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創作水滸伝

「水滸伝」とは…
中国・明代にまとめられた古典作品。北宋末期、腐敗しきった世の中にあらわれた、義に篤く忠に生きるも、さまざまな理由で世の中からはじき出されてしまった108人の豪傑=好漢。彼らはやがて梁山泊に集い、「替天行道(天に替わって正しきをおこなう)」を掲げて腐敗しきった朝廷や良民を苦しめる悪と戦う。おおいに酒を飲み肉を食らい、義をつらぬき自由を謳歌する108人の好漢たちだったが、やがて、反乱軍の汚名をそそぎ朝廷への帰順を願う総頭領・宋江の想いが、彼らの運命を悲劇的なものへと変えていくのだった。

※各タイトルクリックで目次が表示されます。


水滸綺伝

岩波文庫の吉川幸次郎・清水茂訳「完訳 水滸伝」および平凡社の駒田信二訳「水滸伝」を参考に、原作を忠実になぞりながらも独自の解釈を交えて行間を埋める黒原流創作水滸伝。
※原作の表現を尊重し、一部差別的表現や人肉食・流血等残酷な描写をそのまま含んでおります。御注意ください。



梁山行

架空の国・宋華帝国を舞台に、現代~近未来の水滸物語をリライトする創作水滸伝。
外敵の脅威を退けながらも軍事費の削減を目指して進められた国家機密プロジェクト・魔星計画。人体実験により強大な力をもつ一騎当千の兵士を生み出そうとしたこの計画はしかし、一人の男の気まぐれから思わぬ方向へと進んでゆく。DNA改変による特殊能力発現実験に関する108の致命的なエラーデータが世に解き放たれ、好漢となって生まれおちたとき、国を、歴史を揺るがす戦いが始まるのだった。



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茨沼・月輪の章 第一回(一)

 百八つ目の鐘の音が筑波おろしに凍える頬を震わせる頃、桃花鳥沢太郎の頭の中ではただ、「腹が減った」と言う太い太い文字だけが不満げに明滅していた。
 だいたい、大御堂までの徒で既に、詰め込んできた僅かな年越し蕎麦は胃の府から消え去ったのだ。それなのに、これから初日の出を迎えるため筑波山を登ると言うのだから、気力が湧き出て来ようはずもない。
 「なんだ、もう腹が減ったか」
 主の不満を代弁したかのような腹の虫の大声は、新年を寿ぐ賑わいの中ですら誤魔化しきれなかったらしい。鐘の音の遺響に身を浸すかの如く、右隣で暫し瞑目していた背の高い人影が、呆れた声をあげた。
 「蕎麦を食ったばかりだろう」
 「あのねぇ、俺は赫弥さまより四つも若いから、あれっぽっちの蕎麦なんてすぐにこなれちまうんですよ。もう、初日の出なんていいから、さっさとお参りして帰りましょうよ」
 「……まったく、減らず口だけは一流だな」
 一段高い所にある主の顏の中で、一際見る者を惹き付ける夜色の瞳が咎めるように撓む。
 「今日でお前も二十四、本厄の歳だから、隣の神社で厄払いも頼んである。子どものようなことを言わずに、少しは新年の筑波を楽しんだらどうだ」
 責めるような言とは裏腹に、声色には些かの棘も無い。仄かに紅葉を刷いたような薄い唇の、その端に灯った笑みは、十年の月日を経てなお変わらぬ温もりに満ちてさえいた。
 関東に住むものならば、いや、日本に住むものならば誰もが名を知るであろう誇り高き武人・山本赫弥――名月の夜が人の姿を取ればこのようであったかと思わせるような、凛とした静謐をまとう美丈夫の、その人となりを慕うものが星の数ほど居ようとも、彼が手のかかる弟のように情を交わす人間は五人と居ない。そのうちの一人が誰あろう己自身であることに気付かされる度、太郎は深い愉悦を覚えるのだった。
 「もしかして今年は、俺のために正月休みを取ってくれたんですかぁ」
 「否、偶然今年は巡りが非番と言うだけだったが……そうだな、お前がこれ以上女難に合わぬよう厄払いをするために、非番でなくとも休みを取ったかもしれない」
 「……それって、喜んでいいのか怒ったらいいのかわからないんですけど」
 「素直に喜んでおけばいい」
 濡れたような黒髪のひと房が、すっきりとした富士額の上を緩慢に流れてゆく。「さあ、行くぞ」と、まるで聞き分けのない童に向ける母の手のように差し出された左手を握り返せば、初めて彼の手をとった日の事が、今宵は気配すら感じられぬ雪の香をともなって思い起こされるのだった。

