におちたんじゃないだろうな」
 「そんなわけがあるか」
 「顔が赤い」
 そう言って鼻先で笑うくせに、犬っころのようなつるつるした目を優秀な密偵さながら光らせて、じいとこちらを見つめてくるのだ。
 「そうか? 化粧にかぶれたかもな」
 口がへの字になったのは、たっぷりとすそがあまる着物の丈のせいでもあった。猫の毛の手入れでもするかのように無遠慮な手つきで時遷のじとりと濡れた髪を拭き始めた兄貴分の、そのしなやかな腕とくらべ貧相で生白い自分の腕が、ゆるりとした袖から突き出している。それだけで、胸糞の悪いことを思い出してしまいそうだ。
 「昼飯は? もう食べたのか?」
 「まだ」
 敏い石秀のことだから、時遷の姿に、態度に、何かを読み取っていることだろう。だが、深入りしてくるような野暮な男ではない。いまさら遥か昔の感傷に浸って嘆くほど感受性豊かではないが、わざわざ掘り起こさなくていいものを掘り起こす必要がないこの場所は、居心地がよかった。
 「何か食べにいくか?」
 「昨晩は夜じゅうぶっとおしで仕事したんだ、とりあえず寝かせてほしいね」
 「おい、ここで寝るなよ。俺だって休憩中だぞ」
 「ふん、正規軍の頭領さまはどいつもこいつも、こんなにお日様の高いうちからおねんねできるとはいいご身分だぜ」
 「……あ、こら、どけろって」
 阻止する手をかいくぐり、先ほどまで彼が占拠していた寝台に背中から倒れこむ。泥棒稼業の人生で、そして梁山泊での役割柄も、時遷が寝台のうえでのびのび眠れることは少ない。石秀の部屋は、植木のおかげでほどよく加減された日差しが寝台にさしこむのが心地よいし、何よりここは、誰にもまどろみを邪魔されない。
 「あとで、林冲兄貴に、いいつけて……やる……」
 あー、だか、えーだか、石秀の不満げな声を聞いたと思った瞬間には、すでに時遷の意識は夢の世界へ旅立っていた。

 きっと、一生、誰にも見せるつもりなんてなかったのだろう。それはもちろん、石秀にも。
 大の字になって寝台に飛び込んだくせに、すぐにちいさく丸まってしまった時遷の、見るものの睡魔まで誘う気持ちよさそうな寝顔には、いつもの不遜で軽薄な影は微塵もない。
 すっかり休み時間を邪魔されてしまった石秀は、体躯に合わぬ着物から気ままにつきだす白い足を掛布で覆ってやると、湯飲みを片手に静かに外へ出た。
 はじめてその姿を見たのは、本当に偶然だった。
 祝家荘の戦いが終わって梁山泊に帰還したとき、晁蓋は未だ、時遷を仲間にすることに心から納得していなかった。初めて梁山泊にのぼり、聚義庁の宴会にあらわれた時遷にむかって「このこそ泥め」と片眉をあげた晁蓋に、時遷は大胆にも、「俺はただのこそ泥じゃあありませんから、兄貴も用心してくださいよ」と笑って見せた。
 その夜、たまたま聚義庁の近くを通った石秀は、見たことのない小柄な少年とすれ違った。梁山泊にはそのころからすでに大勢の人間が住んでいたから、見慣れぬ顔があったとてなんら不思議はない。だが、衛兵ならともかく、武器のひとつももたない少年が、なぜ泊内でも最も重要な場所にこんな時間にあらわれたのか――首脳陣になにかあっては一大事と、石秀は少年のあとをつけたのだが、すれ違ったのはつい先刻なのに、まったく姿が見当たらない。
 そうして疑心にかられた石秀が聚義庁のまわりを五周くらいめぐったころ、ふと、空の上に気配を感じた。ぐるりとこうべをめぐらせれば、静かに晴れわたる夜空に墨で線をひくかのようにうごめく影がある。その影があらわれた場所が晁蓋の部屋の屋根だとわかった瞬間、石秀は音もなく駆け出していた。
 体重のない者のように軽やかに屋根から飛び降りたその影を、さらに暗い場所からめいっぱい伸ばした手でぐいとつかめば、幼い子供のようなかすかな悲鳴が耳を打った。それでもかまわず小さな体を木の幹に押し付けたところで、石秀はようやく、不可思議な既視感をおぼえて手をとめた。