 未だ天永年間と呼ばれる先帝の御代であった十年前の正月は、珍しいことに、関東の地に薄らと白雪が積もっていた。鼻の穴すらびりりと痛むような寒空の下、その日も太郎は、むっつりと口尻を下げて押し黙っていた。空は両手に包み込みたくなるほど澄み渡っているというのに、筑波山のもたらす乾いた風が小雪を四方に散らし、おさまりの悪い太郎の猫毛も踊るようにあちらこちらを向いていた。
 「これは桃花鳥沢殿、この雪の中、よくぞ参られた」
 「や、お気遣い、痛み入り申す。山本殿、新年が恙無く明けましたこと、心よりお祝い申し上げます」
 父が挨拶を交わす男が誰なのか、早朝から叩き起こされ、座り心地の悪い駕籠に乗せられ強引に連れてこられたこの屋敷が何なのか、その頃の太郎にとっては至極、どうでも良いことだった。半ば寝ぼけた頭の中は、地元足利のとある甘味屋で見かけた娘のことで一杯で、他に気をやる余裕などない。
 「……して、こちらが件のご子息か」
 「ええ、これがもう、どうしようもない愚息ではあるのですが……ほら、太郎、山本殿にご挨拶を」
 はっきりと何を言ったかの覚えはないが、おそらくぞんざいで小生意気な挨拶をしたであろうに、男――筑波郡を治める名領主にして、東日本に並ぶもの無しと謳われる剣豪・山本滝一は、確かそのとき、おかしげに目を眇めていた。今にして思えば、あの頃の己はと言えば、未熟さゆえの傲慢と怠惰に人一倍身を浸し、まるで自分勝手に生きていたのだと思う。それゆえ父は、「愚息」の「研鑽」のために、希代の名門武家であり、旧知の仲でもあった山本家に己を仕えさせようとしたのだが、果たして山本の当主は、いったい、太郎の何を認めたがゆえに、奉公を受け入れたのであろうか。
 (御奉公なんて、まっぴらだ)
 桃花鳥沢家の一人息子として生は受けたが、所詮は親戚からも揶揄されるように「分家の能天気な道楽息子」である。お家のしがらみからも程遠い田舎でのんびりと育った少年にとっては、「お武家様」の家来としての生活など、まったくもって窮屈極まりない。すでに決まりきった話であったらしい奉公話は差し置いて、父と当主殿が久方の四方山話に花を咲かせはじめた頃あいを見計らい、太郎は厠へ行くふりをして、なんとか足利に帰らなければと屋敷の外を見回りはじめた。
 「筑波は、寒いなぁ」
 骨まで断ち切るような寒風はやけに気まぐれで、おさまったと思えばまた激しく襲いかかってくる。この日のためであったか、父が新調してくれた虫襖色の綿入り羽織をきつく引き寄せ、珍奇な野良犬でも見たかのような使用人たちの眼差しを避けるようにせかせかと歩く。
 山本家の屋敷は、領主の屋敷と聞いて想像する姿より遥かに質素な佇まいであったが、さすがその敷地は足利の我が家の倍以上はあるようだ。立ち入ってよいものか戸惑うほど整然とした庭園の石畳を踏みしめ、ようやく己の背丈でも超えられそうな生垣を見つけたときには、僅かに乱れた吐息が宙に白い斑点を刻んでいた。
 「俺は、足利に、帰るぞ」
 かじかんだ手をこすり合わせて竹柵をつかみ、念のためもう一度、人の目がなかったかとぐるりを見渡したとき。ふいに、近くの納屋のような場所から、黒い人影が姿を見せた。
 黒無地の着物から伸びる手足は柳の如くたおやかであるのに、その左手にはしっかと木刀が握られている。背に流れる髪は絹織物の繊細さを秘め、風に嬲られる度に黒から濃紺、あるいは紫紺へと色を変える。鼻筋の通った怜悧な乳色の横顔の中で、新年の祝い酒でも煽ったか、頬に淡い曙が差しているのがこちらからでもわかった。
 あ、見られた、と、言葉に出したつもりであったのに、喉から出たのは、ひゅう、という、無意味な喘鳴だけだった。そうして、その微かな音を拾いでもしたのか、黒い着物をまとった人は、薄らと足元につもった雪を崩すこともない典雅な所作でこちらへと振り向いた。
 絶句する、という言葉を身をもってあらわすならば、誰もがその瞬間の太郎の様になっただろう。生垣の前に突っ立つ見知らぬ童を捕らえたその瞳――世間を知らぬ未熟な太郎にすら、そこに相宿る高潔な誇りと包み込むような慈愛が感じられるほどに、果てしなく深い瞳だった。十数歩の距離を挟んですら、星を散らした夜空のような輝きが見える。濃く長い睫は微動だにせず、衛士のごとき凛々しさをたたえた眉の下で、木の実の形をした夜空の瞳を縁取っていた。誰何を問おうとしたか、僅か開いた唇の、刷毛で描いたような精緻な様を見せ付けられてはもう、その時まで太郎の頭をいっぱいにしていた田舎娘の面影など、跡形も無く消え去っていた。
 「あ、あの……ねえ、君、山本家の子?」
 おそらく年上であろう相手に、しかも今はじめて見あったばかりだというのに、あまりに馴れ馴れしくはないかとさすがに己自身でも気が引けた。だが、これほどまでに美しい武家の娘と言葉を交わせることなど、この先そうそうないかと思えば、多少の無礼はあったとしても、強引にでもお近づきになりたいというのが本音である。人に警戒心を抱かせぬと自負する笑顔を浮かべ、太郎は十数歩の距離を数歩のところまで縮めた。
 「俺、今日からここで奉公することになってさぁ。家を離れるのは少し寂しいけど、でも君みたいな子がいるなら、ここで暮らすのも悪くないね」
 つい数瞬前まで生垣を越えて逃げようとしていた者とは思えぬ朗らかさでまくしたてる太郎はしかし、目の前の顔が、筑波おろしよりなお厳しい冷ややかさをよぎらせたことに気がつかなかった。
 「お武家さんちは、お姫様でも剣を習うんだねぇ。 俺もちょっとは腕に覚えがあるし、手合わせでもしてみない? もちろん、ちゃんと手加減して」
 新調したばかりの羽織から零れ落ちた綿が、視界を舞った。
 「 え ……」
 はやも眼前に迫った夜色の瞳が、小雪に紛れて風に吹かれる綿の向こうで閃光を放つ。
 「腕に覚えがある、と言ったか」
 仄かな酒の香を乗せた吐息とともに零れた声を聴き、己に木刀を向ける麗人が「お姫様」ではなく「若君様」であることを知る。 いや、よくよく見れば、柳と見紛うしなやかな長身の立ち姿は凛とした若武者の威風を湛え、まったく付け入る隙もない。柔らかな艶を纏っていたのは酒のせいだったか、乳色の顔には今や戦場で敵将を前にした気迫すら感じられ、当代一の絵師や彫刻師ですら写し取ることの叶わぬような顔の造作にも、決して女のようになよとしたところはなかった。
 「恥ずかしながら、この山本赫弥、俺の有様をご覧じ女子と評されるほどに腕利きの剣豪と伺っても、ご尊顔に覚えがありませぬ」
 いったい太郎のどこを見ても、名うての剣豪に見える場所などありはしないのだから、これはどうやら心の底から彼の怒りを呼び出したらしい。
 「だが、ここで貴方に出会えたのも何かの縁。わが剣術が女子の手遊びなどではないこと……その身でとくと知るが良い!」
 彼の持っていたのが真剣だったならば、太郎の頭は今ごろ西瓜の如く真っ二つに叩き割られていたことだろう。
 「いっ……たあ!」
 唸りをあげて振り下ろされた木刀の一撃を脳天に食らい、頭を抱えて倒れこんでもなお、美しき若君の手は緩まない。赫弥、などと、いにしえの御伽噺を思わせる雅な名からは思いもよらぬ、烈火の如き剣捌きの前では、常から稽古を厭ってばかりの太郎になすすべなどあろうはずもなかった。
 「童よ、先刻の余裕はどうした? 剣術のけの字も知らんわけではないだろう」
 「ひえっ、ぎゃっ、け、剣豪殿、俺が! 俺が悪かったです、ゆるしてぇ」
 「……ふ」
 剣先から逃げるだけならばできるであろうに、律儀にもすべての剣を――主に尻に――受けたのは、決して太郎が鈍くさいからというだけではなかった。真に、見惚れたのだ。今度はいでたちではなく、その剣捌きに。
 「お武家様」と呼ばれるほどの名家ではなくとも、太郎とて侍の子である。稽古は嫌いでも、剣術に興味が無いわけではない。己や、己の師ですら敵わぬほど淀みのない、洗練された太刀筋。細身の体に宿る鬼神の力。月光の舞うかと見紛う身のこなしに、本気になれば、木刀であろうとこの男は己を殺すことができるのだと戦慄した。
 「まったく、情けない童だな。すべて当たったぞ」
 「だ、だって……」
 顔を覆い守る腕の合間から拾った声が和らいだことに安堵して、おそるおそる赫弥を仰ぎ見る。
 「尻はともかく、頭は痛かっただろう。立てるか?」
 木刀を地に投げ捨て、差し出された左手は、決してその眉目に値う白魚のような繊手ではなかった。長い指に、骨ばった掌に、いくつも重なった肉刺や古傷。短すぎるほどに切られた爪は、あちこちひび割れている。男の心にすら恥じらいを生むような顔をよく見れば、右のこめかみのあたりにうっすらと、消えぬ傷跡が残っていた。
 「少し、やりすぎたか」
 理知的な眉の下で厳しく眇められていた瞳が、ふと、蛍火の燐光を纏い柔らかく撓む。目元と唇だけに宿した笑みの、その穏やかな刹那さに触れたとき、太郎の内に、どうしても彼に言わなければならぬ言葉がうまれた。
 「あ……あの、怒らないで、聞いてくれますか」
 問いかけておいて答えも聴かずに思い切り下げた額が、白く濡れた地をこすった。
 「あなたに……あなたに、お仕えさせてください。あなたの剣を、見せてください。教えてください。あなたと共に、命を懸けて戦える男にしてください!」
 額の熱が、白雪を溶かして髪を濡らす。いつかこの身が真っ赤な血に濡れたとしても、最期までこの清廉な侍の隣に立っていられたら、どんなにそれは幸福だろう。痛々しいまでの誇りと誰も届き得ぬ才が、未だいとけなさの抜けきらない顔に齢以上の深い情と孤独を刻ませているのだとは、その時知る由もなかった。ただ、彼の隣にあり、彼の鮮烈な生きざまを見つめ、彼に少しでも多くの時をともに笑顔で過ごしたいと言う、根拠のない茫漠たる想いが怠惰な田舎の少年を突き動かした。
 「……面をあげよ」
 雪にまみれた太郎の顔は、よほど間抜けに見えたに違いない。のちに国中に名を馳せることとなる若き剣豪・山本赫弥は、眉尻をさげ肩を震わせながら、差し出したままの左手で太郎の顔を母親のように拭った。
 「では、もう、逃げ出そうとしないのだな。桃花鳥沢太郎――」
 おっかなびっくり握った赫弥の手は濡れて凍えきっているのに暖かく、何時から知っていたのか己の名を呼ぶ声は、とても静かに空気を揺らした。
 「今日よりお前と俺は、師弟であり、そして友だ。俺とともに戦うと言うのなら、どんな厳しい修練にも耐えると約束してくれ」
 「……はい!」
 そうして小雪が、一心不乱に降り始めた。


 「……郎……太郎!」
 「はい! いでっ!」
 緩やかなまどろみの淵から急激に現へと呼び戻された太郎を最初に襲ったのは、苛立った囁きの感触と尻への衝撃だった。
 「赫弥さまぁ、もう、尻は堪忍して……」
 「人聞きの悪いことを言うな。まったく、祓の最中に居眠りをするとは、呆れたやつめ」
 「へ? あ、すみませ……」
 眉根を寄せて溜息を零す赫弥の様に、赤い顔で卒倒しかける巫女たちの姿が視界の端に映りこんだところで、ようやく太郎は夢と現の間から抜けだした。思えば、大御堂の隣の神社に場所を替え、太郎自身の厄払いの真っ最中ではなかったか。尻の痛みは、船をこいで床机から落ちたものらしい。目の前では、迷惑そうな顔をした禰宜が、青白い髭を震わせている。
 「お前が眠りこけている間に祓は終ったぞ。この様子では、祓ったものも舞い戻ってくるかもしれんな」
 「そんなあ……あ、でも、俺になんか災難があったら、赫弥様が助けてくれますよね。俺ってば幸せ者だなあ……って、あ、ちょっと、待ってくださいよぉ!」
 へろりと笑う太郎をおいてさっさと本堂をあとにしようとする上背に、床板の冷たさが身に凍みてまろびそうになるのを押しとどめながら、あわてて追いすがる。
 「もぉ、俺、今せっかくいいこと言ったんですよ? 聞いてました?」
 「そんなことより、お前がこの調子だと、はやくしなければ御来光を逃してしまう」
 「お祓いしたし、もう御来光なんていいですよぉ、帰りましょう?」
 「そうは行かない。吾妻とも約束してしまったから」
 「……ふぅん」
 への字口で押し黙った太郎の様子にも、赫弥は慣れたものである。十年もの月日をともにすごせば、太郎が何を思っているかなど、彼には手に取るようにわかったろう。
 「”姫”は、やさしいお兄ちゃんですね」
 「……沼田屋の饅頭を好きなだけ買ってやるから、機嫌をなおしなさい。さあ、行くぞ。五条が待ちきれずに暴れでもしたら大変だ」
 「好きなだけって、絶対、約束ですからね!」
 お決まりの戯言にえくぼを浮かべてけろりとする己の様に、主であり師であり友である男が、呆れの中にも愛おしさを滲ませた微笑を零したことを、太郎はついぞ知らなかった。


(二)へ

茨沼・月輪の章 第一回(二)