 「……兄貴にこうやってつかまるのは、二度目だね」
 片方の口尻をくいとあげる不遜な笑い方。人をくったような言葉を紡ぐ高めの声。義理の姉の姦通を知ったあの日と同じように石秀に捕まえられた小柄な体。たとえ今日まで目にしてきた姿よりずっと若く見えようと、間違いなく目の前の男は、鼓上蚤時遷だった。
 「子供かと思った……」
 「おいおい、そりゃないぜ」
 あっけにとられて力の抜けた石秀の手中から、また時遷はするりと抜けだしてゆく。
 「せっかく命拾いして梁山泊に来られたってのに、親分に気に入られずに追い出されたらたまらないんでね。晁蓋兄貴をちょっとおどかして、話をつけてきただけだ」
 「おどかすって、お前、何を」
 「誤解するなよ? まずは、この鼓上蚤さまがどれだけ凄腕かってのを兄貴の身を持って知ってもらった。兄貴の部屋も、聚義庁のまわりも、厳重に警護されてるのにこんな見慣れない奴がのこのこ入ってくるのを見過ごすなんて、ありえないだろ? そこが俺の腕の見せ所だ」
 無邪気に笑うその顔は、まるで家族に己の手がらを自慢する子供そのもので、石秀もつい口元がゆるむ。
 「でも、俺には見つかったじゃないか」
 「馬鹿を言え、追いかけることも、捕まえることもできなかったくせに。それから、俺の得意技をいくつか披露した……まあ、これも、そのひとつさ。晁蓋兄貴にだけ見せるつもりだったのに、あんたに見られちまうとは、そこだけはぬかったな」
 これ、と言う言葉とともに、時遷が自分の顔を指差す。
 「……つまり、お前は今、変装してるってことか?」
 「いいや」
 軽く首を振る動きにあわせて、猫毛がふわりと揺れる。その仕草は、あどけなさすら感じるほどだった。 
 「ついさっきまであんたが俺だと思ってた姿も、変装の一つってことだ」
 「は……?」
 聞き間違いでなければ、そこで時遷は「どうでもいいこったけどな」と呟いたようだった。とても小さく、乾ききった、か細い声で。
 その日以来、晁蓋が時遷に含みのある態度をとることは二度となく、むしろ本人の言うところの「鼓上蚤さまの凄腕」を買われ、戴宗とともに偵察方の筆頭として重用されるようになった。 そして、晁蓋以外でただひとり、時遷の秘密を共有することとなった石秀にとって、このお調子者の元泥棒は、以前にもまして憎めない弟分のように思えるのだった。
 「……時遷?」
 ちらりと部屋の中をのぞけば、いびきすらかきはじめた「弟分」に起き上がる気配はまったくなく、知らず肩をすくめて笑ってしまう。三人兄弟の末っ子として育った身には、弟という存在は些か面倒で、くすぐったい。
 「寝かせておくか」
 一つ、大きく伸びをして、石秀は、昼下がりの麗らかな梁山泊を、のんびりと歩きだし、
 「……どいつもこいつも?」
 「おい!! 石秀兄貴!! 楊雄兄貴が呼んでるぞ!!! いったい何をしてんだ?!! 酒を飲んでるなら俺も混ぜてくれよな!!」
 「わかった、わかった鉄牛、聞こえてる、今行くから」
 小さくひっかかったはずの言葉は、ぎゃあぎゃあとさわぐ「梁山泊の弟分」の声に、かき消されていった。


一へ || 三へ

喪失(魯林←武)

※方臘戦後六和寺ネタ




 思い返せば、喪ったものを想って感傷にひたる暇などない日々だった。
 ただがむしゃらに前を向いて、光に導かれるまま進んでいた。喪ったものはたくさんあったけれど、得たものだってたくさんあって、それは今も心の中の一番暖かい場所でひっそりと眠りについている。
 「兄貴、入るよ」
 寝ているかもしれないな、と思い、なるべく音をたてないようにそっと扉をあける。
 「あに……」
 声をかけた相手は、寝台の上で半臥していた。
 晩秋の朝の澄み切った光の中で、彼はただ、凛と背筋を伸ばしていて、その姿に思わず見惚れた。