 寒風にも負けぬ活気に満ちた参道を引き返しながら、赫弥は、元日に非番があたったのは幾年ぶりであろうかと思いを巡らせた。太平洋東方沿岸警護軍に配されてから今年で干支も一巡りするが、その間、正月にゆっくりと休んだ記憶は一度しかない。特に隊長の位を賜ってからは、年中、休む間もなかった。
 かの大災害「如月の悲劇」も歴史上の一出来事となり、平和な日々が続いているように見える日本だが、徐々に綻びがうまれはじめていることは赫弥も身をもって痛感している。特に今上天皇の御世になったここ数年は、朝廷も、政治の中枢を担う皇櫻府内外も、そして市井のあれこれも、ひときわ騒がしいのだ。
 皇櫻府防衛省が率いる日本皇国軍の中でも数少ない、天皇の直属部隊に配された身では、否が応でも政治の駆け引きとやらを目にすることもある。だが武士である己には政治の小難しい話など関わりはない。赫弥の目下の使命は、異国と通じ皇櫻府に牙を向く謀反人たちの鎮圧だった。
 「鎖国はいつまで続くのか」――第二次鎖国から二百年たった今、誰の胸にも、その問いが微かな違和感となって沈殿している。時勢の気風は、野望を秘めた者たちの抱く炎に油を注ぐに足るほど鬱屈としていた。
 「ありゃ、そこにいらっしゃるのは赫弥様ですかい?」
 ふいに、人ごみの向こうから耳に馴染んだしゃがれ声を拾う。両の眼をちらとさまよわせれば、花林糖饅頭、と書かれた幟をいくつも飾ったひと際大きな屋台のほうから、男が小走りに近寄ってくるところだった。
 「……弦介か? ああ、そうか、正月だから屋台を出すんだったな」
 「なぁんですかい、きょとんとして! これだから仕事狂いは困るんだわなぁ。ちっこい頃は、いつも吾妻様と一緒に仲良く正月の出店を見て歩いてたのに、忘れっちまったんですかい?」
 「はは、そうだった……おい、太郎」
 「はぁい?」
 『待て』を食らった犬のような顔で件の沼田屋の登場を眺めていた太郎の返事が、『わん』と聞こえたのも気のせいではなかったかもしれない。
 「先に吾妻たちのところに戻ってくれ。饅頭は買っていくから」
 「はい! じゃあ、十個お願しまぁす!」
 「まったく……」
 いやに聞き分けよく走り去る太郎の、虫襖色の後姿に目を細め、ひとつに結い上げた黒髪を揺らしながら、赫弥は弦介のほうを振り返った
 「と、いうわけだ。今年もあいつ用に、二十個頼む」
 「承知! まったく、トキの野郎は幸せ者さ、赫弥様にこんなに大事にされてるんだからなぁ」
 短く刈り込んだ白髪に藍色の鉢巻が良く似合う初老の男は、目じりにくちゃりと皺を寄せて笑った。毎年正月になると赫弥は、甘味に目がない太郎のため、特別に甘い花林糖饅頭を沼田屋で注文する。これだけは、どんなに忙しい正月でも欠かしたことのない、弟子であり従者であり友である青年への日頃の労いであった。
 「それにしても、元日にお休みなんて、随分珍しいんじゃないですかい?」屋台の後ろにまわりこみ、饅頭の材料を探す弦介の皺が、今度は眉間にも刻まれる。「今年はお上もお侍のみなさんも忙しくなるだろうし、今のうちに休めってことですかねえ?」
 「そう言うことなら、もう二、三日休みが欲しかったところだがな。明日には皇領の本部に顔を出さなくてはいけない。弥生の式典に向けての軍議も始まるんだ」
 「ああ、二百年の式典ですかい……なぁんか、きな臭ぇんだよなぁ」
 「そう、だな……」
 天道六年の今年は、日本皇国が第二次鎖国を開始してから二百年の節目にあたる。朝廷と皇櫻府はこれを記念した大々的な式典を執り行い、未曾有の悲劇からの完全な復興と磐石なる日本の国力を民草に誇示することを決めたのだ。
 だが、華やかで喜ばしい祝いの儀、というのは表向きの姿にすぎない。すでに赫弥たち防衛省の武士には、式典の襲撃に備えた最大級の警戒布陣を敷くよう通達が下っていた。ここ十数年で謀反や一揆は一段と増え、領地や國の間の争いも収集が付かなくなり始めている。特に昨年は、蝦夷地で屯田兵団長を殺害した反乱の徒が、札幌都を乗っ取り義士を自称する厚顔無恥な大事件も起こった。これ以上、朝廷と皇櫻府の威光に傷をつけぬためにも、此度の式典はしくじるわけにはいかなかった。
 「俺たち武士はただ、陛下と大臣閣下をお守りし、国の平穏のために身を捧げるだけだ。たとえ――」
 「何を言う、この下衆野郎!」
 続く言葉は、唐突な大音声と悲鳴に、かき消された。
 「五条……?!」
 弟の傍にいるはずのもう一人の従者が発した怒号に促され、赫弥は腰に佩いた愛刀の鞘を右手で握りしめた。
 「すまない弦介、饅頭はあとだ!」
 返事も待たず、提灯の火がゆらめく夜の参道を一足飛びに駆け抜ける。只ならぬ形相の長身が駆けゆく様に仰天した人々が、慌てふためいて道をあけ、そして赫弥の眼前に、なんとも頭の痛い光景が飛び込んできた。
 「おい、貴様、この下衆め。もう一度言ってみろ。吾妻が何だってぇんだ!」
 「ふん、ぼんくら天狗には言葉も通じぬか。山本吾妻は武士の風上にも置けぬ浮ついた異国かぶれの青二才だと言ったんだ」
 「何をっ……!」
 「兄貴、こらえて!」
 日ごろ肌身離さぬ大身槍を突き上げる山伏姿の巨躯を、日ごろの安穏とした面を青ざめさせた太郎がぶらさがるようにして押しとどめる様に、数名の男たちが冷笑を浮かべている。彼らの顔は、赫弥もよく知っていた。太平洋東方沿岸警護軍鹿島駐屯地の「お着物組」――皇櫻府の名を受け各駐屯地で軍の指揮にあたる、いわゆる名ばかり大将である。一部の隙もない、古典的な和装に身を包んだ様子から付いた別称は、いまや無能な指揮官への侮蔑とともに、市井の民にまで広まっていた。
 「放せ、トキ! 吾妻を馬鹿にするやつを、生かしておけるか!」
 「だからぁ、そういう物騒なことはっ……」
 「控えよ、五条!」
 殺気だった大男も、情けなく眉尻をさげた青年も、おもしろおかしく野次を飛ばしていた見物客も、すべてのものが一瞬にして、息を詰めた。
 「五条、この方々を何と心得る。陛下と大臣閣下のおんために骨身を砕き、国に忠を尽くす指揮官殿方に無礼を働くことは、まかりならぬぞ」
 振り下ろされかけた大振りの大身槍をいともたやすく細身の刀で受け止めた赫弥の、夜色の眼に睨まれれば、五条――山本家の兄弟に仕えるもう一人の従者は、壁のような体を縮こまらせ、むすりと唇を尖らせるしかない。荒削りでどこか日本人離れした顔をふい、とそむけ、「わかったよ」と零した声は、ちっともわかったようには聞こえないのだが。
 「……指揮官殿方、この吉日に我が従者が非礼を働いたこと、どうかこの山本赫弥に免じてご容赦いただきたい」
 「これはこれは……ささ、面をあげられい、赫弥殿。もうよい、もうよい」
 刀を納め頭を垂れる赫弥の肩を半ば抱き寄せるようにしながら、「お着物組」の一人が笑う。いかにも好色そうな目元を撓めるでっぷりと太ったこの男は名を串引と言い、実質的な日本国の元首として皇櫻府の頂点に君臨する御黒嶺みぐろね大臣の遠縁であった。
 「それにしても、見事よな。天狗殿の大身槍を、この細腕でよう受けられる」
 「体の厚さは及ばずとも、このような荒くれ者の槍など、腕一本で十分です。ところで……」
 生温かい息が首筋にかかるほどに近寄る男を、なるべく穏やかに引きはがす。
 「先ほどの御叱責……愚弟がまた何か、やらかしましたか」
 「ああ、何、いつものこと。弟君は――」
 「朝礼には遅刻、軍装には勝手に飾りをつけて、華見世モデルの仕事ばかり優先させる……でしょ?」
 指揮官の言葉を継いだ影が、鳥居の後ろからゆらりとあらわれる。
 「さすが串引殿、元日だからって浮かれることなく軍の規律を説かれるとは、忠臣の鑑ですね!」
 「吾妻……」
 家族として二十数年、ともに育ちともにすごした兄の目にすら、その姿は鮮烈に――人影と呼ぶにはあまりに眩く映りこんだ。
 長身の赫弥をも超えるすっきりとした上背に、纏う深緑の着物には品のよい金箔文様がちりばめられ、異国かぶれと称されるのも頷ける古色の毛皮を纏ってすらけばけばしくはない。長い手足をこれ以上ないほど優美に組んで鳥居に凭れ掛る立ち姿には、芸能の世界で磨かれただけでは到達しえぬ天賦の蠱惑がある。日輪の下で生きることを天に許されたかのような小麦色の肌は決して野蛮に過ぎず、彼が白い歯をこぼしながら満面に浮かべる溌剌とした、それでいてどこか童じみた笑顔に華を添えていた。黒眼鏡の下からあらわれた、女ならばだれもが夢に見るようなとろりと垂れた琥珀色の瞳は、愛嬌と熱情を孕んで煌めくが、そこに今日ばかりは、冷ややかな霧が渦巻いていた。
 「でも、せっかくの元日なんですし、たまには職務以外のことでもお話しましょうよ、串引殿。たとえばほら、あなたのお妾さんがもってる小料理屋、あすこのものは、うまかったですよ……なにもかも」
 意味ありげに顎をあげる弟の言葉の裏は、どうやら串引には伝わったらしい。蝦蟇蛙のようなあばた顔が、みるみるどす黒く染まっていく。
 「き、貴様……貴様! この、恥知らずめが!!」
 「恥知らず? それは俺みたいにのんびり生きてる男じゃなく、忠臣のふりをして異国の女性たちを奴隷同然に働かせ、自分の性欲を満たすだけじゃ飽きたらずに密貿易でうまい汁をすすっているような男のことじゃないのかな」
 「なっ……」
 「く、串引殿! おい、山本吾妻! 貴様、まさか串引殿がそのような売国沙汰に絡んでいるとでも言いたいのか?!」
 「不届き者め、成敗してくれる!」
 色めき立つ「お着物組」の男たちはしかし、今にも卒倒しそうな串引を支えるだけで、腰に穿いた仰々しい刀を抜きもせぬ。だが、それも当たり前だったろう。己達の前に立ち居並ぶのは、ひとりは東日本屈指の若き剣豪、ひとりは天狗の如き山伏姿の大男、そして当の吾妻とて軟派に見えても赫弥に次ぐ剣の腕前をもっていることを、男たちは知っているのである(太郎の刀が眼中にあったかは定かではないが)。おまけに集った民草の耳目のことをも思えば、下手に手を出すこともまかりなら無いのだ。
 「ええい、忌々しい! 証もなくこの私を愚弄するとは、たとえ我が駐屯地の高位武人であろうと、ただではすまさぬぞ!」
 「串引殿、どうぞお怒りを鎮めてください。今の世に、不貞の賊がはびこりつつあるのもまた事実。おそらく愚弟はそのような現状に義憤を抱き、串引様に訴えたいという思いだったのでしょう」
 もちろん、弟の言は真実である。だが、役人相手に真を叫べば罪が下る今の世で、かくも声高に張本人を糾弾するなど、滅多に出来ぬことでもあるのだ。赫弥は弟のその直情が、羨ましかった。山本家の嫡男にとって、この遣る瀬無き憤りを明け透けにするには、背負うものが多すぎる。
 「ふん、何が義憤か」
 分厚い唇を歪めた串引の不躾な視線が、赫弥と吾妻の間で踊る。
 「父は名領主と謳われる剣豪、兄は若くして国中に名を馳せる忠孝の武士であるというのに、弟はと言えば芸能で小金を稼ぎ、かように下品な異国かぶれの装い。おまけに善悪もわからず上官の言葉も意に介さぬ鈍らときておる。まったく、どんな手を使って副隊長の地位まで手に入れたのか……いや、使ったのは手だけではないかもしれんなあ?」
 「ハハハ、まったく、まったく。この笊頭に己の罰当たりな生き方を知らしめるには、こちらも某を使わなくてはなるまいて」
 「いかにも、だがこの男は笊ゆえな、ここは弟思いの兄君にご足労いただこうかしら」
 「それは良い! 兄君の美しさたるや、かの竹取の姫も恥じて隠れるほど……ひぃっ?!」
 目にもとまらぬ勢いで再び赫弥の左手が放った閃光は、二本の刀と一本の槍を、派手な音とともに弾き飛ばした。
 「兄さ」
 「堪えよ」
 噛みしめた唇に鉄錆びた味が滲もうと、家族の手が汚らわしい血に濡れる事を許すわけにはいかなかった。
 「弟の不出来は兄の責。今後はいっそう祖国に忠誠を誓い、武士の模範となるよう、教育してまいる……これでよろしいか、串引殿」
 「くっ……お、おぼえておれよ、山本吾妻!」
 四対のぎらつく瞳に射抜かれ、まるで情けない捨て台詞を吐いた串引は、仲間に支えられながら後ずさり、肥満体に似合わぬ素早さで坂道を駆け下りていった。
 「さて……皆さま、元日早々、お騒がせしてすまなかった。どうか先のことは忘れ、穏やかな正月を過ごされよ」
 血の気のひいた顔が居並ぶほうに向かって、赫弥は微笑をうかべながら一礼した。「ほら」隣に突っ立ったまま、琥珀色の瞳を異様にぎらつかせていた吾妻もまた、赫弥に小突かれはっとしたように普段のまばゆい笑みをふりまく。
 「お騒がせしました。俺はこれからもこんなですけど、別に何を企んでるわけでもないので……どうぞよろしく」
 黒眼鏡を指に挟み、冗談めかして吾妻が首をかしげれば、ようやく緊張がとけた野次馬たちは口々に噂話をさざめかせながら日常へと戻ってゆく。逆に女たちは、元日から人気華見世を間近で見られる幸運に頬を染め、あっという間に吾妻のまわりには艶やかな振袖が輪をつくった。
 「吾妻様、先日も芸能瓦、見ました!」「いつもありがとう、うれしいよ」「吾妻様が考案された着物の意匠、すごく素敵でしたわ」「ほんとに? みんながあれを着てもっと可愛くなるといいな」などと、きらきらした声のひとつひとつに律儀に答える弟の姿を眺めていた赫弥の背後で、不満げなうなり声が轟いた。
 「俺は、納得いかん」
 「五条……もう、過ぎたことだ。そう苛立つな」
 「赫弥殿、俺は、あんたたち兄弟に苛ついているんだぞ!」
 己よりも弟よりもさらに高い所にある五条の髭面を見やれば、大作りのかんばせを歪めたその様が怒りよりも悲しみを湛えているようで、思わず赫弥は目をそらした。
 「吾妻のやつは、いつもああやって馬鹿にされてもへらへら笑ってばっかりだ。おまけに赫弥殿まで、あんな糞ったれに簡単に謝ったりするなんて……あんたほどの立派な人間が、どうして……ああ、糞! 俺は帰る!」
 「ま、待ってよ、兄貴!」
 肩を揺らして遠ざかっていく五条と、申し訳なさそうにこちらを振り返りながらそのあとを追っていく太郎の姿が宵闇の向こうに沈んだ頃、弟がふらりと隣に並んだ。
 「また、怒らせちまったな」
 その美男子ぶりと明朗な人柄で誰をも虜にする華見世として、あるいは優男風な振る舞いにそぐわぬ剣技と情熱とで部下の信頼も篤い軍人として人前で語るときよりも、ほんの少しあどけない声と砕けたもの言いが、まわりから野次馬がいなくなったことを赫弥に知らせた。
 「お前……悔しくはないか。華見世になったのは、お前の信念故だろう」
 「俺はさ、兄さん。芸能の世界に片足を入れてるからって馬鹿にされても、別にいいんだ。わからないやつらには言わせておけばいいだけだ。でも、俺のせいで兄さんまであんな仕打ちを受けるのは、悔しい。兄さんが止めなければ、俺はあいつを殺していた」
 それは赫弥とて同じだった。どんな言葉を投げかけられようが己一人ならば耐えて済む話だが、大切な家族の生きざまを愚弄されて、笑っていられるわけがない。
 (それなのに、俺は……)
 握りしめた拳に爪が食い込む痛みすら、己への罰だった。大和男児として生まれながら、すべてを投げ捨ててまっすぐに生きられるほど強くもなれず、心を閉ざして要領良く立ち回ることもできぬ不甲斐なさに、肩が震える。五条にあんな顔をさせてしまったのも、今の己ならば当然のことだろう。それでも赫弥には、屈辱に耐えてでも守らねばならぬものがあった。
 「……やっぱり、筑波は冷えるね」
 そっと肩にかけられた古色の毛皮から、弟が好んで焚きしめている竹の香が匂う。
 「あぁ、まったく、新年早々疲れたし、御来光はもういいや。口直しに、何か食わない? それに、沼田屋にもいかないと……約束してるだろ、トキと」
 「その前に、このような場で刀を抜いて騒がせたことを宮司に詫びに行かなければ」
 「律儀だなぁ、兄さんは」
 弟に気を遣わせるようでは兄として立つ瀬がないのだが、妬み嫉みを受けては影で泣いていた昔日よりも随分成長したものだと、赫弥は毛皮を引き寄せながら目を細めた。