 窓の外を見つめる黒目がちの瞳に浮かぶのは、あの日々とは似ても似つかぬ光で、それが切ない。無防備に背に流れる長く艶めいた髪が、燕のような頬にかかっているその様が、ひどく儚く見える。
 (また、置いていかれる)
 それはきっとそう遠くない先のことだと、武松には確かに分かった。
 誰よりも強く雄々しく美しい姿で戦場を駆けた豹子頭――随分と細くなった体の危うさに、泣きたくなる。
 「……兄貴、起きていたんだな」
 「武二?」
 精一杯に普段通りの声を出したつもりなのに、林冲は形の良い眉を寄せて優しく瞳を細めた。
 「どうした、武二?」
 「朝飯を持ってきたよ、兄貴」
 彼の深い優しさに甘えてしまえば楽だったろう。二人きりのこの場所でなら、置いていかないでくれと泣き叫ぶことだってできた。それでも武松は、くしゃりと歪んでしまいそうな顔にいっぱいの笑顔を浮かべる。これ以上彼の心に負担をかけたくない。
 「毎日、すまんな」
 「何言ってるんだ、今の俺にはこれくらいしかできないからさ」
 「……ありがとう」
 薄い唇を淡い月のようにほころばせるその笑顔に、何度目を奪われただろう。
 「うまいぞ」
 林冲は、武松が自らつくった粥を、毎日嬉しそうに食べる。飯など作ったことのなかった武松が、遠い昔に武大が作っていたのを思い出しながらあれこれと作ったものを、林冲は一度もまずいとも言わず、毎日すべてきれいに平らげてくれてた。
 ただゆったりと流れる時間の中で、武松は今まで語ることのなかった――語れずにいた武大との思い出を、林冲に話して聞かせた。林冲はそれを嫌がることもせず、優しく頷きながら耳を傾けてくれた。
 「武二……うまいんだ、本当に」
 「ああ、いいよ兄貴、気にするな。また夕にでも食えばいい」
 ここ数週間、目に見えて林冲の食欲がなくなった。咳き込み、血を吐く回数も増えた。以前は体の楽なときを見計らって、軽く武松と手合わせをしたり、ふもとのまちに買い物に出たりもしていたけれど、最近では一日いっぱい床に臥せりきりの日も多くなった。
 だが、どんなに臥せりきりの日でも、彼が毎日必ず行く場所があった。
 「兄貴、今日は随分顔色が悪いぞ。つまらないだろうけど、一日横になってたほうがいい」
 「はは、心配性だな……少しくらいなら、大丈夫だから。朝のうちは、調子がいいんだ」
 「でも……」
 「ありがとう、うまかっ……」
 「兄貴!」
 林冲の左手と武松の右手の間で、粥の入った椀が踊った。
 「兄貴!?」
 「だいっ……じょうぶだ……すぐ、おわっ……」
 力強く蛇矛をふるっていた姿からは想像もできないほっそりした手が、見る見るうちに朱に染まる。
 (やめろ……)
 喘鳴を漏らしながら肩を震わせていた林冲が、ひとつ大きく息をつく。ひとときおさまった喀血に溜息をつき、袖口で乱暴に口元をぬぐい、そして彼は寝台から起き上がろうとする――一番愛する人に、会いに行くために。
 「もうやめてくれ、兄貴……やめてくれ……!」
 「はなっ……せ……!」
 どれだけ病に身を犯されていても、武松が片腕でたやすく止められるほど、林教頭は弱い男ではなかった。
 「武二……俺は……!」
 「林冲!!」
 「っ……」
 林教頭でもなく、豹子頭でもなく、兄貴でもなく、彼の名を呼んだ。かつて彼の愛した人がその名を呼ぶ声に込めた想いに、負けぬほどの想いをのせて。
 「……ごめん、兄貴」
 「いや……いいんだ……」
 乾いた血のこびりついた両手に、美しい横顔が沈む――その瞬間、もし左腕があったならと思わずにはいられなかった。
 もし両腕があったなら、誰よりも強く彼を抱きしめることができたのに。
 もし両腕があったなら、彼をここに、この世に、ひきとめることができたのに。
 (兄貴……どうしてあんたが、ここにいないんだ……!)