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水滸綺伝第一回(一)

―水滸綺伝引首―

人は知る。
絢爛たる輝きと偽りの幸福が落とす、闇よりも深い影を。
人は嘆く。
雅やかな音色と華やかなまつりに隣り合う、死と剣の音を。
人は語る。
水滸に笑い、梁山に集いし英傑の生き様を。
そして星の下で、すべての生と死は、乱れ、巡る――




【第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す】


 (一)

 仁宗在位嘉祐三(一〇五八)年、大宋国

 日増しに濃さを増す春の気配に誘われているかの如く、洪信の足取りは徐々に軽くなる。穏やかな木漏れ日の中で深く息を吸えば、萌えはじめたばかりの草木の香が胸を満たし、すうと汗が引いていく。三月三日に開封東京を発ってから十数日――重荷を負ったこの旅も、ようやく終わりを告げようとしていた。
 「洪信様、あちらに見えますのが竜虎山上清宮、張天師様がいらっしゃる社殿でございます」
 「ああ、あれが」
 付き添いの役人が、安堵に掠れた声をあげる。半月の様に気だるげな目をあげ、彼が手で示す方に視線をやれば、遥々目指してきた建物が、ようやくその優美な佇まいを竜虎山の麓にあらわしていた。
 社殿に続く山道の脇を流れる清水には、青々とした松や柏が映り込んではたゆたい、凛と艶やかに咲き誇る花々に彩られた堂々たる門には、帝より賜った金書が誇らしげに煌めいている。洪信が到着したことを昨夜のうちに知らされていたのか、社殿の内外を大勢の道士たちが行き来するざわめきとともに、鐘や太鼓が奏でる天上の響きのごとき仙楽が耳元を心地よく舞う。
 「どうやらこの務め、無事に果たせそうだな」
 懐に厳重にしまい込んだ皇帝の勅書を服の上から握りしめ、ひとつ、息をつく。仁宗帝より勅使に任命されてからというもの、この勅書の重みがずしりと全身にのしかかっていた。だが、それも、もう終わる。あとは張天師に勅書を渡し、ともに開封東京まで無事に帰りつけば、解放される。
 「おお、洪太尉殿、お待ちしておりましたぞ」
 すでに役目を果たし終えたかのように颯爽と門をくぐった洪信のもとへ、皺深い顔をくしゃりとさせながら微笑む道士がすべるように近づく。彼の後ろにもまた多くの道士や稚児が控え、洪信を歓迎する意を満面に湛えていた。
 「洪太尉殿、この度は遠路遥々、よくぞお出で下さいました」
 「ああ、歓迎いたみ入る。……さっそくだが、張天師様はどちらに? 一刻もはやくこの勅書をお渡ししたいのだが」
 勅書をおさめた胸元を神経質に探る洪信の心中を知ってか知らずか、老いた道士はゆったりと笑みを浮かべたまま静かに頭を下げた。
 「太尉殿、張天師様は、虚靖天師と呼ばれる通り、俗世から遠ざかり浮世に暮らすお方。日頃は竜虎山頂の庵にて独り、修行に身を捧げておられます故、この社殿に降りてこられることは滅多にございません」
 「……何だと?」
 その言葉の意味を理解したとたん、重荷から解放されかかっていた洪信の体に疲れがどっと舞い戻ってくる。
 「私は陛下直々の御詔勅を携えてここまで来たのだ。張天師にお会いせずに帰ろうものなら、この首が宙を舞うことになるんだぞ! いったい、どうすればお会いできるのだ!?」
 「落ち着いてくだされ、太尉殿。太尉殿の御務めは私たちもよく存じております。まずは御詔勅を社殿にてお預かりいたし、奥の間でお茶をお出しいたしましょう。太尉殿には先に長旅のお疲れを癒していただくのがよろしいかと。張天師様の件は、それからお話いたします」
 何を悠長な、と怒鳴り散らしたいのをぐっとこらえ、洪信は鷹揚に頷いた。仮にも皇帝直々に推挙された勅使が道士に暴言を吐いたとなれば、大きな問題にもなりかねない。それに何よりもこの道士の言う通り、さすがの洪信も、開封東京から江西信州への長い旅路で疲れ果てていた。ここまでたどり着いたのだから、茶の一杯や二杯付き合ったところで何が変わるわけでもないだろう。
 「ならば、致し方ない。茶でもなんでも、出してもらおうか」
 ――道士たちに導かれるまま社殿に足を踏み入れ、ひとまず勅書を預けた洪信は結局、一杯の茶どころか机一杯の精進料理で手厚い歓待を受けることとなる。
 (まったく、こちらの気も知らずに呑気なものだ)
 相も変わらず柔和な笑みを浮かべる老いた道士にできるだけ苛立ちを気取られぬよう、洪信は食後の茶をすすりながら本題へと切り込む。
 「張天師様は山頂の庵から降りてこない、と申されたな。何故ここへ降りてくるよう、人をやって呼んではくださらんのだ」
 「洪太尉殿、先ほども申し上げた通り、張天師様は俗世に身を置かぬお方。ここに降りてくることは滅多になく、道士の中には入山して以来一度もお姿を拝見したことがない者もいるほどでございます。我々が呼びにいくことなどとても、恐れ多いことでして……」
 「恐れ多い? よいか、陛下は都を蝕む流行り病から民をお救いせんと、直々にこの私を勅使として選んでくださった。こうして勅書も携えてきたではないか。疫病を退け民を救済せんと、名高い天師に祈祷をあげていただくよう勅書を示された陛下の御心をないがしろにすると申すか!」
 もはや苛立ちを隠すこともせず茶碗を机に叩きつけた洪信の姿を、道士の深く輝く双眸が、じ、と見つめる。まだ何か御託を並べるようであれば、いかに信心深い道士と言えどただではおかぬと腹のうちで息まいていたその時、道士は深々と頭を下げ、低く揺らめくような声を漏らした。
 「陛下が宋国の民をお救いたまわんと願いまするのならば、まずは御勅使である太尉殿自ら誠意を見せていただかなくては」
 「……私に誠意がないとでも言いたいのか」
 「いえいえ、滅相もございません。洪太尉殿は誠実な御心の持ち主。ですからまずは白衣に着替え、沐浴をし、供は連れずおひとりで山の頂まで上っていただいて、太尉殿自ら張天師様に平伏してお願いするのがよろしいでしょう。太尉殿の誠意をご覧になれば、必ずや天師様も山をおり、祈祷のために俗世に戻ることを了承されるかと」
 ここまで来て、勅使である自分がわざわざ山登りをしなければならないとは甚だ納得がいかなかったが、この様子では待てど暮らせど張天師には会えそうもない。それにここで務めをしくじれば、己に待つのは暗雲たちこめる不遇の未来だけだ。
 「……そういうことならば、貴方のおっしゃる通りにしよう。明日の夜明けに出発する」
 「承知いたしました。ではさっそく、道士たちに沐浴の準備をさせましょう」
 何か、うまく丸めこまれたような敗北感を胸に抱きながら、洪信は道士たちに続いて宿坊へと身を寄せた。

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水滸綺伝第一回(二)

【第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す】

 (二)


  大気が薄紫にけぶる暁の空の下、洪信は香水で禊をすませた体を真っ白な衣に包み、袱紗に包んだ勅書を背負って山頂を睨みつけていた。
 「洪太尉殿、どうかくじけることなく、誠実な御心をもってのぼりなされ。天師様はきっと、御力を貸してくださることでしょう」
 老導士のにこやかな顔に向けてあからさまに溜息をひとつ吹きかけ、彼の捧げ持つ銀色の香炉を受け取った洪信は、未だ疲れの残る体をひきずるようにして山道をのぼりはじめた。時が時でなかったならば目の前に広がる竜虎山の絶景に身も心もあらわれたのだろうが、今の洪信にとっては青々とした清水が滴る滝も、空高く枝葉を伸ばす緑の木々も、霧の向こうでさえずる鳥の歌声も、宝玉のごとく朝露に光る山道も、そのすべてが鬱陶しく思えてならなかった。
 「くそ、まだ着かんのか」
 山道を歩む間に空高く姿を現した太陽が、洪信のざらついた頬に汗を滑らせ、銀の混じった髯を伝って山道に微かな痕跡を刻む。
 「この私が……都では偉大なる大将よ貴公子よと慕われるこの私が、何故こんな襤褸わらじをはいて、こんな山道を歩かねばならんのだ!」
 高慢な愚痴をこぼしたところでそれに応える供もおらず、これでは力の無駄遣いだとむっつり押し黙って歩き続ける。常の優雅で何不自由ない贅沢な暮しに浸かりきった体はすでに、悲鳴をあげはじめていた。
 「はぁっ……はぁ……まったく、腹がたつ……!」
 ついに洪信の脚が、主の意志に反してぴたりと止まった。いや、あるいは、主の意志に従ったのかもしれないが。
 「少し、休まねば、山頂まで体が持たぬっ」
 手近な巨岩に身を預け、肩で大きく息をする。どこまでも清涼な空気を吸い込んだとて体の疲れが癒えるわけでもないが、そうでもしなければ呼吸すらままならない。今や脚は鉛のように重く、喉は乾ききって塞がらんばかりだ。
 「ありがたい、水だ」 
 岩棚の間をせせらぐ清らかな水流を探り当て、両手に汲んだ水を飢えた獣のごとく必死にすする洪信の頬を撫でる風が、ふと強さを増す。
 「何だ?」
 轟――
 微かな違和感に顔をあげた洪信の耳は、次の瞬間、稲妻の如く地を揺るがす咆哮に貫かれた。
 「なっ……!」
 それまで疲れと怒りに細められていた洪信の瞳が、張り裂けんばかりに見開かれる。皇帝の勅使としての威厳も太尉としての誇りも、目の前に突如として立ちはだかった恐怖――白と金のまだら模様も眩い巨大な虎の前には、なんら意味をなさなかった。
 「あ……ひっ……!」
 言葉にならぬ喘鳴を漏らし、情けなく腰をぬかして倒れこむ洪信のすぐ傍を、虎の低い唸り声が掠める。地獄の裂け目のように開いた緋色の口蓋の中で鮮烈な白さを放つ牙は、戦場の矛先よりなお鋭く、冷たい汗がどっと背中を流れ落ちる。
 (喰われる……!)
 空腹にぎらつく稲妻色の瞳も、跳躍に備えるように隆起する脚も、すべてが幻であってほしいと願うように、洪信はきつくまぶたを閉じ、
 「……は……?」
 号砲の如き声が遠ざかったような気がしてゆっくりと目を開ければ、先ほどまで支配者のごとき視線で洪信を狙っていた虎の神々しい毛並みが、はるか崖の下へと降りていくのが見える。
 「な、何だった、のだ……」
 かみ合わぬ歯がたてる耳障りな音に紛れた安堵の声が、まるで自分のものではないように聞こえる。震える手を動かせば、倒れ込んだ時に放り投げてしまった香炉のひんやりとした感触にいきあたる。
 「くそ、こんなところで、逃げ帰るわけにはいかん」
 額を流れる汗をぬぐい、香を焚きしめなおし、力の入らぬ脚を叱咤して再び洪信は山道を歩み出す。ことは国家の一大事である――そして己の栄達のためにも、手ぶらで都に帰るわけにはいかない。
 「陛下のご命令でなければ、こんな山道を誰がわざわざ……っ!」
 恨みのこもった呟きはしかし、完成することはなかった。
 (こんなとろで、私の命は尽きるというのか……!)
 胸の悪くなるような匂いを伴った暴風が吹きぬけた、と思った瞬間、洪信を再び絶望させたのは、人を丸のみできほどの巨体をうねらせる白蛇だった。気色の悪い緋色の舌をちらちらとのぞかせ、まるでこちらをあざ笑うかのように口を歪める白蛇の鋭い吐息が目の前に迫る。今度こそ洪信はすべてを諦め、せめて苦しまず済むようにと祈り、
 「……なんと忌々しい! あの糞道士どもの術か?! 私をこうも愚弄するとは……!」
 先ほどの虎と同様、何故か忽然と白蛇が姿を消したことに、洪信はこれが何者かの策謀であることを確信した。生まれてこの方、ここまで馬鹿にされたことはない。下山したあかつきには、必ずやあの道士どもの胡散臭い笑顔をひっとらえて罰を与えんと青筋をたてる洪信の耳に、今度はなんとも物悲しいような懐かしいような、妖しい笛の音色が届く。
 「もう騙されんぞ!」
 密かに腰元に忍ばせた小刀に手をかけ、笛の音の出所を探るように瞳を凝らす洪信の目の前の木立が、ふと、小さく揺れた。緊張に乾いた唇を一度湿し、小さく息をつく。次はどんなまやかしが現れても引きさがらない――
 「お、おまえは……」
 「あれぇ? こんにちは、おじさん」
 どんな化け物が現れるかと身構えた洪信の目の前に、霞が形をとったかのように現れたのは、飴のようにつややかな色の牛にまたがった幼子だった。疑心に苛まれる洪信の心をほどくような鉄笛を響かせながら、幼子を背にのせた飴色の牛はゆったりと進む。さきほどとはうって変わってまどろみを誘うような風が吹き、二つに結わえた団子髪からほつれた柔らかな黒髪をなびかせながら、幼子が真っ白くすべらかな頬に笑みを浮かべる。
 「ど、どこから……お前は、どこから来たのだ? 」
 絞り出すような洪信の声も聞こえぬがごとく、しばらく甘やかな笛の音を響かせ続けていた幼子は、蓮の花弁のように淡い色の小さな唇をいたずらっぽくほころばせ、鳶色の瞳を細めた。
 「ねえ、おじさん、張天師さまに、あいにきたのでしょ」
 舌足らずで愛らしいさえずりに、張りつめていた洪信の気がわずかに緩み、自然と話しぶりも穏やかになる。
 「お前、牛飼い童のくせに、なぜ私がここへ来たことを知っているのかね?」
 「そりゃあ、天師さまがぼくに、おしえてくれたもの。皇帝陛下が洪っていう名前のおじさんに手紙を持たせて、この山におつかいさせるってね。天師さまはもう、鶴に引かせた雲にのって、都にいってしまったよ」
 鈴の音のような笑い声をこぼす幼子は、内緒の話でもするかのように、洪信の耳元に淡い唇を寄せた。
 「病気をなおす、お祈りをするって、いってたよ。おじさん、もう、山をおりたほうがいいんじゃない? この山にはね、こわぁいけものがたくさんいるよ」
 「あ、お、おい……!」
 幼子の紡いだ言葉の真意を確かめようと伸ばした洪信の手は、ただ、まとわりつくような湿気を帯び始めた風を掴んだだけだった。