 今はここにいない、もう一人の義兄弟の笑顔を思い出し、唇をかみしめる。
 誰よりも強いくせに、誰よりも繊細な弱さを秘めている林冲に、武松はずっと焦がれていた。たとえこの想いが報われることなどないと知っていても、智深の隣でつかの間の幸せに微笑む林冲の姿すら、愛おしかった。
 それなのに、なぜ智深はこんなに残酷な事をした?
 誰よりも愛し、誰よりも己を愛してくれた人の心に決して消えることのない想いをともしておきながら、なぜ彼を置き去りにした?
 (兄貴、あんたの愛した人は、死に近づくたびに、幸せそうに笑うんだ)
 智深の墓前で涙を流し、せき込み、血を吐きながらも、林冲はなぜか笑っていた。
 まるで、もうすぐお前に会いに行けるのだと智深に話しかけているように。
 (また俺は、一人、遺されるのか)
 今にも消えそうな体を抱きしめ、生きろとささやくべき人は、自分ではない。そして、智深と林冲の間に育まれた情は、死に分かたれた故に永遠のものになり、武松の想いは永遠に凍りついてしまった。
 「……悪かったな、武二」
 「まったく、病人なのに兄貴は強いな」
 「はは……それよりお前、寝癖がひどいぞ。ちょっとそっちを向け、髪を結ってやる」
 濡らした布で血を拭いとられた綺麗な手が、武松の髪をそっと梳く。
 愛しい人に背を向けた武松の頬を、ただ一筋の雫がすべりおちた。



<了>

水滸綺伝第二回(九)

 【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(九)

 もう日が暮れてからかなりの時が経つというのに、未だ湿り気を帯びる風が、ぬるりと肌を凪ぐ。屋敷の中庭に座し、珍しく押し黙ったまま刀を磨く史進の額にも、とめどない汗が玉を成していた。
 ふと、史家村の若き主は、伏していた目を宙にさ迷わせる。
 どこか遠くから、微かなざわめきが――村人たちの営みとはかけ離れて不気味な音が、聞こえた気がしたのだ。
 「……気のせいか?」
 頬に張り付いた癖毛を指で払いのけ、一文字の眉をぐいとしかめ、そして、
 「わ、若旦那ぁ――!」
 まさに脱兎の如くと形容すべき速さで、使用人の一人が中庭に駆けこんでくる。目を見開き、上ずった声で史進を呼ぶ男の様子に只ならざる事態を察した史進は、ゆったりと腰かけていた床几から勢いよく立ちあがった。
 「どうした!」
 「わ、若旦那、ついに……ついにっ……きました、やつらが……少華山の賊どもが!」
 「……来たか」
 すう、と息を吸う。みちりと重量を伴って漂っていた風が、急に勢いを増す。正体の分からぬ微かなざわめきは、潮騒の如く徐々に形をなして近づいてくる。
 「拍子木を」
 史進の常ならざる静かな声にぎこちなく頷いた使用人が、軒先にぶらさがっていた拍子木を手に取り、思い切り打ち鳴らし始める。その音は山賊たちの鬨の声を背に、凛々と村中に響き渡る。家々から姿を現す男たちの手にしっかと握られた槍や刀が、松明の火を映してぎらりと光る。
 (王進師匠……)
 この日のためにと誂えた武具甲冑を運んでくる王四の目が、いつになく憂いを帯びている。
 「なんだよ王四、そう心配するな」