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水滸綺伝第一回(三)

【第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す】

 (三)


 「老いぼれ道士! 出てこい!」
 「おやおや、これは一体どういうことです、洪太尉殿? そんなに血相を変えて」
 扉を引きちぎらんばかりの勢いで麓の社殿に飛び込んできた洪信の異様な姿にも、老道士は穏やかな笑みを崩さなかった。
 「張天師様にお目にかかることはできましたかな?」
 「っ……ふざけるな!」
 気取ったように結いあげていた髪を振り乱し、真っ白な衣を泥まみれにした己の姿を見てもまだ戯言を放つ老道士の胸倉をつかみ上げ、洪信は唾を飛ばす。
 「私は陛下の覚えもめでたい身分というのに、よくもあんな山道を歩かせ、そのうえ命まで取ろうとしたな?!」
 「……と、おっしゃいますと?」
 「とぼけるな! 私を喰おうと目をぎらつかせていた白い虎も! おぞましい臭いのする大蛇も! 私をこけにするために貴様が術で呼び寄せたものではないのか?!」
 「これは異なことをおっしゃる……なぜ私たちのようなただの道士が、あなた様のような高貴なお方を弄ぶようなことをいたしましょう。洪太尉殿、まさにその試練こそ、張天師様が太尉殿の御心を試されたものでございます。この山には確かに虎も蛇もおりますが、人に害を及ぼすようなものではありません」
 ありったけの威厳をもって睨みつけてもなお静かな表情を浮かべ続ける道士の様子に、洪信の手から力が抜けていく。こんな風に言い含められては、まるで自分が駄々をこねる子供のようではないか。
 「しかも、負けずに私が再び山道を登ろうとしたとき、あろうことか牛飼い童が牛に乗って松の茂みから現れたのだ。どこから来たのか、私が誰かわかっているかと問いただせば、幼子らしからぬ訳知り顔をしおって、おまけに張天師様はすでに鶴に引かせた雲にのって開封東京に向かわれたと言う。どうにも怪しく思い、これも貴様らの術かと山を下りてきたのだ……道士よ、説明しろ、お前たちは私に何をしかけた? 何を企んでいる?」
 「お、おお……洪太尉殿!」
 どれだけ険しく睨みつけても変化のなかった老道士の顔に、唐突に、弾けんばかりの笑みが咲く。
 「洪太尉殿、その牛飼い童こそまさしく、張天師様その人にございます! なんと幸運な御方だ」
 「なっ……あんな小さくて貧層な幼子が、天師だと?!」
 「ええ、ええ、張天師様は、この世の理では計り知れぬ御方なのでございます。年端もいかぬ御姿ながら並はずれた力をお持ちで、あちこちで奇跡を起こしては崇められているのです」
 そのあまりにも嬉しげかつ誇らしげな語りぶりに、洪信の疑念や怒りはするすると毒気を抜かれていく。冷静になれば、まさか皇帝の勅使に対して嘘偽りを述べるほど、この道士も命知らずではあるまい――洪信の拳は、ようやく道士の胸元を解放した。
 「そうか……私は目があっても泰山も知らず、天師様の御姿を見抜くことができなかったというわけか。みすみす目の前で天師様とお話する機会を手放したとは」
 「太尉殿、どうか御安心ください。天師様ご自身が行くとおっしゃられた以上、太尉殿が都へお帰りになられる頃にはもう、天師様が御祈祷をすっかり済ませられていることでしょう」
 未だ半信半疑で中空をさまよう洪信の手を、道士の老いさらばえた手がやわらかく包み込む。
 「太尉殿、さあ、そうとわかればどうか御怒りを鎮めて、後は天師様にすべてお任せください。我々も太尉殿が御勤めを無事に終えられますこと、大変喜ばしく思っております。さあ、こちらへ……足慣れぬ山道、お疲れになったことでしょう。宴の席をご用意しておりますれば」
 ようやく、すべてが終わったのだ――先ほどまでの怒りもどこへやら、大きな脱力感に肩を上下させると、洪信は道士に向けて尊大に頷いて見せた。


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水滸綺伝第一回(四)

【第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す】

 (四)