 「ですが……坊ちゃんに何かあれば、あの世で大旦那様に合わせる顔がございません」
 「坊ちゃん、だなんて、懐かしいな」
 気ままになびく史進の髪を一字巾の中に押し込む王四の骨ばった手を軽く叩き、たいしたことはないのだと言い聞かせるように白い歯を見せる。傷ひとつない緋の鎧に目の覚めるような青錦の上着を羽織り、萌義の長靴を履いた両足で大地を踏み締め、引き締まった腰には皮の帯を、厚い胸には鋼鉄の胸当をまとった威風堂々たる姿になったとて、王四の目に映っているのは、野山をかけまわり遊び暮らしていた手のかかる坊ちゃんなのだろう。
 「見ていろ、王四。王進師匠に授けられたこの力、山賊風情に遅れは取らんぞ」
 一張の弓と矢壷を背負い、大股で屋敷の門前に姿を現した史進の前に、目を爛々と輝かせた村の男たちが平伏する。
 「若旦那、俺たちは、いつでも出陣できます!」
 「やっちまいましょう、若旦那」
 「少華山なんて偉そうな名前をぶらさげたやつら、一網打尽にしてやりまさぁ」
 使用人に引かれて現れた赤毛の愛馬すら、けぶる息を吐き出し落ち着きなく首をめぐらせ、またとない夜に気を昂ぶらせているようだった。
 「皆……」
 ひらりと馬上に腰をすえ、九匹の龍を飼う若武者は、もう言葉はいらぬとばかり、己の得物を高々と掲げた。
 「行くぞ!」
 三尖両刃四竅八環刀――禍々しくも怜悧な威容をたたえる史進の得物は、背後に従えた血気逸る男たちを真直ぐに敵陣へと導いて行く。村の北には今や昼間と見まごうほどの灯が渦を巻き、付け焼き刃の田舎農民なぞ飲み込んでやらんとばかりに唸りをあげている。
 「あいつが首領か?」
 その渦のど真ん中、随分と大振りな白馬の上で胸をそらす男を、史進は真正面からにらみつけた。馬の巨躯にも見劣りしない堂々たる体躯の割に、こちらを見つめ返すどんぐり眼は山賊らしからぬ愛嬌を感じさせる。ひっつめ髪を柿色の頭巾に押し込んで、金を燻した生鉄の鎧の上に紅の上着を羽織り、腰には七尺の精緻な組糸帯、足には爪先細りのとがった靴をまとった様は、田舎の山賊にしては洒落がきいている。肉厚の右手が握り締める点鋼槍は、かおかたちの派手な持ち主とは反対に、射抜くような史進の眼差しにも怯まぬ硬質な沈黙をたたえていた。
 「来たな、山賊ども!」
 大音声をあげた途端、史進の体を支配したのは、緊張でも、村を守る責任感でも、ましてや恐怖でもなかった。
 「罪もない良民を殺し、そこらじゅうに火をつけ、人家とみれば盗みに入る罪人どもめ。まさかこの九紋龍史進の名を知らないわけでもないだろうに、飛んで火にいる夏の虫とは、まさにお前のことだな!」
 口元がほころぶのを抑えきれない。どうしようもなく、楽しい。
 「ハッ、九紋龍なんて大層な名前、どれほど厳つい男かと思ったが、こんな優男の坊ちゃまにお出迎えされるとは。この跳澗虎陳達様も舐められたもんだぜ」
 跳澗虎陳達と言えば、李吉の話では二番目の大王だったはず。こちらこそ、二番手を差し向けられるとは随分と舐められらたものだ。どんぐり眼を細め、歯をむき出して嗤い、四角い顎を覆う無精ひげをかきむしる姿は無気力そのものではないか。