 昨日まで鬱屈と感じていた景色が嘘のように鮮やかに色めきだすのを、洪信はすっかり憂いの晴れた心で見渡していた。長い旅の締めくくり、仄白いかんばせも麗しい二人の稚児の後を追って歩む三清殿、その両側の廊下に沿って立ち並ぶ豪奢で堂々とした社殿の数々は、朝焼けの余韻に包まれこの世ならざる神々しさを湛えている。
 「そしてこちらの奥が、駆邪殿と申しまして……」
 貧乏くさい白衣から権勢を知らしめる華麗な装いに戻った洪信の後ろをぞろぞろとついて歩く道士や寺男たちのざわめきすら、今朝はまったく気に障ることもない。ゆったりとした足取りは威厳を取り戻し、銀の混じる髭を撫でつけ微笑を浮かべながら道士を従える姿は、なるほどこの大宋国の中枢を担う将軍の名に恥じぬものであったろう。
 「……おい、道士」
 満ち足りた気持ちで明媚な景色を眺めていた洪信の視線は、ふと、ある一点――右手の廊下の奥に、絡めとられた。
 両の廊下に沿う社殿とは別にただ一つ、ぽつりと佇むその社殿は、周囲を目に痛いような緋色の土塀で囲まれ、朱塗りの格子戸が入口を守っている。それだけならば何ということもなかったが、異様なことに、その扉は人の腕ほども太い鎖で結ばれ、さらにその結び目の上にはおびただしい数の御札が貼られていた。執念的なまでに貼り重ねられた御札の上を、これまた狂気的なほどに朱印が埋め尽くしている様は、壮麗で神聖な社殿の風景の中でひときわ異質であった。
 「どうかされましたかな、洪太尉殿?」
 「あそこにひとつ離れている社殿は、一体何の祠だ?」
 洪信の指さす先、漆塗りの朱に金色の筆で『伏魔殿』と書かれた額を掲げる社殿に皺深い顔を向けた老道士が、わずかに表情をこわばらせたのを洪信は見逃さなかった。
 「あれは……先代の天師様が、魔王を封じた祠でございます」
 「魔王? それであんなにべたべたと札を貼りこめているのか?」
 「ええ、唐の時代、洞玄国師様がここに魔王を閉じ込めて以来、天師様が代替わりするたびに一枚ずつ御札を加えていったのでございます。洞玄国師様は、もしも魔王が逃げだせば、この国を揺るがす由々しき事態になるゆえ、子子孫孫この祠を封じ続けよと仰せられました。今の天師様でもう八代目、いや、九代目になりますか、ですがどの天師様も決して開けようとはなさいませんし、当然、中の様子を知る者もございません。私もここの住持となって三十数年になりますが、ただ言い伝えを聞くばかりでして」
 「ほう……」
 常ならば、いくら皇帝の覚えもめでたい高官として思いのままに生きる洪信とて、この聖なる社代々の禁忌を犯すような大それた真似はしでかさなかったであろう。だが、この時の洪信は、勅命を無事に終えたことで、常ならざる解放感に支配されていた。
 ――それが偶然の出来ごころであったのか、宿命であったのか、今となってはだれ一人知る者はない。
 「おい道士、魔王を封じたとはおもしろい話を考えたものだ。唐の時代より何者も見たことがないという魔王の姿、この私が暴いてやる。さあ、あの扉を開けよ」
 「は……?」
 「どうせお前たち道士が、奇怪な作り話と妖しい道術で民を惑わそうと、わざわざあんな祠を造ったんだろう。私も古今の書物に通じているが、魔物を封ずる術など聞いたこともない。魔物だ化け物だと妄言を吐きおって、さあ、はやく扉をあけて、魔王の姿を拝ませろ!」
 からからと愉快気に笑う洪信を見やる道士たちの顔から、目に見えて血の気が引いていく。
 「な、何をおっしゃいますか太尉殿、我々は妄言を語っているわけではございません。あの祠を開ければ、取り返しのつかぬことが起こり、民の間に災いが拡がりましょう……どうか、お考えなおしを!」
 口をそろえて懇願する道士たちがすがりついてくるのを鬱陶しげに振り払いながら、洪信は顎をあげて一喝する。
 「ふん、うるさい奴らめ。だいたい、皇帝陛下の勅命を帯び三月三日に都を立ってから十数日、ようやくたどりついたと思えば張天師様は山頂の庵から降りてこないと言われ、この私がわざわざ山登りなぞをさせられただけでも腹立たしいというのにだ。途上では大蛇やら虎やらにおどかされ、おまけに突然現れた怪しげな牛飼い童こそが張天師様だったという。これも妄言ではなかろうな?」
 「滅相もない! たしかに洪太尉殿がお会いした童は張天師様でございます。昨日も申し上げましたとおり、すでに開封東京に向かわれ、疫病を退けるためのご祈祷を捧げていらっしゃるでしょう」
 昨日の徒労を思い出して深まる洪信の眉間の皺には、老道士の痩せさらばえた体を折らんばかりにいっそう低頭させるほどの威圧があった。
 「陛下の信頼も篤い張天師様の弟子が妄言を吐いているなどとは、私も思いたくない。だが、どうしてもこの扉を開けんというなら、都に帰ったあかつきにはお前らが私の務めを邪魔立てして天師様に会わせようとしなかったと奏上し、おまけに怪しげな祠をたてて民草を惑わせていることを申し上げ、お前たちを流罪にするぞ!」
 「な、なんと御無体な……」
 「いいから開けよと言っている。誰か、槌を持ってこい!」
 青筋をたてて怒号をあげる洪信の剣幕と、彼の言葉が現実になるやもしれぬという恐れにかられた道士たちは、ついに懇願をやめ、鉄槌を持ち出して伏魔殿の扉の前に立った。
 「何が起こっても、我々は知りませんぞ」
 「無礼な口を叩いていないで、さっさと開けんか」
 何重にも貼られた札をはがす乾いた音と、鉄槌が鎖を断ち切る耳障りな音が、無常な静けさの中に響き渡る。
 「まったく、手間取らせてくれる」
 幾代にも渡る封を解かれた鎖が重々しくも派手な音をたてて滑り落ち、血の様に赤い格子戸が、生ぬるい風をうけて小さく軋む。その隙間から現れたのは、耳に痛いほどの静寂を纏う闇――視力を失ったかと疑うほどに深いその闇を覗き見た人々の間を、得も言われぬ不穏な気配が漂いはじめた。
 「……なんだ……何も見えんではないか……」
 先ほどまでの威勢も薄れた洪信の掠れ声が、空虚な闇に吸い込まれて消える。ためらいがちに闇を突いて伸ばした彼の腕もまた、冥府の闇の中に溶けこんでしまったかの如く、視界から消える。
 「誰か、灯りを持て」
 はじかれたように駆けだした寺男たちが運んできた十数本の松明を掲げさせ、先陣をきって祠の中に踏み入った洪信の目の前に浮かんだ光景は、想像していたよりも殺伐としていた。
 がらんと広い堂内には、祭壇のようなものも何一つとして置かれておらず、ただ、五、六尺ほどの高さの石碑が無言で中央に鎮座している。碑を支える石亀の台座に至っては、泥ついた地面にその身の殆どを沈み込ませていた。 
 「おい、何をしている。はやくここに来て、この石碑を照らせ」
 自然と潜められた洪信の声すら、このがらんどうの中では異界からの囁きであるかのように不気味に響く。真っ青な顔をした道士たちが震えながら近寄り掲げた松明が、怪しげな陰影を刻みながら石碑を照らし出した、その瞬間――
 「……ははっ! お前たち、これを見ろ!」
 洪信の声に力強さが舞い戻り、勝ち誇ったような笑い声が取り巻く闇を劈く。
 「遇、洪、而、開……『洪に遇って開く』、と書いているぞ。これぞまさしく天命ではないか!」
 石碑にくっきりと刻まれた四つの楷書をいとおしむように指先でなぞりながら、洪信は道士たちを睨みつけた。
 「お前たちは散々文句を垂れて私の邪魔をしようとしたが、ならばどうして、何百年も前からの私の姓がここに刻まれている? 洪に遇って開くとは、まさしく私にこの碑を掘り起こして開けてみよ、ということではないか! お前らの言う魔王とやらは、この下にいて、私が来るのを待っていたに違いない……さあ、さっさと人を呼び集め、ここを掘り起こせ!」
 「洪太尉殿、どうかこれ以上は御許しを! この祠の扉を開けただけでも一大事というのに、その上石碑をこじ開け魔王の封印を解こうとは、必ずやこの大宋国に災いがふりかかりますぞ!」
 「馬鹿者、何を恐れることがある。私の姓を刻み、私に開けよと伝えている石碑だぞ? これを開けぬは天意に背くも同じこと。さあ、かまわず掘れ!」
 「ああ、では、どうか何が起こっても我らの責になどなさらぬよう……」
 あまりの恐れ多さに涙すら浮かべながら集まってきた道士や作事方たちが、まずは力を合わせて石碑を押し倒す。数百年分の土埃の下から現れた台座の石亀が掘り起され、さらにその下まで土が掘り下げられてゆくのを、洪信はいまかいまかとそわそわしながら見つめる。数十本に増やされた松明の明かりをもってしてもなお薄暗闇が支配する堂内に、道士たちの嘆きと吐息、地を掘り起こす単調な音が響き続ける。
 「……こ、これは……!」
 だが、永遠に続くかと思われた単調な音は、突如、金属を突いたような甲高い音に収束した。
 「こ、洪太尉殿、この石版は……」
 「なんだ、何があった!?」
 三、四尺も掘り下げた地下深くを覗きこめば、そこには巨大な青い石の板が一枚、しんと横たわっている。
 「おお……魔王はおそらくこの下だ。かまわん、この石も掘り起こせ!」
 「ああ……お許しください、天師様……」
 「力をあわせて持ち上げるぞ、そっちを持って……」
 「松明で照らしてくれ、こっちだ……」
 「どけ、何が埋まって……?」
 男たちの呻き声とともに持ち上げられた石版の下は、虚無であった。
 吐息すら殺して、誰もが、その永久とも思える闇に包まれた底知れぬ穴を見つめる。
 そうして――眠り続けた魔の星々はついに、洪に遇いて目を開いた。
 何事か言葉を紡ごうとした洪信の足元が、微かに揺れ始める。
 幾世も封じられた闇が、鳴動を始める。
 眩暈ともまごうほどの小さな揺れは、やがて立ちすくむ洪信や道士たちの足をさらい、どんどん大きくなってゆく。
 壁を塗り固めていた土が崩れ始め、内臓を突き上げるような低い轟きが足先から這い上がる。
 「なっ……?!」
 絶句する洪信の目の前で、果てなき虚無のようにぽっかりとあいた穴から花火の如き勢いで黒煙が噴き出す。
 音だけで体を吹き飛ばす雷鳴にも似た唸りをあげ、黒煙は伏魔殿の屋根の一角を吹き飛ばし、朝の快晴が嘘だったかのように厚く雲のたれこめた空を劈き、そして、
 「ああ、ああ……なんと……!」
 大宋国の空に咲いた災禍の花は、百八の星屑となり、そして、散った。

<第一回 了>

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水滸綺伝第二回(一)

 その昔、竜虎山開山の天師洞玄、伏魔殿に閉じこめるは三十六の天罡星と七十二の地煞星
 合わせて百と八人の魔王は今、洪に遇いて目を開き、再び世に解き放たれた
 世に災いをもたらす妖魔を逃がした洪太尉は、かたく人々の口を閉ざし、都に帰りて天寿を終える
 そして時は静かに流れ、魔星を宿した好漢たちは――



【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(一)

 哲宗在位元符三(一一〇〇)年、東京開封


 慌ただしく立ち働く使用人たちの間を悠々と歩きながら、青年は無造作に結った髪を手持無沙汰に弄ぶ。
 柔和なように見えて、時に底冷えするような眼光を放つ三白眼は、せわしなくあたりの様子を探っている。
 屋敷の主の誕生日を祝う盛大な宴会もそろそろおひらきの時間となり、客人たちの使い捨てた器をうずたかく積み上げた盆が、広間と台所の間を行きつ戻りつしているのを――いや、その盆を運ぶ若い娘を眺めているのか、青年の口元がひくりと歪む。
 「……」
 ふと、それまでだらしなく肩を揺らして歩いていた青年の背が、竹のごとくぴんと伸びた。
 猛禽のようにさまよっていた鋭い瞳が、廊下の向こう、書院から影のように優雅に姿を現した二人の男を映し出す。
 「まったく、あのような見事な細工は見たことがない」
 「さすが端王殿下、お目が高いですなあ! あの獅子の文鎮は、最高級の翡翠をつかった、世に二つとないもの……ああ、それともう一つ、同じ職人の手によるもので、玉竜を模した筆懸けもございます。あいにく今は手元にないのですが、明日取ってきて、獅子の文鎮とともにお届けいたしましょう」
 「義兄殿の御好意、かたじけない。その筆懸けもきっと、美しいのだろうなあ……」
 「私の誕生祝いの宴に御出席いただいた、ほんの御礼ですよ」
 白髪混じりの髭をたくわえた恰幅の良い男――この屋敷の主である王晋卿の体に半ば隠れてしまうような小柄な人物は、未だ少年といってもいいようなあどけない顔に満面の喜色を湛え、まだ見ぬ筆懸けに想いを馳せているようであった。筆より重いものなど持ったこともないような華奢な体が負けそうなほどに豪奢な衣装は、遠目から見ても最高級の絹を使っているのがわかる。すべるように静かに廊下を歩む姿は、彼の並みならぬ家柄を感じさせた。
 「端王殿下、ね……」
 誰あろう大宋国先代皇帝・神宗の皇子にして現皇帝・哲宗の弟である端王は、その姉と結婚した王晋卿にとっては義理の弟でもある。風流道楽の道に通じ、書画や歌舞音曲をたしなみ儒教道教知らぬものはないと謳われる端王だが、彼のもっとも好み得意としているのが蹴毬であることは世間の誰もが知るところであった。
 「おい、高毬!」
 「……今行きます!」
 宮中へと帰る端王を見送った主に呼ばれ、思案げな顔をあげた青年の名は高二――彼の世にも見事な蹴毬技を見た人々からは、『高毬』と呼ばれていた。
 「高毬、あの御方が誰かわかるか」
 「ええ、端王殿下でしょ。皇帝陛下の弟君で、つまり御主人の弟君でもある」
 「馬鹿もの、そういうことではない。良いか、よく考えろ」
 顎の肉を揺らす王晋卿の視線の先、図体のでかいごてごてとした馬車が去りゆく様を、高毬もまた見つめる。
 「皇帝陛下の玉体は……残念なことに、あまり強うなくてな。昨今の朝廷内での熾烈な権力争いも、相当に御負担となっているに相違いない。そこでだ、高毬、頭の良いお前ならばわかるであろう? もしも……もしも、陛下に万が一のことがあれば、次にその座を継ぐのは――」
 今年で二十五となる高毬と、一つ二つしか歳の違わぬ若き皇帝・哲宗には、未だ嫡子はいない。となれば、次に帝位を継ぐことになるのは、彼の弟である端王ということになる。いずれ皇帝の義兄となる男は、なるほど、己のお気に入りの近習を、次の皇帝のお気に入りにもさせようというのか。
 「実は今日、端王殿下にひとつ、約束をいたしてな。届け物をせねばならぬのだが、その役目、お前に任せるとしよう」
 目じりに怪しげな光をのせて笑う主人の心の内では、世に二つとない文鎮や筆懸けなど道端の石ほどにしか思われていないに違いない。そうしてそれは、高毬にとっても、同じであった。
 「端王殿下は、なによりも蹴鞠を愛しておいでだぞ、高毬」