 「安心しな、坊ちゃま。俺たちはあんたの村には用はない。ちょいとうちの城の食い扶持が足りなくなってきたんでね、華陰県のお偉いさんに、借りにいこうってところさ。ただ、華陰県に行くには、あんたの村を通らなきゃいけないから、道だけちょっと貸してくれよ。帰り道にはたんまりお礼を用意してやるからさ」
 「馬鹿を言え、俺はこの史家村の庄屋だぞ? ちょうど村の男たちと、お前ら山賊を捕まえてやろうと話していた所だっていうのに、そうとも知らずのこのこやってきたお前らを目の前にして、はいそうですかと通してなんかやるものか。そんなことをすれば、俺たちも山賊の仲間と思われる」
 「おいおい、四海のうちはみな兄弟、だろ? なあ、坊ちゃま、頼むよ、ちょっと通らせてくれるだけでいいんだから」
 「うるさいやつめ。たとえ俺が許しても、絶対にお前を許さないやつがいる。まずはそいつに話をつけたらどうだ?」
 「へえ、そんな命知らずはどこのどいつだい?」
 こらえきれず、史進は声を上げて笑った。高らかに、笑い飛ばした。
 「俺の刀だ! こいつが承知するか、聞いてみろ!」
 「っ……ふっざけるな!!」
 愛馬の燃え盛る横腹に蹴りを入れ、振り上げた腕に三尖刀を構え、気合一声、陳達の虎の如き幅広顔に踊りかかる。眉間を裂いたかと思われた刀が空を切った次の刹那には、点鋼槍が風の速さで史進の胸元に飛び込んでくる。大きく背をそらして槍先をよければ、主の意をすっかり見通している赤毛の愛馬は軽やかな足取りで陳達の背後にまわる。上体を引き起こしざまに腰をひねり、無防備なぼんのくぼ目掛けて刀を突き出すが、かわされることは分かっている。鐙をふんばり馬の背から腰を浮かせ、狙い定めず力任せにふるわれる鋼の槍を二度、三度と刀で打ちはらい、隙をついて陳達の白馬の足元を凪ぎ払う。
 「くそっ!」
 危機を察して大きく後足をあげた白馬に陳達が慌ててしがみつく、その隙をついて再び左手から回り込み、返す刀で陳達の横っ面を突きあげる。馬上に伏せた陳達の髭がひと房はらりと舞い飛んだ。
 (勝てる)
 目の前の山賊は、馬力こそ史進の倍ほどもあるが、いかんせん小技を持たぬらしい。それは、かつて力を持て余し、何の考えもなく棒をふりまわしていた己の姿にも似ていた。王進に出会い、一から武の道を叩きこまれ、日々の鍛錬に汗を流す今の己が、過去の己に負けるはずがない。
 「舐めるなよ若造!」
 大きく距離をとり呼吸を整えて再び点鋼槍を構える陳達に、躊躇いもなく勢いのままに迫る。三尖刀を大きく振りかぶって空いた胸元を、力任せの槍先が貫こうとする。
 「なに!?」
 限界まで堪え槍先が鎧に触れる寸前で、史進は刀を投げ捨て愛馬ごと勢いよく右手になだれ込んだ。腰をひねった史進から槍先は外れ、渾身の力に引きずられた陳達の半身が目の前で無防備につんのめる。その好機を逃すほど、もはや史進は未熟ではなかった。
 「ヤッ!」
 陳達の腰帯を金剛力の強さで掴み、抗う暇も与えずに丸太のような体を螺鈿の鞍から引き剥がし、
  「……柱に縛り付けておけ!」
重さのないもののように宙を飛んだ陳達の体は、轟と砂煙をあげて大地に叩きつけられた。


 (八)へ || (十)へ
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