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水滸綺伝第二回(二)

【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋竜 大いに史家村を騒がす】


(二)

 端王の屋敷までの道のりを教えようとする主人を遮り、高毬はさっさと黄絹の包みを持って出立した。開封東京の都は、ほかでもない、己の生まれ故郷だ。宮中に立ち入ることができるような身分ではなかったが、地理は分かっている。たった三年離れていた間にも当然、都は日々様変わりし続けていたのだが、高毬の足は迷うことなく端王の屋敷のほうへと向かっていた。
 (三年は……長かったぜ、王昇)
 三年前、高毬は、実の父親に衙門への訴状を出された。生まれ持った歌舞音曲や蹴鞠の才で太鼓持ちをつとめ、逆らうものは槍棒の才で叩きのめし、気ままな生を謳歌する息子を放っていた父も、街の有力者の息子の財を食いつぶし、あげくの果てには痴情のもつれで大騒動を起こしたのにはほとほと困り果てたらしい。
 だが、それだけならばどうということはなかった。弁が立ち、人に取り入るのを得意とする自分たち親子ならば、わずかばかりの杖刑だけで済ませることもできたのだ。それがまるで流刑のように都を追われる仕打ちとなったのは、ひとえにあの憎たらしい男――王昇が、開封府の長官と結託したためだった。
 『よいか高二郎、心技体揃わず、仁義礼智を解さないお前が槍棒を持ったとて、それは術にあらず、ただの路傍の見世物じゃ』
 禁軍で槍棒術を指導していた王昇教頭の高名を聞きおよんだ高毬は、自慢の槍棒の腕を買ってもらい、あわよくば禁軍に取り立ててもらおうと、彼に教えを乞うた。だが王昇は、多くの見物人の目の前で散々に高毬を叩きのめした挙句、お前には武人たる資質はないと、まるで吐いて捨てるように言ったのだ。
 『資質……だと……?』
 『わからぬのなら、さっさと帰ることだ。大郎! こいつをつまみだせ』
 『承知しました』
 土埃にまみれて無様に転がる己を見下ろす王昇と彼の息子の冷ややかな目を、覚えている。
 『でも、師兄、彼は怪我を……』
 『冲儿、放っておけ』
 嘲笑を帯びた衆目の中で唯一、聡明で端正な眉目に気遣いを浮かべてこちらを眺めていた幼い少年がいたことも、覚えている。少年を下がらせた王大郎に掴まれた首筋の痛みも、足を引きずって歩み去りながら感じた屈辱も、己の背を追う少年の眼差しも、あの日の天気さえも、高毬は覚えていた。
 あのときの王昇が、あることないことを衙門に讒言したに違いない。結果、高毬は都を追放され、淮西臨淮州で賭場を開いていた柳という男のもとで三年の月日を過ごす羽目になった。その後皇帝による恩赦が出なければ、この華々しい大宋国の都に帰り、風流事を愛する皇帝一族の娘婿の元で近習をすることなど一生できなかったろう。それにこうして、人生にまたとない機会を得ることも――
 「おや、どちらの御屋敷のお人ですかな? こちらには、どのような御用件で」
 「私は王晋卿様の屋敷から参った者。昨日、端王殿下が主人の宴にお越しくださった折り、玉の細工を献上するお約束をいたしておりましたので、届けに参った次第です」
 ほどなくたどり着いた端王の屋敷の門前で、近習らしき男に用向きを述べる。その間にも高毬には、身を立てる好機を呼ぶ小さな音が、はっきりと聞こえていた。
 「ああ、左様でございましたか。殿下はただ今、御庭で蹴鞠の最中でございます。どうぞこちらへ、御案内いたしましょう」
 近習の後について高い塀に囲まれた通路を抜ければ、広大な庭が目の前にあらわれる。一部の隙もなく作りこまれ、配置を考え尽された草木や石の、その細部に神経質なまでに手入れが行きとどいた明媚な様は、庭園に造詣のない高毬にすら圧倒的な美を感じさせた。
 「端王殿下は、御庭造りに大層御心を砕かれる御方でして」
 高毬の無音の感嘆を察したのか、先を行く近習がにこやかに手を掲げる。
 「ほら、あちらにあらせられます御方が、端王殿下でございます」
 見たこともない珍しい花々が咲き乱れる茂みの向こう、蹴鞠のためだけに造られたとおぼしき開けた遊び場に、その人はいた。
 金紗縮緬の唐頭巾をかぶり、宙を睨め付ける荘厳な龍の刺繍があしらわれた紫の衣を身にまとった端王は、靴に縫い取られた黄金の鳳凰を日差しに煌めかせながら、四、五人の取り巻きとともに蹴鞠に興じていた。
 まだ幼気なかんばせに薫風のごとき笑みを浮かべ、端王が毬を蹴る。あたかもその威光でもって従えてしまったかのごとく足元にとどめていた毬が、晴れすぎてけぶる空を舞うのを高毬はただ、近習の後ろに控えて見ていた。
 「あ!」
 弓のように見事な軌跡を描いて端王が蹴った毬を、取り巻きの一人が足をめいっぱい伸ばして蹴り返した瞬間、高毬は、短く息を吸った。あらぬ方向にびゅうと飛び上がった毬は、大きく端王の頭上を越え、見守る人の群れの中――高毬の足元に、ただまっすぐ、転がって来た。
 「ふ……!」
 迷いはなかった。毬に当たらぬようにと人波が割れ、ただまっすぐに、端王が見えた。毬を右足の爪先から踝の内側にまわして低く蹴りあげ、左足の外踝で今度はもう少し高く蹴りあげる。その隙に大きく振りあげた右足の外踝で弾いた毬は、まるでそれが定めであるかのように、ただまっすぐ、端王の足元に再び従う。鴛鴦拐――高毬が最も得意とする技のひとつに、漣のような歓声があがる。そしてそのどよめきの中に、鳥の羽ばたきのごとく軽やかな声がはずんだ。
 「お前……お前は、何者か?」
 どこの誰とも知れぬ男が見せた見事な技に息を詰める取り巻きたちの間から、高毬は静かに進みでて端王の前に平伏した。
 「私は、王晋卿様の近習をつとめるものです。主人の命を受け、玉の細工を二品、殿下に献上するため参りました。ここに書状がございますので、どうぞお確かめください」
 「義兄殿は良く気のつく御方だな」
 端王の優雅な手が高毬のがさついた手から書状と贈り物を取り上げ、そしてそれらは新しい主に一瞥もされずに使用人の手に渡った。
 「そなた、蹴鞠ができるようだな。名は何と?」
 「私は高二と申します。少しばかり毬を蹴るのを好みます故、周りは皆、『高毬』と」
 地に額をこすりつけるほどに平伏する高毬の肩に、端王の両手が羽根の如く舞い降りる。
 「そうか、そうか。では、こちらへ来て少し、蹴ってみよ」
 「な、何を申されます。私の蹴鞠の技量など、お見せできるほどのものではございません。殿下のお相手など、とても務まるとは……」
 「はは、謙遜が過ぎるぞ、高毬。先ほどの鴛鴦拐の技、私はしかと見ておった。彼らは斉雲社に属しておる者たちで、この集まりは天下円という、気ままなものだ。何の遠慮はいらぬぞ」
 王昇教頭をして武人たる資質なしと評された高毬だが、「機を見、世を渡る」という才に関しては飛びぬけている。これ以上辞退すれば端王の気を害すると察した高毬は、「では、恥ずかしながらこの高毬、少しばかり技をご覧に入れましょう」と殊勝な様子で遊び場に進み出で、日頃身につけた技の数々をあまねく端王に披露した。端王の蹴鞠技が毬を服従させるがごとき優雅さであるのに対し、高毬のそれはまるで毬を弄ぶかのごとく奇抜で華やかなものであった。足の裏側に消えたかと思えば肩の上に現れ、宙を舞ったかと思えば足首に吸い寄せられる毬の描く見事な花模様に、取り巻きたちからも盛大な歓声があがる。
 「ああ、なんという名技、なんという名手……ついに私の目にかなう男を見つけたぞ! おい、お前、宴の準備を。義兄殿をお呼びし、高毬を近習にいただけぬか掛け合おうぞ」
 愉快げに手を打ち鳴らす端王の、ひときわ突き抜ける竹風鈴のような笑い声が、高毬の背をじわりと包み込んだ。
 ――大宋国第七代皇帝・哲宗がこの世を去り、端王が第八代皇帝・徽宗と成ったのは、この日からわずか二か月後のことであった。


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